ミラン・クンデラ著『ほんとうの自分』訳者解説note特別公開
<訳者解説>
本書はミラン・クンデラ(1929―2023)が『緩やかさ』以後、ほぼ3年ぶりに発表する小説L' identité(ガリマール社から1998年1月刊行)の全訳である。題名を直訳すれば「アイデンティティ」となるが、日本語におけるこの外来語の座りの悪さ、また小説全体におけるこの語の使われ方などを考慮して、「ほんとうの私」と意訳したことをまずお断りしておく。前作『緩やかさ』に引き続き、もちろんこの小説も最初からフランス語で書かれ、1996年秋に一応完成されたものである。クンデラからこの小説の構想を最初にきかされたのは、1995年3月にパリのレストランで会って、昼食をごちそうになったときだった。そのとき彼は、西洋式の儀礼的なキスの習慣について『冗談』のルドヴィークや『別れのワルツ』のクリーマに語らせ、経験させているような嫌悪を再度語り、現在そんなキスを嫌悪する女性をヒロインに小説を書いているところだと言っていた。
そのほぼ1年後の1996年、この小説を完成させつつあったクンデラが伝えてきた希望は、小説のキャリアをこれまでのようにフランスではなく、今度はどこか外国で開始させたいというものだった。集英社側がその希望の正当性を打てば響くといった迅速さで理解され、フランスに先駆けて日本でまず刊行する話がまとまった。その後、クンデラがさらに推敲を重ね、ほぼ決定稿に近いものを送ってきたのは秋ごろだった。だから、この小説の翻訳も昨年暮れから今年の夏にかけて、著者から度重なる追加訂正のファクスを受けながらおこなわれ、この時期にようやく刊行の運びになった。こんな経験は私にしても初めてのことだったが、この異例の翻訳過程で、時制の移動、登場人物の細部や話題はもとより、副詞や形容詞の一つひとつ、改行ひとつにも徹底的にこだわって何度も書き直すクンデラの完璧主義には、改めて敬服させられたことを付け加えておく。
ところで、この小説『ほんとうの私』を読んで驚く読者も少なくないのではなかろうか。チェコの不幸な歴史にまつわる深刻な主題もなく、作者が小説の登場人物になったり、物語のなかでエッセー的な考察を披瀝したりといった、従来のクンデラ作品の「実験的」な試みもまったく見られない。ひたすら熟年のカップルの悲喜劇的な愛の葛藤と再確認を微細かつ繊細に語っているばかりだ。「私たちの人間理解にも小説形式にもどんな変化ももたらさない」小説、「小説の歴史の外にある小説」はやがて小説の死を招きよせるだろうと『裏切られた遺言』の彼も言っていた。一見したところは、たしかにそうである。ちょっとしたきっかけで若い男女が互いのアイデンティティを、さらにはみずからのアイデンティティをも見失い、取り返しのつかない混乱に陥ってしまうという話は、『可笑しい愛』の「ヒッチハイクごっこ」にもあった。夢と現実との境界が薄れ、夢と現実がすっかり融合してしまう手法は『生は彼方に』第二部で試みられ、『笑いと忘却の書』の第六部「天使たち」で見事な達成を見せていた。
それではクンデラはここで、かつて使用したテーマをふたたび取り上げ、熟練した技法をただ応用して見せただけなのだろうか。この小説は、クンデラがかつての自己に回帰、自己模倣をして、人間理解にも小説形式にも変化をもたらそうとはしない「小説の歴史の外」で書いた小説なのだろうか。必ずしもそうではないと考えられる理由を、以下にふたつだけ簡単に述べてみたい。
まず内容面で、この小説は女性の更年期の肉体的変調、それに伴う精神的危機の悲喜劇を描いた作品だが、そのことをこれほどまでの「同情(compassion)」をもって書ききることができた小説が、あるいは言説が、はたしてこれまでにあっただろうか。ここで「同情」というのは、この小説でただ一度第32章の最後に「彼はかぎりない同情に捕らえられ……」と使われているだけだが、じつはクンデラ的言語のキーワードであり、たとえば『存在の耐えられない軽さ』のトマーシュの感動的な言動をすべて説明する、共=感情(sou-cit)、すなわち「他の人と不幸を共に生きるだけでなく、その人と喜び、恐怖、幸福、痛みなど、他のどんな感情をも共に感じられる」最大の感情的想像力という意味においてである。クンデラはここで「最高の感情」であるこの深い「同情」をもって、平凡といえばまったく平凡きわまりないカップルのありふれた危機を見つめているのだが、ここにはしかし、ときどき印象的なポエジーが出現する。かつてクンデラがカフカについて述べた言葉に従えば、「追い詰められた人間の生活のなかに銀色のほのかな反射光を送ってくれるポエジー」が随所に見られるのである。
つぎに小説形式に関して。私はこの小説を訳しながら、クンデラが前述のカフカ的ポエジーのことを語っていた『裏切られた遺言』でカフカの小説、またヘミングウェイの短編小説『白い象のような山々』にあるような散文の美を「隠喩的想像力」と「言葉の繰り返しによって生まれる旋律」に基礎づけていたことをたえず思い出していた。私の能力ではこの原文の散文美をどこまで伝えられたのか、必ずしも自信はない。しかし、それでも読者は、この小説でたとえば「バラの香り」あるいは「樹の枝」のメタファーが、抒情的にではなく、「人物たちが置かれている状況の意味を解読し、理解し、把握しようとする意志」によって、いかに提示・再現され、微妙あるいは意外な形で変容させられるのかを、きっと見届けられるにちがいない。また、ティーシャツ姿の入れ墨の屈強な男の同じイメージ、あるいはキーワードとしての「退屈」や「生」、あるいは「懐かしさ(ノスタルジー)」といった同じ言葉がどのように繰り返し用いられ、この小説に確たる詩的、美的な統一感をあたえているかも感じとられるだろう。要するに私には、この小説はクンデラがそのような詩的、美的意図を内容的にも、形式的にもこれまで以上に優先させた小説だと思えるのである。
西永良成
※本稿は1997年刊の単行本に収録された「訳者あとがき」を加筆修正したものです。
〈文庫版付記〉
本書は1997年10月30日に著者の好意で、フランスや世界に先駆けて集英社から刊行され、この2ヶ月後にフランス語版がガリマール社から刊行された。原題はL' identitéで、初版では『ほんとうの私』としたが、この度文庫化に際して、『ほんとうの自分』と改題した。それとともに、旧訳の不十分、不適切な箇所を多少訂正した。
本書は前作『緩やかさ』に続き、最初からフランス語で書かれたいわゆる「フーガ形式」の小説である。転換期の女性シャンタルのアイデンティティの危機をテーマとするものだが、物語の展開の中で、自分は本来そうであると思いこんでいたのとは別人だったという実存的(再)発見は『冗談』以来、クンデラ小説の特質の新たな深まりだとみなしうる。
また、夢と現実の境界がいつの間にか不明瞭になってくるという話法は『生は彼方に』第二部や『笑いと忘却の書』第六部に引き続き、ここではさらに見事な成果をあげている。なお小説の終わりで、作者は「現実が非現実に、実在が夢想に変じた正確な瞬間とは、どういう瞬間なのか? どこに境界があったのか?」と挑発的に問いかけているが、訳者としてはたぶん義姉が登場した後の第37章以後あたりではないかと推定しているが、または二人が別々にロンドンで経験する悪夢のような描写(40章―49章)のあたりかもしれない。あるいはもっと広く、『緩やかさ』で彼が「現実と夢想の境界線がなくなる小説」について述べていたが、この小説全体がまさにそうなのかもしれない。
なお『緩やかさ』に引き続き本文庫化に際しても、集英社クリエイティブの村岡郁子さんの全面的なご協力を得たことをあえて記して感謝したい。というのも、氏が訳者の数十年前の東京外語大の教師時代の教え子の一人であったことを何かの奇縁だとしみじみ感じるからである。
2024年6月 西永良成
『ほんとうの自分』
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