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習作

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盈虚

盈虚

 今日もまた一睡もできなかった。暁暗を引き裂くようなカラスの声がひとつふたつと聞こえる。それが引き金となったかのように、遮光カーテンの隙間から覗く空はしだいに白んでゆく。
 春眠暁を覚えず、などと歌ったあの詩人はさぞ能天気な人物だったに違いない。春こそ不眠の季節であるというのに。逆に、春はあけぼの、と歌った清少納言は私と同じく、春には不眠に悩まされていたのだと思う。春は、あけぼの。能天気な人物に

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おこさま

おこさま

 仕事から帰り、玄関のドアを開けると、妻の不機嫌そうな顔が私を出迎えた。思い当たる節はないが、私はできるだけ妻を刺激しないように、玄関のドアをゆっくりと、音を立てないように閉めた。蝉の声がすっと遠くなる。キッチンの方からは、肉じゃがの甘い香りが漂ってくる。
「ただいま」
 私が恐る恐る言うと、妻は、
「おかえり」
 と言い、それから子ども部屋の方に視線を移して、あからさまにため息をついた。

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恋慕と義憤

恋慕と義憤

 少年は激昂した。この世の不条理を、彼の瞋恚の火炎で焼き尽くそうと決意した。
 今朝のホームルームでのことである。担任の山岸が、まあ、うちのクラスの生徒ではないと思うんだけど、と前置きした上で――これは枕詞のようなもので、彼が本気でそう思って言っているわけではないということは、生徒の誰もが知っていた――、おおよそ次のように言った。
「昨日、近隣の方から苦情のお電話がありました。どうやら、うちの

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斜光(5)

「橋本さん、今日は引き取りが二件だから、よろしくね」
 私の面接を担当した佐々木さんが、何気ないふうを装って言う。よろしく、ということは、私が担当しなければならないのだろう。

斜光(4)

 空はまるで鏡のように澄明で、ところどころに刷毛ではいたような雲が散っている。季節の割に日射しは強く、皮膚をちりちりと刺激するが、冷たい風が小火を消そうとするかのごとく私の全身を撫ではだく。風は、猫の鼻のような冷たさであった。

斜光(3)

 猫の声に揺り起こされて時計を確認すると、すでに正午を過ぎていた。朝日を見た記憶はあるのだが、どうやらいつの間にか眠っていたらしい。今日は土曜日だから仕事はない。