【半径3メートルの世界】 クリアにしなければならないこと
「今日、びっくりしたんだよ」
父が母に報告を始める。
毎晩交わされる離れて暮らす両親の電話でのおしゃべり。
私は母の傍で夕食を食べながら、二人の会話を聞いていた。
「今日ね、洗面所の鏡を見たら首に皺がたくさん入っていて弛んでいるのに気がついたんだ。こんなに弛んでいるなんて、びっくりしたよ。いやぁ、まいったな」
それを聞いた母は笑いながら言った。
「やだ、今までだって鏡に映っていたでしょ。急に皺が入ったり弛んだりしたわけじゃないのよ。それにもういい年なんだから仕方がないじゃない」
私はそのやりとりを聞いて笑いが込み上げる。
そして二人の会話に割り込んだ。
「ねえ、私が鏡を磨いたの。今までモヤがかかったみたいになっていたのを、鏡を磨いてね、クリアによく見えるようにしたんだよ」
そう、父の首の皺や弛みが父を驚かすことになったのは私の仕業なのだ。
父はそれを聞いて電話の向こうで大笑いをしていた。
「そうか、だからよく見えて初めて気がついたんだな」
父は一体、いつからあの鏡を磨いていなかったんだろう。高齢男子一人暮らし、そう頻繁に鏡を磨くことをしていないということなのか。
「それで、ダンスで一緒のマダムたちに、首の皺と弛みが多くてまいったって言ったら、ハイネックのセーターを着ればわからないから大丈夫って言われたよ。これからはハイネックのセーターを着ないとな」
父は、存在するものを隠す方向で対応することにしたようだ。マダムたちにいいことを教えてもらったとばかりに、嬉しそうに話していた。
この世界には、はっきりクリアにしなければならないことと、クリアにせず、曖昧にしておいてもいいことがあるのだと思う。
若い頃はなんでも白黒はっきりさせないと気が済まなかった部分を持ち合わせていたけれど、今はそれが十分に和らいで、曖昧な、グレーなまま放っておくことも多くなった。
クリアにすることで息苦しさを感じることもあるということに気がついたからか。
クリアにしたからといって、結果的にそれがいい場合ばかりではないということを経験したからか。
クリアにすることで相手を傷つける場合もあるということを知ったからか。
いずれにしても、クリアにするべきところと、そうではなくてもいいところとが、判別がつくようになったということなのだと思う。
これを、「大人になった」というのかも。
鏡、磨かなかった方がよかったのかな。
私はふと思う。
あのモヤのかかった鏡のまま、父にとっては別にはっきり見えていなくても十分だったのだ。
6年ほど前、白内障の手術を終えた父が
「空がこんなに青かったって、気がついてなかった」と笑って言っていたのを思い出した。
鏡がクリアになって眺めた自分の顔も、結果的には青空を発見した時のように笑って受け入れているようだったので、私はちょっぴり安心した。
だって、あの鏡を、私は私のために磨いたのだ。
東京に帰るのにお化粧をしたくて鏡を眺めたら、どうしてもよく見えない。それは鏡のせいだけではなく、私も年齢を重ねて目が追いついていかなくなったせいもあるのだが。それで、少しでもよく見えるようにと鏡を磨いたのだった。
父も現実を見つめて、もっと身だしなみに気をつけて若々しくいようと思ったみたいだし、モヤのかかった鏡よりはクリアな鏡に姿を映したほうがいい。
人生においては曖昧にする部分がたくさんあったとしても、大人になったからこそ、身だしなみに気づかうためにも鏡はクリアの方がいいよね。
また今度父のところに行ったら、そっと鏡を磨いてあげようと思う。
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