学びは辛さを伴う

いきなり大それた題名であるが私は日に日にこのことを強く感じることがある。

世間一般ではよく学ぶことの楽しさや、学びのポジティブな側面が強調されることがある。私はもちろん学ぶことの楽しさを何度も感じることがあったし、学んだことによる効果も実感できるような物も多少なりとも受け取ることができた。学ぶ事は大切だ。

しかし、それ以上に私は学び続けることはいばらの道への入り口だと思っている。

その理由を主に3つ挙げて述べていきたい。

1,自分の無知さに打ちひしがれる

第一の理由はこれだろう。自分が学んでいけばいくほど自分がいかに無知であるかと痛感する。知らない分野や事柄などを学習をしていると、そこにいくつもの知らない単知識が壁として目の前に立ちはだかるのだ。

例えば、ある日私は法哲学について興味を持ち本を手に入れて学んでいくと、そこには功利主義や帰結主義という哲学用語はもちろんのこと、限界効用低減の法則など経済用語まで出てくるのである。他にも集合や統計などの数学の分野まで絡んでくる。

効率が良い人や優秀な人は分からないで読み飛ばしたり、直ぐに理解して読み進めることが出来るだろう。だけど私はあいにく、優秀の正反対にいる人間である。正規分布で言えば外れ値の-2σ、下手したら−3σあたりにいる人間である(いま数学用語を使ったがバリバリの文系人間である。例え背伸びしてでも、カッコ悪いと思われようとも、数学が出来ることへの憧れが残っていて数学的な概念をこなれた感じで使いたいのだ。)。


話はズレるが、今はどの学問分野も直接的でないものだとしても数学が絡んでいない物を見つける方が難しいだろう。政治学や歴史・地理まで今まで文系分野だと思われていたものが確率・統計的手法を使っているのを目にする。確か早稲田大学の政治経済学部も受験で数学が必須教科になったというのをニュースで目にした。数学が苦手な自分にとってまさに辛い時代になってきた。何度も数学を理解したいと勉強したが何度も挫折した。数学は積み重ねが物をいう。繰り返し作業が苦手で物事の興味があちこちにいく自分にとって、そのせいか数学は高尚で近寄り難い物というイメージがつきまとう(あと数学嫌いの元を作った中学時代の数学の担当が嫌いというのも要因のひとつ)。本当に数学を自在に使える人間に尊敬の念を抱く。


脇道にそれたので本筋に戻すと、要は私はその突如として出てきた概念がどういうのか知りたくて仕方がないのだ。読み飛ばせばいいものをどうしても気になって読書が進まないのである。そして、それを調べるとまた知らない言葉・概念が出てくる。そうなるともう地獄の始まりである。どんどんと脇道に逸れていって結局は自分が何を学んでいたのか分からなくってしまうのである。そして、得たものと言えば半端な知識である。

そして、この半端な知識を沢山持っているが故に、芋づる式に知らない物事が沢山自分の目の前に立ちはだかるのである。一の知識を得ると十の知らない事が出てくる、そんなイメージである。

その結果自分の状況がどうなったか。読んでいない本が大量に眠っているのである。私はKindleと紙の書籍合わせて五千冊ぐらいあると思うのだが、おそらく1割も読めていないのではないだろうか。

世間の私と同年代の人間なら旅行や美容にお金かけるが、私は読まないであろう書籍に殆どを費やしてきた。もっと有効活用できればなと常々思っているが自分の性格上さらに死蔵する本が増えることだろう。

以上をまとめると、

学ぶことの辛さの一つは自分がいかに無知であるかというのを突きつけられるということである。

そこでは学んで得た喜びなどシャボン玉のようにすっと消えて、代わりに途方もない道があるということを知ることとなる。

2,現実と理想のギャップによる失望

これは最初の理由と少し似ている。学ぶが故に理想が出てくる、学ぶが故に不満が出てくる、学ぶが故に憧れや嫉妬などあらゆる情念や思惟が湧いて出てくるのである。

そうするとどうなるか、自分の現状が理想とかけ離れていて失望してしまうのである。


理想の自分はこうだ。

数学や物理など抽象的な概念を理解する能力があり、好きな時に学問や趣味に打ち込んで、いろんな人間と建設的な関係を築き幸せな人生を送っている。


では実際どうであろうか?

数学は何度も挫折して、嫌なことに追われる日々、コミュニケーション能力もないから他人とは打ち解けられずにいる。


正直自分が学ぶことをしなかったら、理想の人生はどこか遠い御伽話で実際には自分とは遠い世界の話であると思っていただろう。

しかし、色々と学んで自分の人生ここままでは駄目なんだと、もっと自分にはできるはずだと思った瞬間、いばらの道へ突入である。

理想を抱くのは現実の自分が持っていない、なし得ていないことで初めて起こる。


まず理想を抱くことで起こる最初の過程で自分は現状に不満を抱く事だろう。自分はもっとできるはずだ。こんなところにいる場合ではない、そう思うはずである。自分のあらゆる環境に嫌悪感すら抱くはずだ。


そして次に起こる事は理想に向かってひたむきに走るが、その度に壁が立ちはだかるという事である。理解できない、上手くできない。自分の無知さ無能さに絶望を何度も味わう。

何故自分はここまで出来ないのだろう。あの人はあんな簡単にできるのに。嫉妬と失望の感情が自分を支配して蝕むようになる。こうなってしまったら自己肯定感などあったものではない。四六時中からだのあちこちに苦しみという枷としてつけられている気分である。


そして最後がいざ理想に到達したらこんなものかと肩透かしを食らう事である。なんか求めていたものと違う。これだったらもっと充実した事を他にやっていた方が良かったのではいか。いいや違う。自分の理想は実際は小さいものだった。もっと大きなことを成し遂げないと本当の充実感は湧いてこない。そう思ってまた大きな理想や目標をもつ。そして、休む暇もなく自分を理想へと駆り立てようとする。


誤解して欲しくないのだが理想を求める事はいい事だ。否定はしない。人類の歴史はそれで前進してきたのだ。私がここで言いたいのは理想を抱くことの負の側面を知って欲しいということである。私にも自分の理想があり夢がたくさんある(とてもちっぽけなものだが)。その分上記にあげた苦しさがつきまとってきた。


人間は言葉が使え、思考が出来て、目の前に存在しないことを抽象化して想像ができる。人類はそうやって文明や文化・社会を生み出し発展させていった。それと同時に言葉によって作り上げた抽象的な概念によって苦しみを受けるようになった。

「幸福」「夢」「理想」「常識」これらは全て抽象的な概念で実際には実在しないものである。「君は常識がなっていないね」「夢や希望がないなんて意識が低いね」「幸福な人生はこうである」。みんなも一度は聞いたことがあるだろう。

しかし、これらは本来存在しない物である。それを人類が今までに開発した言葉・概念を用いて意味付けしているのである。我々は呼吸するかの如く行為や状況に意味付けして抽象的な概念をラベルを貼って善悪や上下など判断して、ときには喜びときには悲しんだり苦しんだりするというのを繰り返して生きているのである。私も含め人間である以上、この人間の性というべきものから逃れれるものではないだろう。

そして、いきすぎると国や人種といった実際には実在しない概念を悪意ある形で利用して、敵意を向け殺戮を繰り返してきた。人類の思考というのは多大なる恩恵があると同時に危険が孕んでいるのである。


話がだいぶ逸れてしまったが(何度もこの言葉を書いているが今後も話がそれるのでご容赦願いたい)以上まとめると、学ぶ上で辛い出来事は理想と現実との差に失望するということである。

私は他人に対して人生を矯正できるほど出来た人間ではない。例え自分の価値観に合わない人間がいたとしてもその人にはその人の見え方や生き方があるのである。もちろんアドバイスや助けを求められれば必要に応じてサポートしていきたいが、自分から進んで助けるなど出来ない。特に相手が望まないなら尚更である。

3.周りの人間との歪み

そして、最後の理由が周りの人間と合わなくなり孤立していくというものである。何故なら、一般の人から見て別に考えなくてもいいもの、人生で一度も考えることがないであろうことも考えてしまうからである。例えば、この言葉遣いはこの使い方で合っているのだろうかとか、ここは論理的に考えておかしくないかとか一つ一つに整合性を求めてしまう。

するとどうなるか。

いわゆる”空気”というもが読めなくなる、合わせられないということが発生する。

そうすると他人といることが苦痛となり、最終的には孤立という道を選ぶだろう。


天才はずっと好きなことに没頭できるので多少の居場所はあるが(もちろん天才には天才の苦悩があるだろう)、凡人みたいな私は一人にもなりたいが、かといってずっとひとりにはなりたくないし周りと対立したくないと思っている人間にとっては地獄である。私はずっと極端な天才になって周りの目を気にしない人間か世間の価値基準(大学に入って、それなりの企業に入って、結婚をして特に苦労もなく老後を迎えていく人生)になんも苦労もなく沿った人生を歩める人間のどちらかになりたかったのである。

話はズレるが(もう定番なので許して)、昨今アドラー心理学が流行っていて嫌われる勇気をもとうと述べている人たちがSNSでよく見かける(承認欲求を捨てようとか、我々は目的論で生きているとか。あとは劣等感の概念。詳しくは知らん)。しかし、これに対して私はこう思う。

それが出来たら苦労はしねえよ!


確かに言っている事はごもっともだ。しかし人間も生物の一種。人間は長い間群れを成して生活してそして互いに助け合いながらなんとかして生存してきた。猿人まで含めれば5000万年以上からである。すなわち群れから追い出される=死に直結していたのである。

一人で周りの助けも入らず必要最低限のもの(衣食住)が揃えられる環境(顔見知りがいなくても生活できる環境)になったのはここ100年も満たないだろう。それを考え方一つでどうにかできるなんてそれこそ外れ値の人間しかできないだろう。あのブッタで何十年とかかったのだから。

ちょっとアドラー心理学をディスる形になるが、そもそも目的論という概念もこじつけに近いと私は思う。カール・ポパーが喝破しているが結局どんな現象にも”目的論・劣等感”という概念を用いて説明を加えるが、反証可能性に晒されていない時点でそれは空虚な論理でしかないのである。そのフレームワークに囚われていて逆に視野が狭くなっていくのではなかろうか。

話を戻そう(ぺこぱ風)。以上のように、学習をしていく上で辛いことの最後の点は孤立していくことである。

私は案の定孤独になっていった。今は割と慣れてきたが(それでも辛い)当時は精神的に疲弊していた。よく「孤独の良さ」についての本を読みあさっていて慰めていた。ヘッドホンは必需品だった(自分の世界に入るために)。夜とか突如涙が出てきたりして泣いたりしたこともあった。リア充とか本気で爆発しろとか思っていた(もうこのネタって古いかな?)。

かなしいかな。それでも自分に素直に慣れなくて平気な風を装って自分は孤高の存在だとか一人になれない奴はどうしようもない自分に芯がないやつとか言い聞かせていた。

本当は仲間が欲しかったし、独りでずっといることに耐えられなかったのに、ずっと自分に嘘をついていた。


今は割と素直になり、ここで孤独で辛かったとかけるが、昔の自分はそんなことできなかったし、そんなことをしようものなら自分の存在というものがなくなるとさえ思っていた。


さて最後に総括してまとめよう。

学習する事はとても辛い。いろいろな見たくもない避けて通りたい経験をたくさんするからである。嫉妬、絶望、孤独、苦悩。色々な感情が自分の中から湧いてくるだろう。私は他人に学習を強制する事はしたくない。



しかし、それでもあえていう。

学習する事は大切だと思う。散々ネガティブなことを書いてきたが、経験も含め学習こそが可能性を広げてくれる唯一のものだと確信している。様々なネガティヴな体験をしたとしても、得るものが莫大なものそれが学習であると思っている。


私は今後も学び続ける意欲は失わないだろう。


長くなったがこれで終わりにする(ここまで読んでくれた人は毎度のことながら変人と暇人である)。







追記:今日『罪の声』観に行った。とてもよかった。日記に書きたいけど今日はおそらく時間がないから明日書きたい。あと鬼滅の刃も観た(これで三回目である)。












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