一宿一飯の恩送り
今でこそ旅行の際はきちんと宿泊先を予約してから出かけるが、学生のころ、つまり就職する前までは現地で行き当たりばったりで宿を決めていた。
旅行代理店で予約を受け付けている高級なホテルや旅館に泊まる機会など滅多にない貧困学生だったという事情もある。が、「まぁ、必ずなんとかなる」と宿探しについては根拠のない自信をなぜか持っていた。
当時は日本国内を「青春18きっぷ」で旅することも多かった。まだインターネットなどのない時代。下車した駅の構内に掲げてある看板で、または駅の観光案内所で、もしくはスマートフォンもアプリもなかった時代なので公衆電話にあるタウンページ(電話帳)で探しながら、投宿先を決めていた。
それでも、車内で出会って、ヒマにまかせておしゃべり相手になっていただいたオバサマに親戚の宿を格安で紹介してもらったり、雪深い厳冬の青森市でふらりと入った喫茶店のマスターに泊めてもらったりと、不思議となんとかなるのであった。
こうして見ず知らずの人から受けた恩をいかに返すべきか。それを考え始めたのが、前職の新聞社から内定をもらうため東京にいた時のことだ。
四国の田舎学生だった筆者は、この時は確か、会社から移動費用を出してもらって上京し、最終面接を受けて入社の意思確認を受けた。いつものように、どこに泊まるかを決めず、面接が終わったらどこか近くの安いビジネスホテルでも探そう、という程度に考えていた。
面接をすべて終え、「これで卒業すれば仕事にありつける」と安堵して浮かれた若造は、宿代を持ってひとり飲みに出かけた。
行き先は東京駅八重洲口側にあった「灘コロンビア」というビアホールである。貧乏学生にしてはオッサン好みの渋さだが、この店はオーナーの故・新井徳司氏がビール注ぎの名人で、酒呑みには夙に知られていた。
旧型のビアサーバーを二重に連結して注ぐ生ビールは、どんな店よりもキメの細かい泡が特長だった。マッチ棒を刺しても倒れず沈まないほど、泡の密度が高いのだ。黄金の液体をすべて飲み終えても、はじけない泡がグラスの底に残るほどに――。のどごし良く何杯でも飲めるうまい生ビールは、作家・椎名誠先生をして「日本一」と言わしめたほどの店だった。
この日も8〜9杯を空けたと記憶している。その店で、常連とおぼしき40代のオジサンと意気投合した。一緒になってビールを絶賛した後、東京のうまい店を若者が教えてもらう格好となり、その中で「ジョージの店」というのに興味を示したら「これから行ってみよう!」と誘われた。
歌手・鈴木聖美の名曲『TAXI』の冒頭に出てくる「TAXIに手をあげて/Georgeの店までと」のモデルとなった六本木にある店だという。旧防衛庁跡地の片隅に建つ小さなバー「Georgeʼs」は、カウンター席と年代物のジュークボックスがあるだけの質素な構え。
だが、ママの魅力と人徳でベトナム戦争時代に黒人米兵が集まり、「日本最古のソウルバー」と呼ばれ伝説の店となった。初めて訪れた六本木の、曰く付きのバー。その雰囲気に痺れた若者は深夜まで痛飲した。
オジサンに「今晩、どこに泊まるんだ」と言われて「未定です」と答えると、「じゃあウチに泊まっていきなよ」という展開に相成った。
たどり着いた目黒のオジサン宅では窓以外の三方の壁を書棚に囲まれた書斎とおぼしき部屋に布団を敷いて寝かされた。起床すると奥様が朝食を用意しており、ご夫婦と一緒に頂いた。根っからずうずうしい筆者もこれには恐縮した。何のお礼もできません、お邪魔して本当に申し訳ないです、などと思っていることを伝えると、オジサンはこう言った。
「日本人は、これが本当は当たり前なんだよ。オレも若い時にいろんな人に世話になった。君も機会があったら、オレへのお礼の代わりに若者を世話してやってくれ」
さりげない豪気がとても格好よかった。結局、後に礼状を出した以外は何もできなかったが、筆者は以後、この教えをできるだけ守るようにしている。
今や「人を見たら泥棒と思え」的な世知辛い時代になり、ネットやスマホが普及して国内外を問わず宿泊予約が容易になり、場当たり的に泊まる宿を決めることはほとんどなくなった。
だが、困っている人をちょっと助けるだけで相手の旅や人生を豊かにできる。一宿一飯の恩送りは旅人にとっての素晴らしいギフトだ。
(了)
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