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「全ては人の問題」で思考を止めない。

「結局人だよね」
「最後は人だよね」
「全ては人だよね」

組織で働いていると良く聞く言葉であり、良く感じることだと思います。これに反論する人はそう多くはないのではないでしょうか。

社会人最初のキャリアとして入社した会社で、営業志望ながら総務・人事部に配属された私。3年後の転職の際に、外資系人事コンサルのドアを叩いた時、どうにか合格したかった私はおそらく同じようなことを言った(言って何とか面接を突破しようとした)と記憶しています。

はて、26歳の私はその時、いったい何をもって、「結局は人」と言い切ったのか「人を、経営をどう捉えていたのか」クリアに思い出せません。今も「Talent is Everithing」と思いますが、その「人」に対する捉え方は年々変わっていきます。老いていく両親、自分。成長する子供。友人との付き合い、コミュニティの成熟/衰退。そしてやはり、情けなくも自分自身の不徳を知って更に「人」を知る循環を感じています。「人」を知る、というチャレンジは原理原則はあれど、そんなに簡単なことではない。どちらかというと禅問答に近いと考えています。

そこで、思ったこと。「結局は人だよね」という反論の余地のない極論に簡単には逃げてはいけない、のではないかということです。

なぜならこの言葉は「それをいっちゃおしめーよ」という類のもので、そこから先に進めなくなってしまう、思考停止になってしまう可能性があると感じているからです。極端な例で言うと「友達は大事にしよう」「平和は大事」というレベル感。

今、自然界を牛耳っているのは人間だと言って差し支えないと思いますが、地球の限られたリソースの中で、自分たちができること、望むことをベースに、自らが考えるプライオリティの中でゲームを展開しています。SDGs。地球の行く末も人次第。そりゃあ、もっと小さな単位の会社だって人次第ですよね。それだけ言っていたら何も始まらない。自分たちが今できることを考えて実行することにこそ意義がある。

この数年、私たちは「人は数千年前からあまり変わらない(学ばない/学んだところで制御できない)のでは」と考えさせられてしまう出来事も目の当たりにしました。自然災害への向き合い方。繰り返される戦争。率先したい人。止めたい人。また、テクノロジーの進化により情報の量や質が格段に向上しても、人間そのものが処理できるキャパシティは変わらない。皆がGoogle先生を手にしても、ChatGPTを手にしても、それを操って、何かを感じ、何かを意思決定して、行動するのは人間。これも「Knowing-Doing Gap」な気がします。

感情を持つことが人間の強み(特徴)であり、弱みなのでしょうか。
仕事をしていて、自分がロボットなら良いのにな、と思うことも良くあります。都合の良い時だけロボットに変化するボタンが欲しい笑。でも、私たちは浮き沈みを繰り返します。

そんな人を御するものとして発明されたのが法であり、組織であり、プロセス・システムなのかな、と思います。これこそが私たちができること。工夫のしどころ。汗のかきどころ。それにより社会は成熟した。名著「FACTFULNESS」が示すように社会問題の根本的な状態を示すKPIの多くは改善されています。

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今働いている組織で起こっている問題の全てを「人」で片づけたくなる時があります。「人」の問題であることは間違いない。でも、手を付けるべきは、その「人」がどうしたら、より良い状態で仕事ができる仕組み・プロセス、カルチャーを作るか。組織に属する人も、階層、役割、バックグラウンド、いずれも多様であり、人の問題を簡単にはカテゴライズはできないはず。

人は朱に染まります。

だとすると、今より良い景色が見えた時、良くなる実感を持った時、マインドセットや行動は変わることがある。人の根本は変わらなくても、です。

戦略は、戦術は、プロセスは。

「人の問題として止まらずに」やれるところからやってみたいですね。

いやでもやっぱり、最後は「人のやることだから」と(事象も相手も自分も)赦したくなる甘い自分もおりますが笑。

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