【ホラー連載】 ココカラダシテ 第五顔
【これまでのできごと】
・ 2019年7月23日 19:11 陳野洋平は嘔吐した。
・ 2019年7月19日 22:25 水原恵は失踪した。
・ 2019年7月23日 21:18 角田雅彦はタクシー運転手だ。
・ 2004年8月8日 20時頃 宮司東太は姿を消した。
「……アホくさ」
ニュースキャスターの歪んだ顔を見つめながら、陳野洋平(つらのようへい)はただ一言、そう呟いていた。
2019年7月23日 22:02
バカらしい……。東太? 宮司家? ……知らない。知らないよ、そんな奴らは。
ソファから鉛のような体を引き剥がしながら、ぼんやりと、洋平はそんなことを考えていた。
ゴッ。ゴゴゴゴ。ゴウン。
ゴッゴゴゴ。ゴウン。
あの音はまだ聞こえている。薄暗い部屋の闇が、少しずつ重たくなっていくのがわかる。
「はぁっ……」
大きくため息を吐く。身を起こして床に足をつける。ゴトン。無造作にソファのそばに置かれていたワインボトルが、倒れて転がった。「はぁっ……」もう一度ため息。そして、頭を抱えるように俯いた。
エミリ……。
エミリ。なんだっけ。思い出せない。
何かが心にひっかかっている。大事な何かが、喉に刺さった小骨のようにひっかかっている。それなのに、それが何かを思い出せずにいる。
ダシテ……
ココカラ……
東太。宮司東太。肝試し。記憶の奥に……そんな記憶は存在しない。だから、これは悪夢なんだ。洋平はそう思うことにした。いつもの悪夢の続きだ。俺の記憶には存在しない。非実在記憶。だから、存在しない。そう、存在しない。
存在……しない……?
ココカラ……
ダシテ……
俺の記憶……俺の記憶……そもそも俺の記憶って……? 洋平は手で顔を覆った。記憶を探る。記憶をたどっていく。
……闇だ。
そこにはぽっかりと、暗渠のごとき深い闇が広がっている。すべてが朧気だった。すべてが断片的だった。不愉快な、何かが心の中に揺蕩っていた。
俺……俺は……? 俺っていったい……? 呼吸が荒くなっていく。確かだと思える記憶が、どこにも存在していない。心の奥。どこまでいっても、延々と、延々と、闇。底知れない、闇だ。
俺は……いつから……?
なんで……?
いつからこんなことに……?
ギュギュギュン……ギュルギュル……
テレビが、再び不快な音を立て始めた。
ギュル……ザザ……ザザザザザ……ザザザ……ギュギュルギュ
ギュル、ギュル……ザザ
『ここで、臨時ニュースです』
洋平は思わずテレビを見た。そこには、激しく揺れる光景が映し出されていた。「はぁ、はぁ」と荒々しい呼吸の音。
(走って、いるのか……?)と洋平は気がついた。カメラマンがカメラを抱えて、走りながら中継を続けているのだ。
これはなんだ?
夢……ではない……?
奇妙なほど、現実感と臨場感のある映像。
カメラはぶれながらも立ち止まり、背後を振り返る。都会の地下街、そしてその中に立つ女性リポーターが映し出された。決死の形相。荒い呼吸。リポーターもまた、直前まで走っていたのだ。地下街の中を、まるで逃げるように。
『これが現実だなんて……信じたくもありません!』
リポーターがヒステリックに叫んでいる。ぶれながらも、カメラはその背後を映し出していく。
「え……?」
洋平は固まった。地下街の奥から押し寄せるように蠢く影。それは……。
『顔です!』
リポーターが泣き出すように叫んだ。
『奇顔病の人々が!』
それは、全身に顔を生やした、人のような何かの群れだった。
「は……?」
地下街の奥から溢れかえるように、まるで津波のように、その群れはカメラへと向かって殺到しつつある。
『街が顔に覆われて!』
リポーターは涙を流していた。そして彼女が顔の群れに飲み込まれ、押し潰されようとしたその瞬間、映像はノイズにまみれ、プツン、と終わった。
洋平は再び顔を手で覆う。これは……現実なのか……? ぐにゃり、と世界が歪んでいく。指の間からは、底知れない闇が覗いている。
「う……ああ……」
ゴンゴゴ、ゴゴゴと鳴り響く音。リポーターの叫び声。タクシーでの出来事。顔のような瘤。街を覆っていく奇顔病の群れ。悪夢と現実の境目。揺蕩う記憶。顔。
ゴッ。ゴゴゴ。ゴウン。
顔。輝ける宇宙。東太くん。ニュース。底知れない闇。紫に蠢く大地。顔。宇宙を駆ける。顔。肝試し。林の奥。そこにはある。古い井戸。エミリ。顔。
「あああ……」
ココカラ……
ゴンゴ。ゴンゴ。
ゴウン。ゴウン。
ダシテ……
ココカラダシテ。東太くん。エミリ。古い井戸。顔。お母さん。ココカラダシテ。底知れない闇。顔。ココカラダシテ。紫に蠢く大地。肉の柱。エミリ。井戸の底。水原課長。ココカラダシテ。宇宙。顔。
ココカ、ラ、ダシテ。
ココカ、ラ、ダシテぃ……。
ココカ、ラ、ダシテ。
「う……うう……」
世界が歪み、渦巻いていた。洋平は自分の顔を覆っているその手で、頬の皮膚を掴んだ。「う、ううう……」そして、まるで引き剥がすように……
……その時だった。
「ようちゃん」
反射的に体が震えた。
口内へと氷が突き立てられた……そんな感覚とともに震えていた。呼びかける声は人間の声なのに、人間ではない。そんな気がした。洋平は恐怖とともに、声の主へと顔を向ける。「あ……」
それは洋平を見つめ、笑っていた。
薄暗い部屋にぼんやりと白く、笑みが浮かんでいる。顔だった。白く笑う顔だけが、薄闇の中に浮かびあがっていた。
「エ、エミリ……?」
ダシテ……
ゴッ。ゴゴゴ。ゴウン。
ゴゴゴゴ。ゴウン。
ココカラ……
「……よーちゃん?」
その顔に重なるように、小首をかしげ、洋平を見つめる瞳が浮かび上がってくる。美咲(みさき)だ。
「うおぇっ……」
洋平はえずいた。美咲は少し悲しげな表情を浮かべた。その顔が、白い顔と重なりあっていく。洋平の呼吸が、どんどんと荒くなっていく。
「よーちゃん、大丈夫? やっぱり横になっていないとダメだよ……」
「かわいいようちゃん」
洋平は後ずさるようにソファに体を預けtあ。全身から得体のしれない汗が噴き出してくる。
「ねぇ……やっぱりいろいろと、無理をしているの……?」
「無理しないでねえ……お顔は大切にねえ」
洋平は震える手で胸元に手を伸ばし、襟を掴んで広げた。息苦しい。息が、うまくできない。美咲が、そして白い顔が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
ギュギュギュン……ギュルギュル……
テレビがみたび、不快な音を立て始めた。
ギュル……ザザ……ザザザザザ……ザザザ……ギュギュルギュ
ギュル、ギュル……ザザ……
『目覚めの時だ、戦士よ』
「すごい汗だよ。ねぇ、悩みがあったら相談してほしいな……」
「困ったことがあったら、原因をひとつひとつ潰していきましょうねえ」
「ああああ……」
洋平はわななき、頭を抱えた。しかし、その目は美咲と……それに重なる白い顔から離すことができない。テレビに映るニュースキャスターは洋平を指差しながら告げる。
『己の使命を、思い出せ』
「さっき流しに行った時……これを見つけたの」
美咲は手に持つ紙を示した。泣き出しそうに眉根を寄せていた。
「消費者金融の督促状。いっぱい、あったよ……。よーちゃん、やっぱり無理をしているんだよね……?」
「お顔は大切にねえ」
「う……うう……」
『覚醒せよ、戦士よ!』
「ねぇ、今日はもう寝よう? そして……明日は会社を休んで、これからのことを一緒に考えよう?」
「ひとつひとつ、潰していきましょうねえ」
「う……」
『寝るな! 今こそ、目覚めの時だ!』
「ね、よーちゃん……」
「かわいいようちゃん」
「うう……」
『覚醒せよ!』
「う……ううう……!」
「よーちゃん……?」
「かわいいようちゃん」
「ううう……!」
うわーい、ぼくはあんこくをつらぬく、
あおきりゅうせい!
うちゅうをかけるせんしだ!
ソファのそばに転がっていたワインボトルを咄嗟に掴む。そして、立ち上がった。
「う、うわあー!」
振り上げる!
わるいうちゅうあくまめ!
ぼくがたいじしてやるぞ!
ゴッ。ゴゴゴ。ゴウン……
ゴゴゴゴ。ゴウン……
【続く】
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