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#79 過去と和解するための哲学

みなさんは、どうしても思い出してしまう逃れられない過去はあるだろうか。
その過去に引っ張られて何かをしてしまう、何かをできないということは?

そんな過去と未来と自分とを考えることができた本でした。

その中で個人的に興味深かった部分を紹介します。


未来を考えるのが苦手

人間は未来を考えることが苦手だと著者は言う。
過去を振り返ってそれを未来に投影したり、過去を加工して未来としたりする。
過去と未来は対称的ではないのに、と。

思い当たる節があります。
自分の未来を想像した時も、誰かの将来を想像した時も
自分かないしは本や物語、友人の過去から想像しています。

例えば、宇宙飛行士になりたいと思ったら
宇宙に行ったことのある人の過去を調べる。
※「そもそも宇宙飛行士になりたい」ということ自体が過去なのだが。

だから、子供の将来を考えたときに
「安定した仕事につきなさい」「まずは良い大学に」って思ってしまうのかな
と思いました。

何十年前の人はyoutuberなんて職業が生まれることすら想像しなかっただろうし
車を持たない生活なんて想像すらしなかっただろうし。

けれども未来というのはそういうことなんだと思います。

そうなった時に、参考図書として引用している過去ってなんなのか。
どこまで重要なのか、大切にすべきなのか。

未来を考えるという行為の意味から考えた方がいいだろうと思いました。
自分で思いつく未来は
きっと何かしらの関数に過去と現在をプロットしたものに過ぎないのだから

記憶の”タグ”

大きな引き出しを作って何でもかんでも入れ込めば、整理する時間は少なくて済むが、細分化した方が情報は取り出しやすく、何度でも活用しやすい。

過去と和解するための哲学

そしてそのように記憶したものを「断捨離」という形で整理する。
しかし、物の整頓と違うのは断捨離で二度と取り出せなくなるのではなく
大きな不用品箱に移すだけで、もう一度取り出せてしまうことだ。
と筆者は言っています。

ビジネスの中でも、このように記憶しておくことが大事だと思っています。
本をいくら読んでも、偉い人の話をいくら聞いても
必要な場面で取り出せないと意味がない。
そういう意味で、記憶のタグをしっかりつけておいて
整頓された棚にしまう。

じゃあ、消せないような思い出したくないような記憶はどうでしょう。

ここからは個人の意見ですが、
どの記憶にもタグはついていて、
使っているタグと使っていないタグの違いなのかなと思います。

だから、想定しないタイミングでタグが作用して
不要品箱に入れたはずの記憶がフラッシュバックする。
それが自分を縛ってしまう。

そういうことなのかなと思います。

だとしても、タグを外すことなんてきっとできなくて
記憶が呼び起こされることを理解し、知っておくことしか
私たちにはできないのかなと思います。

現在の源流としての過去

過去と未来と現在の関係性について、
みなさんはどう思うでしょうか。

私は中学生の時に英語の先生が
過去形、過去進行形、現在形、現在進行形、未来形、、、なんて
図にして教えてくれたのを思い出しました。
※これは一体なんのタグなんでしょうか。

本書では過去は「源流」だとしています。
過去があるからそこから生まれいづるものが現在であり未来

言われてみればそうなのですが、
私も含め、過去を乗り越えるとか、過去を消し去りたいとか
思ってしまうことってないでしょうか。

でもそれは源流なんです。
そこを仮に消してしまうと現在は存在しなくなる。
そういうものなんだと思います。

端的にかつチープにいうと、
過去のその辛い出来事があるから今の自分がある、ということだと思います。

当たり前なんですが、
過去との和解の仕方はきっとそれしかないんでしょうね。
その当たり前の事実を心から理解することです。


読んでいて、非常に難解でした。
きっと哲学や倫理学の用語と思しきものがたくさん出てきました。

けれど、読めばなんとなく文脈がでわかります。
英語の長文読解のように。

それは、私たち自身ことについて探究し続けてきた学問が
倫理学であり哲学だからかなと思います。

結局、私の身に昨日起こったこととか
友人に去年起こったことを突き詰めていったものだから
手触り感を持って理解できるのかなと思います。

その先人たちの叡智を自分の引き出しにきちんとしまって
この現在を未来に向かって生きていこうと思いました。


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