超短編小説 『底のない美しい花瓶』

「ねえ、今夜、空いてない?」
「いいよ、ご飯食べようか」
「……じゃあ、北口ね。私、少しだけすることあるから、先、待っていて」
 
 私は大学構内、学部棟の廊下ですれ違ったあなたに声をかけた。あなたは少しも不思議そうな顔をせずに、私の心を覗き込んで、ただ頷いた。胸元の白いシャツが窓から差す光を反射して眩しかった。窓の向こうには、西に少しだけ傾いた太陽と、綺麗な青空。その雲のない青さは、今年も終わることと、冬が始まったことを告げていた。

 夜の少し手前、先に帰っていたあなたを待たせないように、急ぎ足で駅へ向かった。
 駅ビルの一階にある大きな柱の前であなたは待っていた。ああ、これ、木だったんだ。私は初めて、柱の周りが植木鉢状になっており、いくつかの細い木が植えられていることに気がついた。
「どこ、行こうか」
「食べたいものあるの?」
 建物から出ると、あなたは少し寒そうにして、手をコートのポケットに入れた。
「ううん、少し歩こう」

 中道通りや昭和、大正通りまで何となく二人で歩いたけれど、結局、駅前の居酒屋が立ち並ぶところの、適当なお店に入った。

 あなたはワインをデカンタで注文して、空のグラスが二つ並んだ。ワインがテーブルに届くと、そのグラスにあなたは注いでくれて、無言でグラスを合わせた。
「へえ、私が好きなの、知ってたんだ」
「いつもワインしか頼まないでしょ」
 そうだね、ありがとう。頭の中で納得し、イタリア風の創作料理が置かれるのを見ていた。
「で、どうしたの」
「何でもない。ただ、ご飯が食べたかっただけ」
 私はひとこともご飯を食べに行こう、とは言っていなかったけれど、ただの一瞥で私はあなたの思い通りになってしまう、あなたのずるさ、そして私の弱さが憎かった。
「そういえばさ、あの子は元気? 先月にやめちゃった子。仲よかったよね」
「連絡先、変わってるみたい」
 そんな感じで続かない会話をした。


「でさ、人と動物の違いって、いくつかあると思うけど、僕はね、役に立たないものを愛することができるのが人だと思うんだ」
「役に立たないもの?」
「そう、絵画とか音楽。そういう芸術類がわかりやすいかな。だって別に絵が飾られていたからって、人が生きていくことには影響を与えないでしょ。音楽があったから、何になるっていうの。 包丁があれば食べ物を切れる。飛行機があれば遠くまでいける。冷蔵庫があるから、食品が長く保存できて食事に困らない。ね、こういうこと。それらとは違って、生活には何の役にも立たないのに、そこに価値を見出して愛することができるのが人。文化は愛おしい無駄の集まりだと思わない?」
「あなたは嫌いなの、音楽とか絵画」
「嫌いじゃないけど。そんなに嗜まないかな」
「じゃあ、あなたは人ではないのね」
「かもね」
 私は笑った。私は人だ。
「役にたたないけれど愛すべきもの 。なかなか哲学的な響きがする」
 そう言ったあなたの白く細長い指がグラスのステムにそえられて、ゆっくりと持ち上げられ、ワインが口に流れ込むのを不思議な気持ちで見ていた。「ガードレール脇の花」
 ……あ、言い過ぎた。
「現実主義的なことを言うんだね」
 あなたは苦笑いをした。
「じゃあ僕は、一人暮らしの部屋にある一対のコップ」
 と、続ける。
「——昔の写真アルバム」
「持ってるんだ?」
「いや、想像で言っただけ」
 嘘、実家にあるかもしれないし、それに、そんな驚かなくてもいいじゃない。私にだって撮られた写真の一、二枚はあります。
「タンスにある着られない服」
 この時間、と答えようとした。


「帰ろうか」
 あなたは空のグラスをテーブルの端に寄せた。縁についた赤い跡に目を奪われた。私はあなたにとって、役に立たないものであればいいのに。
 手元の、私のグラスに薄く残ったワインが愛おしかった。


 駅の前まできてしまった。より寒くなった夜空には、街の明るさのせいで星が見えなかった。緊張する。さっきまではまったくそんなことなかったのに。よし、言うんだ、言う、言う。
「待って」
 意識せず、手が伸びていた。おかしいな。けれど、袖をつかんだ私の手はゆるくほどかれた。あなたは私を見ているようだけれど、その目を見つめ返すなんてことはできないので、祈る気持ちでうつむいた。
「もう少し、一緒にいたい」
「帰らないと。もう遅いし」
「お願い、だめ? まだ九時でしょ、時間はある。明日は予定ないって言っていたじゃない」
 何も言ってくれない。何も言ってくれないんだ。どんな言葉でもあなたなら受け入れられるのに。たとえ否定の言葉でも。


 空白。私は怖くて怖くて、何か言わないと、でも、どうしたらいいの。何をしたらあなたとまだいられるの。


 そっと秘密の部屋を開けた。
「ねえ、私はあの夜のこと、忘れた方がいいの」
 話し出すと止まっていた時間が動き出した。何か言葉を言わないと、言い続けないと。途切れたらそこで終わり。何か、何か。ずっと耳鳴りがして、視界が白くて、何もわからなかった。あなたが呟いた言葉も聞こえなかった。
「ずっと寂しかったんです」

 どのようにして帰ったのか覚えていないけれど、ただふらふらとしていた。最後、改札の前であなたの気をつけて帰ってね、と言った顔も覚えていない、こんなことは最後なのに。

 何にも役にたたなかった。廊下であなたを待っていたことも、本当はちゃんとお店を調べていたこと、少しでも一緒にいたくて遠回りしたこと、中道通りから脇にそれた道の、コンクリートにつけられた猫の足跡を見せてあげよう、とか、その後あそこに行こう、だとか。きっと、私と体を重ねたことはあなたの気まぐれ、役に立たない。全部、全部、役に立たないし、役に立たない上に愛おしくなんてない。ただ虚しいだけ。何にもない。私も人じゃないみたいだ。
 私はコップの片割れに珈琲を入れ、それを飲み、吐き出した。


 何事もなかったかのように一日、そしてまた一日と過ぎるのだ。あの夜に、私が開けた部屋には鍵をかけた。そして鍵をなるべく深い記憶に沈めた。もう開かないように。なかったことにしようかな。あなたが後悔するよ、と言った意味がようやく分かった気がする。 

 数日後、あなたが駅前で花を買っているのを見かけた。笑ってしまうほどベタな赤い花。花なんて何の役に立つのだろう。それともあなたは人だったの。

 ああ、どうしようもないなあ。

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