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自由連想 #2 『美しさ』

「命は美しい。

 だけれど、そこに付随する生活がどうしようもなく汚い。

 たとえば花を見たとき。心清らに、ただ、綺麗だと思う。赤も、青も、薄桃色、紫、橙、光色、どのような色であっても、そこにあるだけで存在を肯定される。

 しかし、それは人が花の生活を知らないからだ。見ることができない故、花は美しいと思いこむのだ。土の中に必死で根を伸ばし栄養をとること、隣り合った植物との競争、虫に傷つけられたこと、そんなものを知ってしまったらたちまち醜くみえてしまうのだろう。見てしまったら興醒めだ。

 ——このことからはひとつ、考えられることがある。

 美は距離がつくる、ということだ。

 すべての美しさはまぼろしなのだ。遠くに本当の姿があるせいで、霞んでしまって、私たちはその姿を想像で補っている。その実像と偶像の解離に美しさが生まれるのだ。


 ここまでは命あるものの美しさの話をしていたね。美の対象の生活を、内側を、心を知ってはいけない。距離を保つべきだ、と。

 命のないものはどうだろう。空や、海、宝石、私たちを薄く差す光。これらには醜い生活がないから美しさを感じやすいと思う。どんなに近づいても生活の匂いがないから、全身で美を享受できる。

 ただ、もちろん命がなくても距離がなければ意味がないこともある。たとえば絵画や舞台美術、あれは対象と見る側との距離があるからこそ生み出される美しさだったりする。

 絵画、そう絵画。気をつけなければいけないのは、芸術は人がつくる、ということ。絵画、音楽、建築、彫刻。

 人の意識よって生み出せれたものには、人の心が宿る。その心が醜かったらどうするんだ。好きな作品がとんでもない愛憎劇から生まれた欲求の塊だったらどうする。作者が人非人だったら。ただ私たちは作品だけを受け入れればいいんだ。どれほど美しくて、興味深くても、決して芸術の裏側を知ろうとしてはいけない。



 話が、長くなってしまったね。

 言いたいことは、つまり、

 あなたは人として、とても美しいけれど、私はね、あなたのことを知ってはいけないんだ。

 あなたは人だから。

 整った綺麗な顔も、細く長くそして白い手足、指先、曲線をつくる体すべて、声も、髪も、その涼やかな目元。心からすべてを美しいと感じる。

 でも、あなたは人だ。生活がある。見てはいけない。だけれど、私はどうしてもその美しさから離れられない。醜い。命ない美しさのようにあなたを手に入れたい他の人のものにしたくない私だけものこうして触れた髪の艶やかさに心が震える決して触れさせてはいけない他の人に私だけの私だけのあなたであるべきだ知りたくない心なんて無ければいい曇りのないその目も濡らしたまつげもすべて

 ……方法があるんだ。あなたの美しさを永遠にする術が」

「ひとつだけ、質問していい?」

「なんでも聞きなさい」

「あなたのしようとしている命ある美しさを永遠する方法、ではない、生活の醜さを超える方法を知っている?」

「いや、ひとつしかない。これしかないんだ」

「その美の対象を愛することよ。愛していれば、許せるの。食事も生理現象も、多少の心の翳りも、そういったあなたのいう生活の醜さを許せてしまうのよ。

 芸術だってそう。たとえ作品の裏側にどんな汚い思いがあっても、作者が悪い人でも、そんなこと気にならないくらい。

 愛は許しよ、愛するということは許すことよ、そして許すというのは受け入れる、ということ」

「愛は万能だな」

「あなたは私を愛していないの」

「愛していない」

「そう、私は死ぬのね」

 


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