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【ホラー連載】 ココカラダシテ 第二顔

これまでのできごと
・ 2019年7月23日 19:11
 陳野洋平は嘔吐した。

 カチャカチャカチャ……
 カチャカチャカチャカチャ……

2019年 7月19日 22:00

 カチャカチャカチャ……
 カチャカチャカチャカチャ……

 残業には厳しいご時世である。
 そして、金曜の夜である。

 すでに誰もいないオフィスは静かで、水原恵(みずはらめぐみ)は自分が生み出す打鍵音と、ブーンと響く空調の音だけを耳にしていて、それはまるで静けさの中に染み入っていくようで、高層階の全面ガラス張りのオフィスから見える都心の夜景は、宝石を散りばめたように煌めいていて、静けさと煌めきが醸し出す雰囲気はさながら瞑想のようで、彼女の集中力はどんどんと高まっていく。恵はこういうひとときが好きだ。誰にも邪魔をされない、こういう時間は大好きだった。

 カチャカチャカチャ。
 トレーサビリティを高め、
 カチャカチャカチャ。
 サスティナブルな効果をもたらします。

 ふぅっ、と息を吐く。完成。これで週明けのプレゼンは万全だ。腕を伸ばし、うーん、と背筋も伸ばす。張り詰めていた気持ちが緩んでいく。恵は何よりもこの瞬間が好きだ。達成感。爽快。このために仕事をしている、とすら思える。

 背伸びをした姿勢のまま、反り返って背もたれに体を預ける。アヒルのように唇を尖らせながら、天井を見つめる。そうしてしばらくすると、だんだんと輝かしき達成感は薄れていく。そしてむくむくと、忘れかけていた苛立ちが、頭と胸の中に蘇ってくる。

「ったくよぉ、あの野郎……」

 恵は毒づいた。男の顔がチラつく。
 陳野洋平(つらのようへい)。
 彼女の部下だ。

 ……あーあー、マジで使えないやつ! なんなのマジで? あり得なくない? アイツに調査をお願いしたのは一週間も前なんですけど? しかも調査とは名ばかりの雑用なんですけど? コンセプトも結論も既に決まってるんですけど? 既存の調査データを組み合わせるだけなんですけど? 誰でもできる仕事なんですけど? あーあー、なんなのマジで? こっちは箸にも棒にもならない奴に、お情けで仕事を与えてやってるわけなんですけど? サルでもできる仕事なんですけど? あーあー、そ・れ・な・の・に、アイツは!

 5日前。
「陳野くん、アレってどうなった?」
「あぁ、アレですね……。俺、もう少しだけこだわってみたいんです。だから、明日まで時間をください」
「…………」

 3日前。
 あがってきた資料を眺め、恵はため息をついていた。
「陳野くんさぁ……もう少しなんとかならない?」
「…………」
「陳野くん?」
「……水原課長ぐらいの年齢だと、そういう解釈をしちゃうんですね」
「は?」
「わかりました。俺、もうちょっと寄り添ってみますよ」

 そして今日。
「はあぁ!? 帰った? まだ何も終わっていないのに!? なぜ!?」

 恵は大きく息を吐いた。なんなのアイツ。なんなのアイツは。尻ぬぐいでこんな時間になってしまった。はー、あり得ん。あり得んだろ。あり得ないでしょ! 天井を見つめながら呟く。

「……絶対、潰す」

 その恵の呟きに応えるように、ブブブ、とスマホが振動した。体を起こし、スマホを手に取る。途端に笑みが浮かぶ。夫の拓郎からのメッセージだ。

拓ちゃん: まだ仕事? 大丈夫?
メグみん: 今、終わったとこ。これから帰る。晩ご飯は?
拓ちゃん: フリットだよ。週末だからお酒に合うやつ。
メグみん: ありがと。

「……よし!」

 恵は軽くガッツポーズをして、帰り支度を始めた。ブブブ。再びスマホが振動する。「あらやだ……」それを見て、恵は優しく微笑んだ。「ママー」動画メッセージだ。二歳になる娘、芽依(めい)が、こちらに向けて手を振っていた。

「もう。夜更かしなんかさせちゃって……寝かしつかせないとダメじゃない」

 そう呟きながら、恵の気持ちは晴れやかだった。ムカつくこともあったけど、いい週末になったなぁ……。

 お気に入りのビジネスバッグを片手に、颯爽と席を立つ。強化ガラス張りの通用扉を抜け、首から下げたカードキーホルダーを掴む。読み取り機にキーをかざして施錠する。

 恵の最終退室に伴って、自動的にフロアの明かりが消えていく。エレベーターホールへと続く廊下のみを残して消灯する、そういう仕組みだ。

「あら?」

 施錠したガラス扉の向こう、真っ暗になったフロアの中。誰もいないはずのオフィスを、黒い人影が横切った……気がした。「まさか。そんなはずはないんだけど……」首を傾げる。

 ブブブ。

 スマホが振動する。「もう……なに」スマホを手に取る。

「ん。なにこれ?」

拓ちゃん: 顔。

 ブブブ。再びメッセージ。

拓ちゃん: 顔。

 すかさずフリックで返す。

メグみん: ふざけんなやめろ

 そして、真っ暗なフロアを見つめた。ふん、と鼻を鳴らす。

「やれやれ……。確認しなきゃ、だね」

 もう一度フロアに入ろう……カードキーを手にする。読み取り機にかざして解錠をする……いや……解錠しかけたその手が、凍りついたように止まった。

「え……?」

 ガラス扉の向こう。しんと静まり返った真っ暗なフロアの一番奥。ゆらり、ゆらりと、人影らしき何かが動いている……いや、蠢いている。

「やっぱり、人が……いる……?」

 暗い、暗いそのフロアの中で「え……?」蠢く人影は、まるで糸操り人形のように、カクッ。右腕を上げた。左手も……カクッ。上げた。「なんなの……」何かがおかしい。

 音が、聞こえてくる。

 ゴッ。ゴゴゴ。
 ゴウン。
 ゴッ。ゴッゴゴゴ。ゴウン。

「え……なに? なに……?」

 空調とは異なる冷たい何かがにじり寄り、足元から這い上がってくるのを感じた。肌が粟立っていく。心の奥底から、震えるような何かが込み上げてくる。

 フロアの奥の人影が……フワリと浮かんだ。

「え?」

 次の瞬間! 宙に浮かんだ人影は、狂ったように手足をばたつかせ……宙を滑り、恵の方へと迫ってきた!

「ぎゃあぁああー!」

 恵は絶叫し、腰を抜かす。ビターン! 激しい音とともに、人影はガラス扉に激突した。「いや……なに……なに……」恵は腰を抜かしたまま後ずさる。「やだ……なんなの……」

 その見つめる先。ガラス扉に貼りついたそれは……「え……え……?」無数の目があった。無数の鼻があった。無数の口があった。それは全身に及んでいた。つまりそれは人の形をした、無数の顔の集合体だった。

 その全身に浮かぶ目はぐろりと恵を見つめている。口は……くちゃ、くちゃ、くちゃ。まるで咀嚼するように動いて……くちゃ、くちゃ、くちゃ。

「あ……ああ……あああ……」恵は失禁した。
 
 その頭部にあたる部位が……ブルン! 90度動き、ビタン! ガラス扉に貼りつく。別の顔が現れる。ブルン、ビタン! 別の顔。ブルン、ビタン! 顔。ブルン、ビタン! 顔。ブルン、ビタン! 顔。回転するたびに次々と新しい顔が入れ替わり、恵を見つめる……まるで呪いのように。

 ブルン、ビタン! 顔。ブルン、ビタン! 顔。ブルン、ビタン! 顔。「あ……ああ……」ブルン、ビタン! 顔。ブルン、ビタン! 顔。ブルン、ビタン! 顔。「た、助けて……」ブブブ。ブブブ。スマホが振動している。ブルン、ビタン! 顔。ブルン、ビタン! 顔。ブブブ。ブブブ。ブルン、ビタン! 顔。

 ブブブ。ブブブ。振動し続けるスマホを握り締め、恵は腰を抜かしたまま後ずさっていく。廊下に恵の尿の跡が残されていく。ブブブ。ブブブ。ブルン、ビタン! 顔。ブルン、ビタン! 顔。ブブブ。ブブブ。

 後ずさる恵は……ドスッ。何かにぶつかって止まった。「え……」誰かの手が、ずしり、と恵の両肩を押さえつけるようにして掴んだ。「え……」耳元に……ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ、と生温かい吐息が吹きかけられた。

「やだ……もう……やだ……」

 恵の瞳から涙が溢れた。絶望感とともに震え、ゆっくりと首を動かし、背後を振り返っていく。ふぅっ、ふぅっ、吐息が頬にかかる。恵は嗚咽とともに戦慄いた……「そんな……そんな……」振り返ったそこには……。


ココカラダシテ

 
続く

「ココカラダシテ」は毎週火曜日、
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