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思い出のパッケージ

私の通っていた小学校が今新しい校舎に建て替え中らしい。
それに伴い、取り壊される旧校舎が1日開放され、卒業生限定で最後に見学ができる。というイベントを突然知った私はスケジュールを空けて訪れることにした。

当日、実際に登校していた門からくぐり、1つ目の校舎へと入った。
下駄箱、廊下、階段、水道、教室、と続き、一つ一つじっくり見ていると懐かしさは感じつつも完全にこれだ!という確信的な思い出し方はしなかったのだが、歩いていくうちに「この廊下を抜けるとあの教室に出そう」「この扉を開けた部屋の床は緑色のはずだ」という連続性によって、記憶が次々と掘り起こされていく感覚が面白かった。予知能力者のようだった。

次に教室の中に入ると、まず「床が上昇している。」と感じた。
想像以上のロッカーや窓枠の低さがそう感じさせたのだが、その原因は当然自分の身長が伸びたことによるものだ。頭ではわかっているのに、自分側が変形しているとは体感として受け入れられないトリックアートのような状態である。

最も懐かしさを刺激されたのは、壁や地面、手すりなどの材質である。
訪れる前から、教室や机のレイアウトはなんとなく映像として覚えていた。
しかし、現物を見ると映像には上がってこなかった、木製の手すりの摩耗具合、一部金属になっている廊下の質感、天井のザラザラした模様、が記憶を強烈に刺激した。自分の記憶には質感が欠落していた。記憶の高画質生データを見れた気分でお得感があった。

そして何より、印象に残ったのは「見学者たち」である。
私の小学校は100年以上前から存在していているため、(もちろんその間に増改築は繰り返されているだろうが)この旧校舎を知っているあらゆる世代の卒業生が一堂に会していると言える。事実、見学者は年配の方から、親世代や高校生、在学中の子供達まで旧校舎をうろうろしていた。

本校舎3階、高学年生の教室付近に設置されている渡り廊下を訪れた。
するとそこには、制服を着た高校生や子連れのお父さんなど見た目バラバラな人種が皆同じように、両サイドにある白い柵の下の部分に足をかけ、身を乗り出して外を見渡し少しだけ前後に揺れていた。
目立って変な行動ではないが、年齢に対して少し無邪気な動作を目の当たりにした私は、その瞬間「みんな10歳の自分を下ろしている」ように見えた。
俯瞰して見ると年齢が異なる人たちが、内側では時代を超えて同い年になっている。その光景がやけに面白かった。確かにその渡り廊下で、私もよく5年生の頃に足を柵にかけ、校庭を見渡しながら友達と話していた気がする。

ただそれは私の思い出だと思い込んでいた。しかし今目の前に、自分と同じ思い出のパッケージを持っている人が大量にいる。もっと言えば、私が小学校に入学した頃には、私がこれから体験する未来の思い出を既に所持している人たちが存在していたことになる。
生まれてから今まで、その場所その場所で誰かと同じ記憶を共有している。そこで生まれる考え方や価値観もある。それらの思い出のパッケージの組み合わせで自分オリジナルな人生が形成されていたいうことを実感できた。

その渡り廊下で、きっと在学中であろう4年生くらいの少年に話しかけられた。が、すぐに走りさって消えてしまった。彼は残りの小学生生活は新しい校舎で過ごす。私と同じここでの思い出のパッケージを持つ人間が今後現れないという寂しさと、ここまでの卒業生にしか共有できなくなっていくことに思い出に希少価値が出てくるのを感じた。私はこれからどこで誰とどんな思い出のパッケージを共有していくようになるのか楽しみである。

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