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十手笛おみく捕物帳 三 「篠笛五人娘」3/田中啓文

【前回】

   三

 みくたち三人は、化けものについてたずねて回ったが、なかなかこれぞといった情報は集まらなかった。「傘屋の店先でからかさ小僧を見た」とか「てんが松の木の枝に腰を掛けて煙管を吸っていた」とか「新地で遊んで帰ったら嫁はんの顔が鬼になっていた」とか、明らかに嘘だとわかるものがほとんどだった。
「もう知らん!」
 みくはぶち切れた。
「化けものとか物の怪とかいうたかて、人間になんにも悪さしてへんのやから、ほっといたらええねん。木の葉を小判に見せかけた、とか、風呂やと思たら肥溜こえだめやった、とか……そういう妖怪やったら退治せなあかんけど……そういうのはうちら目明しの仕事というより、宮本武蔵とか岩見重太郎とかいった英雄豪傑の出番やろ!」
「まあ、気持ちはわかりますけど、江面の旦那のお指図やさかい……」
「町奉行所の同心も、自分で妖怪変化を探して回ったらええやん。もうしんどいわ」
 疲れ果てたみくは土手で大の字になって寝転がった。なにかが手に当たった。見ると、黒い筒のようなものだった。材質は木のように思われた。いくつか穴が開いており、妙な模様が全体に彫りつけてある。南蛮の文字かもしれない。みくはそれを見た途端、
(笛や……!)
 と直感した。長年、横笛を吹き、篠笛職人でもあるみくにとってもはじめて見るものではあったが、穴の位置などから笛だとしか考えられなかった。ただし、材料は竹ではなく、おそらく黒い色の木を削って作られているようだ。喜六と清八が近づいてきて、
「なんだす、それ」
「変な棒やなあ」
 みくは、
「たぶん南蛮の横笛やないか、と思うねん」
 歌口らしきところを袖で拭ってからみくはそこに口を当て、息を吹き込んだ。笛は能管のような音を立てた。
(やっぱり笛やな……)
 つぎの瞬間、みくは名状しがたい「嫌な気分」に襲われた。心の臓がどくどくと脈打つのが聞こえはじめ、ついには痛みまで覚えるようになっていった。頭が重い。そして、笛のなかからなにかおぞましいものがにじみ出てきたような気がした。しばらく吹き続けてみたが、その「なにか」がまさに笛から出てくる直前に唇を歌口から離した。喜六が、
「ええ音色やなあ。もっと吹いとくなはれ」
 清八が、
「そやそや。今までの篠笛や能管とは全然違うわ」
「いや……やめとくわ」
「吹きにくいんだすか」
「吹きやすい。篠笛よりも楽に鳴るわ」
「それやったらよろしいがな。親方のもんにしはったら……」
 みくはかぶりを振り、
「たぶん西洋の笛や。だれかが落としたものやと思う。お奉行所に届けるわ」
 喜六が、
「お奉行所の役人なんかに西洋の笛のことがわかりますかいな。親方は篠笛職人やさかい、楽器問屋とかに顔が広い。そういうところにたずねてまわった方がええのとちがいますか」
「そやな……」
 なおも聞き込みを続けるという喜六、清八と別れたみくは、その笛を持って、みなみたけまちにある知り合いの笛問屋「磨津利屋まつりや」を訪ねた。みくが普段作っている篠笛は、もっぱら飴売りのついでに客に売るためのものだが、ときには楽器を扱っている商店に卸すこともある。磨津利屋は、篠笛だけでなく、能管、りゅうてき神楽かぐらぶえなど各種の笛を商っており、主のたこ兵衛べえは笛職人を兼ねていた。
「ごめんやす」
 竹を削っているもの、穴を開けているもの、ひもを巻きつけているものなど数人の職人が働いており、その中央で仕上げをしているのが蛸兵衛だった。もちろん本名ではなく、若いころから頭がつるつるなところからまわりから「タコ」と呼ばれていたのが通り名になった。
「おお、おみくちゃん。久しぶりやな。篠笛、持ってきてくれたんか」
「そやないねん。今日はべつの用事」
「そうか。あんたの笛、評判ええねん。また、頼むわ」
 蛸兵衛は、みくの祖父で笛方として内裏に仕え、笛職人でもあった仙雅の弟子である。それゆえみくの父やみくとも親しかった。
「蛸兵衛さん、これ、なにかわかる?」
 みくはさっき拾った黒い笛を差し出した。受け取った蛸兵衛はためつすがめつ眺めて、
「ふーん……わしも見るのははじめてやが、話には聞いたことがある。天竺てんじくの横笛……たしかバンスリとかいうやつやろ。これ、どこで手に入れた?」
 みくは御用の途中でこの笛を拾った経緯について説明した。
「まさか異人が落としていったわけでもなかろ。こんなもん持ってるのは、よほど大金持ちの物好きやろなあ」
「蛸兵衛さん、預かっといてくれる?」
「わしより目明しで笛吹きのあんたが持ってる方がええやろ」
 みくは、なんとなくこの笛を家に置いておくのが嫌だったのだが、そう言われてしまってはしかたがない。
「よその笛屋とか、能や歌舞伎の笛方にもきいてみるわ」
「おおきに。ほかに当たるとしたらどこやろ」
「そやなあ……異国のもんやさかい、きいてみるとしたら唐物問屋か」
 みくは礼を言って磨津利屋を辞した。四人の弟子に稽古をつける時刻が来たからである。
 家に入ると、ぬいが目ざとくみくの笛を見つけた。
「まあ、珍しい笛やこと」
「聞き込み中に土手で拾たんや。蛸兵衛のおっちゃんにきいたら、バンスリとかいう天竺の笛かもしれん、て言うとった」
「吹いて聞かせてくれる?」
「かまへんけど……なんかその……変やねん」
「なにが?」
「うまいこと言われへんけど……吹いてたら気持ち悪うなってくるねん」
「天竺の笛やさかい勝手がちがうからやろか」
「わからん。でも、ちょっとやったら吹けるで」
「吹かんでもかまへんよ。あんたが調子悪なったら困る」
「大丈夫大丈夫」
 みくはそう言って黒い笛を口に当てた。柔らかく、太い音が鳴り響いた。
「へえ……やっぱり篠笛や能管とはちがうなあ。音がずっと柔らかいわ」
 みくは何度もき込むと、苦い薬でも飲んだような顔で、
「ええ音や、とは思うんやけどなあ……やっぱりうちにはいつもの篠笛が合うてるわ」
 みくはその笛をかたわらにあった畳んだ手ぬぐいのうえに置き、
「子どもらに笛の稽古つけたら、また出かけるわ。喜六と清八ばっかり働かせてたら罰当たる」
「例の化けもの探しかいな。ご苦労さま」
「せやけど、ほんまに化けものなんかいてるんかなあ」
「まえに、見越し入道ゆうのを退治したやないの」
「あれは妖怪と見せかけて、じつは人間の仕業やった。ほんまの妖怪がいてたら、目明しの出番やない。はらいたまえ屋か陰陽師に頼む方がええと思う」
「そらそやな」
 うなずきながらぬいは布団から身体を起こし、ふたり分の茶を淹れると、
「近所のおすみさんにお芋のふかしたのをもろたんよ。食べる?」
「食べる食べる」
 ふたりはふかし芋を食べ、茶を飲んだ。
「あら……?」
 ぬいがなにかを探している風なのでみくが、
「どないしたん?」
「あんたが持ってかえってきた笛、どこ行ったかと思て……」
「この手ぬぐいのうえに置いたはず……あれ? ない」
 みくは部屋のなかを探し回り、ようやく黒い笛が十手笛とともに壁に取り付けられた神棚のまえに置いてあるのを見つけた。十手笛というのはみくの家に代々伝わる仏像のなかから出てきた鉄製の篠笛で、武器としても楽器としても使えるが、かなり重いので十手として振り回すには相当の腕前が必要だし、鉄なので笛として鳴らすのもむずかしい。
「おっかしいなあ……たしかにここに置いたのに……」
「笛がひとりでに神棚まで跳び上がったんやろか」
「そんなアホな……」
 みくが黒い笛を掴んで板の間に下ろしたとき、
「こんにちはーっ!」
 元気な四つの声が聞こえ、かな、さゑ、うめ、すぎの四人がどやどやと入ってきた。
「ほな、早速はじめよか」
 みくが言うと、四人は正座して頭を下げ、
「師匠、今日からよろしゅうお願いいたします」
「そ、そんなたいそうな。楽しくやっていこや」
 すぎが、
「うちのおかんが、ひとにものを教わるのやさかい、最初だけはきちんとせなあかん、て言うてました。――あ、これ、おかんが持っていけ、て言うた大根だす。どうぞお受け取りください」
 かな、さゑ、うめもそれぞれ、ゴマせんべい、干し柿、茶葉などをみくのまえに出した。
「おおきに。つぎからは気ぃ遣わんといてや」
 うめが、
「うん。つぎは手ぶらで来るわ」
 かなが、
「笛は持ってこなあかんで」
 皆はけらけらと笑った。そんななかで稽古が始まった。みくは、笛の持ち方、構え方、歌口への唇の当て方、息の入れ方などをひとりずつ丁寧に教えていった。皆、まともな音は出ない。むきになって顔を真っ赤にして息を出そうとするので、
「あかんあかん。もっと軽うに息出さんと鳴らへんよ。ほら……」
 みくは自分の篠笛にフッ……と息を吹き込んだ。暖かく、大きな音が響き渡った。皆は尊敬のまなざしでみくを見た。みくは照れて、
「ほな、続けてやってみて」
 そのとき、隣に住んでいる大工のかみさんでしげという女が、
「やかましなあ! ぴーぴーぴーぴー、うるそうて昼寝でけんへやないか!」
 四人はぴたり、と吹くのをやめた。みくが、
「すんまへん! 笛のお稽古をすることになって……今日が初日やねん」
 しげは四人が幼い子どもであることに気づき、
「あ、あ、そうかいな。子どもやてわかってたら怒らんかったのや。最初は下手くそやさかい、ぴーぴーいうのはしかたない。そのうちあんたらもおみくちゃんみたいに上手になるわいな。それを楽しみに、今は我慢しとくわ。きつう言うてごめんやで」
 四人はほっとした様子で顔を見合わせた。
「師匠がええからすぐに上達するやろ。考えてみたらわても昼寝してる場合やない。内職せなあかんのやった。はははは……」
 みくはもらったばかりの干し柿とせんべいをおすそ分けした。しげは頭を掻いて、
「なんかものをもらいに来たみたいで悪いなあ」
「ううん……うちかて、お隣さんには先にお断わりしておかなあかんかった。おばちゃん、ほんまにごめんな」
 干し柿とせんべいを持ったしげは喜んで帰っていった。みくは「挨拶」をしておく必要があったことに気づいた。一言言っておけばよかったのだ……。
「すんまへん、師匠。わてらが下手なばっかりに……」
 かながそう言うと、
「かまへん。最初から上手いもんはおらん。――今日のお稽古はここまで。つぎは四日後にしよ。それまで、ひとに迷惑にならん場所でおさらいをしといてくれる?」
 四人がうなずいたとき、
「こちらは篠笛職人のみく殿の住まいでまちがいないか」
 野太い声がした。
「みくはうちや」
「では、入らせてもらう」
 ええ、とも悪いとも言わぬうちに、男は大手を振り、「のっしのっし」と形容したくなるような歩き方で入ってきた。恰幅かっぷくのよい町人で、眉毛が太く、み上げが長かった。どすっ、と上がりがまちに腰を下ろし、
「わしは、逆巻さかまき流の笛方、逆巻しちろうというものだ」
「笛方? 歌舞伎の?」
「馬鹿め。そのような世俗の囃子方とひとつにするな。わしは能楽師だ。つい先ほど、おまえのところに異国のものらしい珍しいバンスリとかいう横笛があると磨津利屋の蛸兵衛から聞いたのでもらい受けに来た。笛はどこにある。さあ、寄越せ」
 かなり横柄な態度である。
「もらい受けに、て言われても、これは拾うたもんやさかい、お奉行所に届けるつもりやねん。勝手に持っていかれても困る」
「なに? ただの篠笛職人が生意気なことを……異国の笛などおまえにとっては無用の長物ではないか」
「うちも横笛吹きや」
 みくがそう言って逆巻をにらみつけると、さゑが横合いから、
「そやで! うちらの師匠や。毎日、飴売りながら笛吹いてはるのや」
 逆巻は鼻で笑い、
「飴売りの余興の笛と、血のにじむような修業を重ねてきたわしら笛方の笛……比べものになろうはずがない! 天竺の笛はどこにある?」
 みくは手ぬぐいのうえをちらと見て、
「あっ……!」
 ぬいが、
「どないしたのや」
「ないっ!」
 黒い笛はまたしても消えていた。今度はどこを探せばよいかわかっている。みくが神棚を見るとやはり笛は、十手笛と寄り添うようにしてそこにあった。みくの視線を追った逆巻が神棚に黒い横笛があるのを見つけ、にやりと笑った。
「これで隠したつもりか」
 逆巻はむんずと笛を掴むと、いきなり歌口に唇をつけて吹きはじめた。みくが吹いたときとはまたちがう、ざらざらした野太い音色が響いた。逆巻は適当に指を動かしていたが、すぐに指使いのコツを掴んだらしく、
「ほほう……これは面白い。さすが天竺の笛はようできておる。軽いゆえ持ちやすいし、音も柔らかくて良い」
 まわりにいるみくたちのことは眼中から消えたようで、しばらく熱心に吹奏していたが、みくには目玉が次第に血走り、顔がなんだかどす黒くなっていくように見えて怖かった。
「あの……もうそのへんにしといた方がええんとちゃう?」
 みくがいさめても、
「うるさい! これはよい。この笛を極めて、わしは日本初の天竺横笛の家元になる。ふっふっふっ……。では、この笛はもろうてかえるぞ」
「あ、あかんて。これはうちが先に見つけたもんや。うちがお奉行所に届ける」
「飴売りの分際で意固地なことを申してもはじまらぬ。そこの娘どももよう聞いておけ。笛方というものは能にしても歌舞伎にしても男しかその職には就けぬ。われら能管吹きから見れば篠笛などおもちゃのようなもの。おまえたちがいくらぴーぴー吹いてもただの遊びにすぎんのだ。よう心得ておけ」
 ぬいが、
「私には笛のことはようわかりませんが、今はともかくそのうちに女でも笛方になれるような世の中が来るのやおまへんやろか」
「せいぜい夢を見ておれ」
 四人の女の子たちはしゅんとして下を向いたが、みくは決然として、
「あのなあおっさん」
「お、おっさん?」
「おまえなんかおっさんで十分や。えらそうなこと言うてるけど、それやったらうちと笛で勝負するか?」
「勝負だと……?」
 逆巻はしばらく考えていたが、
「やめておこう。わしは逆巻流の家元……つまりかん流座付きの身分。われら能管吹きが篠笛吹きと勝負するなど家名にかかわる。おまえらは祭りのときに踊りながら吹いておればよい」
「なんやと!」
 そのとき、
「すんまへん。こちらに篠笛職人のみくさまとおっしゃる方がお住まいだすか?」
 へこへこ頭を下げながらふたりの男が入ってきた。ひとりは恰幅がよく、着物も小袖から羽織から帯、帯紐に至るまで金のかかった、いかにも大店の主といったこしらえであった。もうひとりもきちんと羽織を着て、格子じまの小袖を着ている。ふたりともこの貧乏長屋には場違いな見かけであった。
「みくはうちだすけど……今ちょっと取り込み中やねん」
 とまどいながらみくがそう言うと、格子縞の方が、
「蛸兵衛から、あなたさまが黒い横笛を拾ったとききましたのやが、まことでございますか」
「そやけど……あんたらだれ?」
「これはこれは申し遅れました。手前どもは高津五右衛門町の唐物問屋宝岩堂のもので、こちらが主のいわろう、手前は番頭の浄助きよすけと申します」
 番頭は菓子折りを差し出しながら、
「その笛を拝見願えませんか。と申しますのは、少しばかりまえに黒い天竺笛を紛失いたしまして、もしかしたらみくさまが拾うた笛がそれやないかと……」
「それやったら、そこにいるおっさんが持ってるわ」
 岩太郎と浄助は逆巻を見た。逆巻は、後ろ手に隠した横笛をしぶしぶまえに出した。宝岩堂主従の顔が輝いた。
「こ、これや!」
「旦さん、よろしゅおましたなあ!」
 ふたりは手を取り合わんばかりに喜んだあと岩太郎が逆巻に、
「失礼ながらどちらさまで……?」
「わしは逆巻流の笛方で逆巻七五郎と申す。この笛はわしがもろうてかえろうと思うていたところだ」
「それは困ります。手前どもにとって大事なもの。お譲りするわけにはまいりません」
 みくが、
「うちはこれを東横堀沿いの土手で拾うたんやけど、そんなところに落ちてたことに心当たりはおますか?」
 岩太郎と浄助は顔を見合わせた。浄助が、
「へ、へえ……普段は大事に蔵のなかにしもとりましたのやが、ちょっといろいろおまして、その……」
「いろいろ、ゆうのはなんだすねん。それがわからんかったら渡されまへん」
「ここだけの話にしとくんなはれ。つまり……蔵に賊が入りまして、そいつに盗まれましたのや」
「なんやて?」
 みくは大声を出した。
「それは聞き捨てならんな。宝岩堂さんに賊が入ったゆう話は聞いてないで」
「世間には内緒にしとりますさかいな」
「なんでやねん。そんな事件があったらすぐに町奉行所に届けなあかんやないか」
「ははは……まるで目明しみたいなことを言いなはる」
「うちは目明しや」
 みくは十手を手にして、浄助に突き付けた。浄助と岩太郎は蒼白になり、
「あ、あんたが目明し……」
「そや、悪いか?」
「篠笛職人としか聞いとらなんださかい……」
「なんで賊が入ったことを届け出せんかったか、話してもらおか」
「そ、それは……」
 浄助は助けを求めるように岩太郎の顔を見た。岩太郎は、
られたものはなかったさかい、あまり騒ぎたてるのもどうかと思うて……」
「盗られたものはなかった? この笛が盗られたやないか」
「それはそうだすけど……わしにとっては大事なしろものでも、世間的に見たらたかが笛一本。お上の手をわずらわすのも畏れ多いことと思たんだす」
「そういう考え方が盗人をはびこらせるのや!」
「すんまへん……あの……あの……」
 岩太郎はおずおずと、
「なんや」
「このことはどうぞご内密に」
「お上に届ける気はないのん? なんで?」
「うちの蔵は堅牢が自慢でおまして、それがあっさり盗人に入られた、と知られたら店のれんにかかわります。横笛一本盗まれただけなら黙ってた方がよろし。なにとぞお上にはお届けにならんようにお願いいたします」
 這いつくばうようにして懇願する岩太郎にみくは、
「うーん……」
 腕組みをしてしばらくうなったあと、
「なんで盗人はほかのものは盗らんと、この笛だけを盗んだのやろ?」
「さ、さあ、それは手前にもわかりかねます。たまたま目についただけとちがいますか?」
「宝岩堂さんは、この笛をなにに使てたん?」
 岩太郎が、
「うちは唐物問屋でおます。変わった異国のものがあったら仕入れて売るのが商売だす。この笛は天竺のもので、ランの東インド会社を通して長崎から仕入れましたのやが、この笛は音色が気に入りまして、手もとに置いとりましたんだす」
「ご主人が吹いてはったんだすか?」
「まさか……わしに吹けるかいな。九輔ゆう専任の笛吹きをひとり雇うておりました。けど、急に身体の具合が悪うなって、こないだぽっくりと死んでしまいましてなあ……」
「専任の笛吹き! えらい力の入れようやなあ」
「異国の笛はやっぱり勝手がちがうらしゅうて、なかなか吹きこなせるものがおりません。――おみくさん、どうだっしゃろ。うちに来て、この笛吹いてもらえまへんやろか。もちろんお金は払います」
 みくはかぶりを振って、
「やめとくわ。この笛、吹けんことはないけど、吹いてたら心の臓が痛くなってくるのや」
 岩太郎がぎくりとした顔つきになったとき、逆巻七五郎が、
「わしも吹けるぞ。こんな小娘よりずっと上手くな」
 そう言って腕まえを誇示するように笛を吹き始めた。たしかに太い、いい音が鳴っていた。岩太郎の顔が明るくなった。
「お……おお……すばらしい! もしよかったら、うちに来て、この笛吹いてもらえまへんやろか」
「金はいくらもらえるのだ?」
「それはもうたんまりと……。なんちゅうたかてお能の笛方の大先生。死んだ九輔に払うてたよりも倍、いや三倍支払いまっさ」
 岩太郎は逆巻の耳もとでなにやらごそごそとささやいた。逆巻は眉根を寄せ、
「なかなかの大金だ。――よろしい、この笛、吹いてつかわす。ただし、笛方としての仕事の合間に、ということにしてもらいたい」
「それはもう……。うちとしましても、こんな篠笛作りのおなより逆巻流の先生に吹いていただく方がありがたい」
 失礼極まりない物言いである。すぎ、かな、さゑ、うめも口々に、
「なに言うとんねん、このおっさん!」
「わてらの師匠馬鹿にしたらただではおかんで」
「口に雑草突っ込んだろか」
「下駄でみぞおち蹴ったろか」
 岩太郎はぶるぶると顔を左右に振ると、
「ああ、裏長屋の小娘はガラ悪うてかなわん。わしの用事はもう済んだ。先生、まいりまひょ」
「うむ、わしもかかる裏長屋に長居はしとうない。おまえの店に行って、一献酌み交わしながらゆるりと向後のことについて相談いたそうではないか」
「かしこまりました。――浄助、仕出し屋に言うてしゅこうの支度を頼む」
 岩太郎は立ち上がると、みくたちを見渡し、大店の主とは思えぬドスの効いた口調で、
「この笛のことやわしが言うたことは全部内緒やで。もし漏らしたら……気の毒やがタダでは済まんのやさかいな。――あんたは目明しかもしらんけど、お役人に言うたら、この長屋に住めんようになるかもわからん。わしは本気や。そこの小娘どもも、長屋追い出されとうなかったら言うこときいてんか」
 そう言い捨てて三人はみくの家を出ていった。みくが、
「あんたら勇ましかったなあ」
 そう言って四人娘の顔を見ると、皆、涙を浮かべている。
「ほんまは怖かってん」
「あの笛方のおっさん、鬼みたいな顔をしてた」
「そうかそうか。怖い思いさせてごめんな」
 そのあと、みくが黙って考え込んでいるのでぬいが、
「どうしたんや?」
「おかしいな。あの態度はどう考えてもおかしい」
「宝岩堂さんのことか?」
「うん。たかが笛盗まれたことをなんで秘密にしたいのやろ……」
 四人娘が声をそろえて、
「師匠、出番や!」
 みくはうなずいた。

   ◇

 その足でみくは東町奉行所に赴いた。江面可児之進に報告するためである。門前の腰掛け茶屋で待っているとすぐに江面はよたよたと現れた。
「ふーむ……なるほど。それは解せぬなあ……」
「そうだすやろ? そんなに大事な笛やったら盗人に盗まれたことをお上に届け出るはずや」
「それをせぬのは、どこか後ろ暗いところがあるから、か……」
「どうにもこうにも気になりますさかい、しばらく例の化けものの探索から外してほしいんだすけど……あちらの方の進み具合はどないだす?」
「かんばしくはない。今日の昼間、道頓堀を大ウナギが泳いでいた……というものがいたが、昼酒に酔うていたらしくあてにはならぬ」
「どんなウナギだす?」
「船を飲むほどに巨大だったと申す」
「あはははは……ウナギやのうてクジラやがな」
「おまえは当分、宝岩堂をあたれ。なにかわかったらしらせにまいれ」
「へ、わかりました」
 みくは頭を下げた。

   ◇

 その夜、油揚げとネギの熱々の味噌みそしるに冷や飯という夕食を食べ終えたみくは、ぬいが寝たあと、十手笛とヒョウタンを持って表に出た。いっしんまでやってくると、寒風が地面から沸き起こる。
(寒っ……)
 思わず身体をすくめる。墓場の入り口に手桶やしゃくの置き場がある。都合よく木の切り株があったのでそこに腰を下ろし、ヒョウタンを足もとに置いて十手笛を構えた。まわりにひとがいないことを確かめたうえで吹き始める。「妖星ようせい」という曲だ。みくの家に代々伝わる「秘曲」で、だれにも聞かせてはいけないらしい。冷え冷えとした空気を笛の音が貫き、糸のように縫い合わせていく。
 みくはその曲に熱中し、ほかのことを忘れた。そして、ふと気づいたときにはすぐ横にひとりの男が立っていた。平安びとのような烏帽子えぼしをかぶり、白の無紋狩衣かりぎぬを着た公家くげのような人物だ。年齢は三十ほどか。軽く白粉おしろいを塗り、描き眉をして、唇には鮮やかな紅をほんのわずかつけている。つきは鋭く、細い。りょうが高く、おとがいとがっている。
ささの匂いがする」
 男はそう言った。
「このヒョウタンのなかや」
 男がにやりと笑って手を伸ばしかけたのをみくはぴしゃりと叩き、
「『待て』や。ちょっとききたいことがあるのや」
「私は犬ではないぞ」
 この公家風の男は垣内かきうちひかりもんといい、十手笛で「妖星」を奏でると出現する。みくは「笛の精」だと思っていたが、その証拠はない。とにかくポッと現れてポッと消える。酒が好きである。この二点しかわかっていることはないのだ。
 二百数えるあいだしか「うつし」にはとどまれないらしく、そのあいだに言いたいことを言って酒を飲んで去っていく。
「ききたいこととはなんだ」
「黒い天竺の横笛……知ってる?」
「…………」
 しばらく返事は返ってこなかった。みくは光左衛門をじっと見あげた。光左衛門はヒョウタンにじかに口をつけてぐびぐびと飲むと、
「バンスリだな。この世の横笛はすべて天竺のバンスリにはじまる、という説もある。エゲレスのフラウトや清国のてきなどももとはバンスリだと聞く。それを持っておるのか」
「御用の途中で拾たんや。宝岩堂ゆう唐物問屋の主さんの持ちものやったみたい」
「その笛をどうした」
「主さんに返したで。ちょっと吹いてみたけど、なんか気色悪い感じやった。まえにそれを吹いてたひとは病で死んでしもて、今度はお能の笛方の逆巻七五郎ゆうひとがえらい大金をもろて吹くことになったわ」
 光左衛門はまた酒を飲み下すと、
「みく、その笛には近づかぬ方がよい」
「心配いらん。あんな笛、頼まれても吹きとうない。――なんか理由わけがあるんか?」
「いや……なにもない。ただ、ちょっとそう思っただけだ」
 光左衛門はヒョウタンの酒をすべて飲み干すと、
「みく、おまえの嫌いなものはなんだ」
「うちが嫌いなもん……? そやなあ、毛虫が嫌いや。見かけも気色悪いし、刺されるとめちゃくちゃ痛いからなあ」
「ところが、世の中には毛虫が死ぬほど好きだ、という人物もいるのだ」
「そんな物好き、おる?」
「いる。私の知り合いの姫君だ。毛虫はゆくゆく美しいちょうになる。美しくなるまえの姿に関心を持ち、さまざまな毛虫を集めて飼うておられた」
「姫君? あんた、いつの時代の人間や」
「毛虫だけではないぞ。その姫は、芋虫、カマキリ、オケラ、イナゴ、ヒキガエル、ヤスデなども飼うていた。作りものだが蛇も愛でていたな」
「かなりの変わり者やな」
「姫にしてみれば、勝手な好みからこれは美しいこれは醜いなどと決めつける方がよほど変わり者に思えていたことだろう。おまえは、食べものではなにが嫌いだ?」
「たいがいのもんは食べるけど、そやなあ……サンマのはらわたの苦いところ、あれは苦手かもわからん」
「ほーっほっほっほっほっ……あれは酒のさかなにもってこいなのだ。おまえが嫌いだと言うてもそれは万人に通じることではない。ひとの好みはまちまちだ。おのれが好きだ、というのはかまわぬが、それがすべての尺度だと思うととんだまちがいをするぞ」
「なんかややこしい話やな」
「みく……おまえにだけは申しておこう。じつは……もしかしたらこの大坂で大きな乱が起きるやもしれぬのだ」
「乱……? いくさていうこと?」
「いつでも大坂を出られるよう支度だけはしておけ。――そろそろ刻限のようだな。では、さらばだ」
 光左衛門は蛍のように消え失せた。
「なんや、あいつ……。訳ありげなこと言うだけ言うて……」
 みくは舌打ちした。

   ◇

「ほな、先生……頼んますわ」
 白い月が六番蔵を見下ろしていた。宝岩堂の主は扉の阿波錠を開けると、逆巻七五郎にそう言った。逆巻はうなずき、
「この場で笛を吹けばよいのだな」
「さようでおます。よろしゅうお願いします。ただし、今からなにを見ても驚きなさらぬように……」
「先ほどからもったいぶった物言いだが、蔵のなかに一体なにがあるというのだ」
「それは……へへへ……へへへへ」
 岩太郎は意味ありげに笑うと、蔵の戸を開け放った。なかから生臭い匂いが夜気のなかに漂い出し、逆巻は思わず顔をしかめた。
「臭いな……なんの匂いだ」
 そうつぶやいたとき、蔵の奥から妙な物音が聞こえてきた。どすんどすん、ばんばん、となにかがなにかに激しくぶつかる音、ずるずる……というなにかが這うような音、ちゅちゅちゅ……という多くのネズミの鳴き声、ちーっ、という鳥の声のようなもの……。それらは次第に激しくなっていく。逆巻はぶるっと震えた。岩太郎は、
「おい、おまえら、うるさいぞ。ご近所に知れたらどうする。おとなしくせえ。今、先生に笛を吹いていただくさかい、気持ちを鎮めんかい」
 そして、逆巻に向き直り、
「先生、笛を……」
「わ、わかった……」
 逆巻はバンスリを構え、息を吹き込んだ。異国のものとおぼしき旋律が響き渡った。
「さすがは先生……九輔とおんなじ節ですな」
「この笛を吹くと、なぜか勝手に指がこう動くのだ。笛が……わしに命じておるような気がする」
 そう言うと逆巻は笛に集中し、その旋律のなかに埋没した。なにかわからぬものが笛の奥底に潜んでいて、それがずるりと逆巻の頭のなかに入り込んだようにも感じられた。
(吹け……吹け……吹くのだ……副王に取り立ててやるぞ……)
 そんな妄言ともつかぬ声が反響する。吹いているうちにその顔色はどす黒くなり、脂汗がにじみ出し、身体が小刻みに震えはじめたが、当人は気づいていないようだ。取り憑かれたようにひとつの旋律を繰り返し吹き続ける。やがて、蔵のなかの騒がしさは潮が引くように薄れていき、ついには静まり返った。
「先生、もうよろし」
 岩太郎がそう言っても逆巻は吹くのをやめない。目を閉じ、この寒気のなか汗をだらだら流しながら異国の楽器を吹いている。
「先生……先生……」
 岩太郎が袖を引っ張ると、ようやく我に返った様子で、左胸を押さえながらよだれをこぼし、
「うう……ううう……」
 とうめいている。
「先生、大丈夫だすか」
「う……う……うむ……大丈夫だ」
 そう言った逆巻の顔は歌舞伎の隈取くまどりが施されているように見えた。血管がすべて浮き出ているのだ。凶悪きわまりない顔つきになった逆巻は燭台をみずから持って蔵の奥を照らした。
「なるほど……そういうことか……」
「先生、日に一度、この笛を吹いていただかんと、こいつらが騒ぎ出しますのや」
「わかっておる。これからも毎日わしが吹きにきてつかわすゆえ、心配するな」
「おおきに……これがわしのたったひとつの道楽でおまして……」
「番頭はどうした」
「あいつはこういう高尚な趣味はわからんらしい。怖がって近寄ろうとしまへんのや。あとは専任の女中に餌を……」
 そのとき、ふたりの背後で大きな音がした。振り返ると、塀のところになにかが見えた。岩太郎は明かりを挙げてそのあたりを照らした。黒くて長い、太い帯のような物体が塀を乗り越えて、庭に入ってこようとしている。
「先生、続きを……!」
 うながされた逆巻はふたたび笛を吹きはじめた。その音色に誘われるかのように黒いものは彼らの方に近づいてくる。燭台の明かりを受けて、ふたつの光が輝いた。それは「目」であろうと思われた。岩太郎は相好を崩して、
「おお……阿奈子やないか。戻ってきたか! 先生……先生の笛のおかげで阿奈子が戻ってきよりましたで!」
 逆巻は顔をこわばらせながら、ずるりずるりと近づいてくる「それ」を見つめていた。岩太郎は、
「これでほとんどは戻ってきた。あとは……瘤平こぶへいか。これも先生に毎晩吹き続けてもろたら、そのうちひょっこり帰ってきまっしゃろ」
 そう言うと「阿奈子」の頭を撫でた。阿奈子は勝手に蔵へと入り、つづらのなかに収まった。

次回に続く)

プロフィール
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。93年「凶の騎士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する緑」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。2002年「銀河帝国の弘法も筆の誤り」で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門、16年「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」で第47回星雲賞日本短編部門を受賞。「笑酔亭梅寿謎解噺」シリーズ、「鍋奉行犯科帳」シリーズ、「浮世奉行と三悪人」シリーズ、『文豪宮本武蔵』『臆病同心もののけ退治』『崖っぷち長屋の守り神』『誰が千姫を殺したか 蛇身探偵豊臣秀頼』『貧乏神あんど福の神 秀吉が来た!』他、著書多数。

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