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十手笛おみく捕物帳 三 「篠笛五人娘」4/田中啓文

【前回】

   四

「というわけで、うちらは宝岩堂に探りを入れることになった。あんたらもそのつもりでな」
 翌朝、家に来た喜六と清八をまえに、みくはそう言った。清八は手を打って喜んだ。
「はははは……これでしょうもない化けもの探しから離れられるわ。よかったよかった」 みくは一応、
「お上の御用にええも悪いもない。くだらんように思える事件に、案外、ひょんな悪事が隠れてるかもしれんのやで」
 親方の威厳を示そうとして江面の言葉をそのまま口にした。
「せやかて地面に足がついてる御用やないとどうも頼りない。化けものなんかおるはずがおまへんがな」
 喜六は不快そうに、
「わてはたしかに見たのや。あれは化けものやった」
 みくは、
「あんたを疑うわけやないけど(ほんまは疑うとるけど)、人間だれしも見間違い、聞き間違いゆうことはあるわな。風に吹かれた柳の枝が幽霊に見えたり、フクロウが飛び立ったのが魔物に思えたり……」
「いや、あれは絶対大ウナギでおました!」
 清八が笑いながら、
「まえにふたりで酔っぱろうて夜なかに大川の土手を歩いてたとき、おまえが急にじたばたしはじめて、『助けて、清やん! だれかに首筋掴まれてまえに進めん! キツネに化かされてるのかもしれん!』ゆうて大声で叫ぶさかい、近づいてみたら、桜の枝が襟首に引っかかってるだけやったがな。キツネと桜の枝を間違えるやつが『大ウナギ』なんぞ言うたかて信用できるかい。どうせ小さいウナギを見ただけやろ」
「キツネと桜の枝は間違えても、大ウナギと小ウナギは間違えへん!」
 喜六はみくに向き直り、頭を下げた。
「親方、わてはこのまま化けもの探しを続けさせてもろたらあきまへんやろか。嘘ついてないことを証明したいんだす」
 みくは腕組みをしてしばらく考えていたが、
「よう言うた。ほな、喜ぃ公は今まで通り化けものの方をやってよし」
「おおきに!」
 喜六は頭を下げた。

   ◇

 みくと清八は、宝岩堂に直にぶつかることはせず、まずは周辺の聞き込みからはじめた。
「ああ、宝岩堂さんなあ……」
 みくは高津五右衛門町にある裏長屋を訪れた。数人の女性が井戸端で洗濯をしていたので、宝岩堂について知っていることがあったら教えてほしい、と言うと「噂話がなにより好き」みたいなひとりが、
「えらい商売繁盛してるみたいやで。主の岩太郎さんゆうのは女将さんを亡くしてからこっち、後添いも迎えんと独り身のままや。息子さんがひとりおるさかい、跡継ぎについては安泰やけど、まだ小さいからな。あの店、なんぞあったんか?」
「そういうわけやおまへん。あそこにかぎらず、あちこちの唐物問屋を調べてるところだす」
 みくは嘘をついた。べつのひとりが、
「そやろなあ。悪い噂は聴いたことないわ。あそこの旦さんはええひとやで。大店の主さんやのに、だれかれなく話しかけて、ひと当たりもええし、いつもにこにこしてはる。なかなかでけへんことやで」
 三人目が、
「聞いた話やと、主さんは酒も飲まん、博打もせん、女遊びもせん、書画骨董こっとう茶道具なんぞに凝ることもない、俳諧も釣りもせん、歌舞伎や浄瑠璃も見にいかん……なんの道楽もないらしい。いったいなにが楽しゅうて生きてるんかと思うわ」
「仕事ひと筋やねんなあ」
「たまにははめ外したらええのに」
「わてらはええけど、あんまり主さんが真面目やと、下のもんはやりにくいかもしれんわな」
「そやそや。あそこは女子衆がよう替わるらしいけど、そのせいかもわからんな」
 みくが、
「宝岩堂にいてはって、今は辞めた女子衆さんに知り合いはおられませんか?」
 三人はかぶりを振った。
「宝岩堂の近くで笛の音を聞いたことおまへんか」
「あるある! あんた、よう知ってるな。夜中のの刻(深夜〇時)ぐらいになると笛の音が聞こえるのや。いっぺん向こうの旦さんにときどき笛の音がしますけど、あれはおうちのどなたかが吹いてはりますのか、てたずねたら、ああ、あれだすか、うちにもよう聞こえます、たぶん近所の暇なだれかやと思いますけど、耳障りゆうほどやないさかい放っておますのや、て言うてはりました」
 おかしい、とみくは思った。みくの家に来たとき、岩太郎は九輔という男に笛を吹かせていたが病死したので逆巻に吹いてもらう、と言っていた。どうして近所にそのことを隠すのだろう。笛を盗まれたことも町奉行所に知らせるな、と言っていたが……。
「お邪魔しました。これはお礼代わりに……」
 みくは三人に飴をひとつずつ渡した。三人ともすぐに口に放り込み、ガリガリと噛んだ。笛の音は夜中にしか聞こえないという。みくは夜になってからもう一度出直すことにした。
 一旦帰宅したみくは昼に炊いた飯を茶漬けにし、シラス干しの醤油をかけたものと大根の漬け物をおかずに出した。食べている最中に喜六がやってきた。足取りが重そうなので、おそらく収穫はなかったのだろう、と思っていると、案の定、疲れ切った表情でため息をつくと、
「今日はあきまへんでしたわ。化けものの『ば』の字もない。『このへんで化けもの見たことおまへんか』てきいてまわっても、行く先々でアホ扱いされるだけだす」
「一日では見つからへん。あんたが自分で化けものの方をやりたいて言うたのやで。あきらめんと続けんかいな」
「せやけど、わてはたしかにこの目で見ましたのや。あいつら、大坂に飽いて、山の奥に戻りよったのやろか」
「化けものは山から来るとはかぎらへん」
「ほな、どこから来まんのや。海からだすか」
 聞いていたぬいが笑って、
「海のまだ先の……異国から来たのかもしれんねえ」
 ぬいはなにげなく言ったのだろうが、みくはなんとなくその言葉が頭に残った。
(異国か……あの笛も異国のもんやった……)
 そんなことを考えていると、
「ああ、もう足が棒や。また、明日の朝早うから聞き込みに回りまっさ。毎晩報せにあがります」
「うん、今日はもう帰ってええわ」
 喜六が帰ったあと、みくがもう一度身支度をしはじめたので、
「あんた、また出かけるんか?」
「そやねん。宝岩屋から笛が聞こえてくるのは夜中らしいから……」
「たいへんやねえ。気ぃつけて」
 ぬいは、それが危険な任務だとわかっていても、
「行くな」
 とは言わない。みくが父親の跡を継いで本職の目明しになったときからだ。逆に、飴売りに行くときに大雨や日照りだったら、
「今日はやめといたら……」
 と言うこともある。そんな風に接してくれるぬいにみくは感謝していた。
 外に出ると、北風が左右から吹きつけてきた。
さぶっ……なんか羽織ってきたらよかったな……)
 そんなことを思いながらみくは宝岩堂へと向かった。もちろん大戸はとうに閉まっており、丁稚たちも寝ているらしくしんと静まり返っている。耳を澄ましながら裏手へと回る。やはり、なにも聞こえない。みくは勝手口に近づき、戸にそっと手をかけたが、なかから掛け金が下りているらしい。しかたなくみくは吹きすさぶ寒風のなかでじっと立ち尽くし、なにかが起きるのを待った。塀の内側からは、ずるずる……なにかを引きずるような音やどんどんとなにかが硬いものに衝突するような音、ちゅーちゅーというネズミの鳴き声などがかすかに漂ってくる。
 およそ一刻(約二時間)ほどもそうしていただろうか。身体の芯まで冷え切ったころ、突然、柔らかな笛の音が聞こえてきた。みくはハッとして耳を傾けた。篠笛ならもっと鮮烈な、透き通った音のはず。異国の横笛……バンスリの音色だ。吹き手も逆巻七五郎にまちがいないだろう。そして、その音が聞こえた途端、塀の内側のさまざまな音はやんだ。
 なんとかなかをのぞけないものかとみくは周囲を見渡したが、塀には穴も開いていないし、よじのぼれそうな手ごろな木もない。ぴょんぴょんと跳ねてみようかとも思ったが、気づかれては元も子もない。まさに「足をじたばたしたい気持ち」だったが、とにかく宝岩堂になにかあることはわかった。深夜に無意味に笛を吹くはずがない。みくはしばしその音色に耳を傾けていたが、まえに聞いたとき同様、なんとなく胸に黒い染みがじわじわ広がっていくような気持ちになった。軽い吐き気もする。しかし、すぐに笛の音はやみ、ふたたび静まり返ってしまった。あとはいくら待ってもなにも聞こえてこなかった。
 みくはあきらめて、その場を立ち去った。

   ◇

 数日はなんの成果もなかった。朝から清八と手分けして聞き込みをするのだが、「宝岩堂をやめた女子衆」は見つからない。夕方、清八と別れて家に帰ると、四人娘が待っていた。
「遅い遅い!」
 四人がツバメの子のように口を開けて一斉に文句を言う。
「今日、稽古の日やったかいな」
「そうやで、師匠。こないだそう言うてはったやん。忘れっぽいなあ」
 かながそう言った。
「ごめんごめん。ほな、はじめよか。――うちが言うてたとおりに家で毎日稽古してたか?」
 四人はうなずいた。
「吹いてみて。呂音りょおんの六だけをできるだけ長く、揺れへんようにな」
 篠笛の音は、低音域を呂音、中音域を甲音かんおん、高音部を大甲音だいかんおんと呼ぶ。指穴は六つないし七つ開いており、唇に近い穴から六、五、四、三、二、一……と番号がふられている。かな、さゑ、うめ、すぎはひとりずつ笛を吹いた。
「なかなかええやん。でもな、音がまだひょろついてる。もっと強く吹いてもええんやで」
 みくはそう言うと篠笛を口に当てた。澄み切った、太く、力強い音が響き渡った。
「うわあ、すごい音……」
「うちは外で吹いてるさかい、これぐらいの音を出さんとお客に届かんのや。やってみて」
 四人は顔を真っ赤にして大きな音を出そうとしたが、うまくいかない。そのうちに息が切れてしまったのか、肩を上下させてはあはあいっている。みくは笑って、
「力んだかてあかん。ちょっとの息で軽う吹いても大きな音は出るのや」
 みくはもう一度手本を示し、
「毎日吹いてたらそのうちできるようになるわ。ほな、指を動かす稽古や。順番に穴をふさいでいくで」
 六、五、四、三……あたりまでは上手くいくのだが、最低音の二、一あたりになるとどうしても音が裏返る。
「そうっと息を吹き込むのや」
 四人娘は真面目に稽古を続ける。
「今日はここまで。またおいで。家でお稽古しとくんやで」
「はーい」
 そのとき、隣家のしげが入ってきて、
「もうお稽古終わりかいな。おせんべい持ってきたさかい、分けておあがり」
「おばちゃん、おおきに」
「今日はこないだよりずっと聞きやすかった。上達早いなあ。この調子やったらすぐに師匠より上手くなるんとちゃうか」
 みくは、
「おしげさん、ありがとう」
「このまえのお礼や」
 四人はみくからも飴をもらい、
「ここに稽古に来たらおやつに不自由せんなあ」
 とにこにこ顔で帰っていった。ぬいが、
「すっかり笛の師匠ぶりも板についたねえ」
「へへへ……」
 そこへ喜六が報告に来た。
「今日もあかんか」
「申し訳ない」
「うーん……」
「毎日、『化けもの見たやつはおらんか』てきいてまわるのも疲れました。今日も、見た見た、ゆうやつがいたから、どこでや! てきいたら、座間神社の化け物屋敷で見た、言いやがる。ほんま腹立つわあ。――けど、わても、あれは見間違いやったのかも、と思てきましたわ」
「まあ、そうぼやかんと、もうしばらくがんばってみ。これ、当座の小遣いや」
 みくはいくばくかの金を手渡した。喜六は顔を輝かせ、
「いつもすんまへん! へへ……これで一杯飲める」
 そう言って金を押しいただき、ふところに入れた。

   ◇

 夕飯を掻き込んだあと、みくは十手笛を帯にたばさんだ。ぬいが、
「今夜もお出かけかいな」
 みくはうなずいた。
「風邪ひかんようにな」
「けど……だんだん自信なくなってきた」
「あきらめたらあかんよ。ひょんなことから糸口が見つかるかもしれんのやで」
「うん……行ってきまーす」
 通いなれた宝岩堂への道をみくは歩いた。いつものように裏口近くに身を潜める。真夜中頃、笛の音が聞こえてきた。
(今夜も、しばらくしたら鳴りやんで、なーんにも起こらんと、とぼとぼ帰ることになるのやろなあ……)
 思い切って、勝手口の戸に体当たりして、なかに突入したろか、とも思ったが、そんなことをしたらなにもかも台無しになってしまう。暴れ出したくなるような気持ちをみくは我慢した。
 笛の音がやんだ。しかし、そのあとの展開がいつもとは違っていた。急に裏口が開いたのだ。みくは地面に伏せた。なかから出てきたのは逆巻七五郎だった。みくはそっとあとをつけた。

   ◇ 

「親爺っさん、酒二合、早幕で頼むで」
 いきつけの屋台の煮売り屋に飛び込んだ喜六は顔なじみの店主にそう言った。
熱燗あつかんでええか」
「あったりまえやろ。この寒いのにぬる燗なんぞ飲んでられるかい」
「今日も御用かいな。精が出るな」
「親方と清やんはほかの件を手掛けてるさかい、わてひとりでやらなあかんからたいへんや」
「どんな御用やねん」
「化けもんや」
「はあ……? しょうもないてん言わんといて」
「それが冗談やないのや。じつはな……」
「わしも忙しいねん。あんたの冗談に付き合うてられへん。アテはなににする?」
「そやなあ……焼き豆腐もらおか」
 親爺は鉢から焼き豆腐を小皿に取り、レンコンの煮つけとともに喜六に出した。
「レンコンなんか頼んでないで」
「もう、あとちょびっとしかなかったさかい、おまけや」
「そらありがたい」
 燗がついたので、親爺はちろりを喜六のまえに置いた。喜六はあっという間に二合の酒を平らげ、
「親爺っさん、お酒、もう二合や」
「大丈夫かいな、そないに飲んで……」
 店の親爺が顔をしかめながらも、ちろりに酒を入れた。
「アホなこと言うな。このぐらいで酔うたりするかい!」
「ちゃうがな。わしは、ふところの方は大丈夫か、と言うたのや」
「そっちかいな。それやったら心配いらん。今日は親方から小遣いをもろてきたのや」
「頼むで。うちはツケはきかんさかい……」
「わかってるわかってる」
 そこにふたりの男がやってきた。ひとりはのっぽでひとりは背が低く、太っている。もうすでにかなり酔っぱらっているらしく、千鳥足である。
「凡太、ここで飲みたそか」
 背の高い方が言った。太った方が、
「それはよい思案じゃ。こう寒うては凍えてしまう。もうちいっとばかり飲みたいと思うていたところじゃ」
「おまえの『ちいっとばかり』は何升やねん。――親爺っさん、熱燗で二合や」
「承知しました」
 太った方が、
「あと、レンコンの煮つけをくれ。わしはあれで飲むのが一等好きじゃ」
 親爺が、
「すんまへん。レンコンはもう終わりましたんや」
「なーにー? わしの大好物がないとはどういうことじゃ! さては、わしらが来るのに気づいて隠したな」
「そんなことしますかいな。宵からレンコンの注文が多かったんで……ほかのもんではあきまへんか」
「ならば、今から新しく拵えろ。できあがるまで待っておる」
「悪い酒やなあ。あ、いや、なんでもおまへん。それが生のレンコンももうおまへんのや」
 太った男は屋台に手をかけてぐらぐらとゆすりはじめた。
「レンコン、レンコン、レンコン、レンコン……レンコンを出せえ!」
 屋台がみしみしいい始めた。背の高い方が、
「こら、やめえ! おまえは力が強いさかい、こんな屋台ぐらいもみ潰してしまうやろが!」
 それを聞いて親爺は蒼白になり、
「明日の朝一に、天満の青物市場で仕入れてきますよって、今夜は堪忍しとくなはれ」
 見かねた喜六は、
「あのー……あんさん、よほどレンコンがお好きとみえますな」
「そらそうじゃ。わしが相撲であった時分、兄弟子に言われた。レンコンは穴が開いとる。向こう先が見える。おまえもレンコン食うて向こう先が見える相撲取りになれ、とな。わしはレンコンを好むようになったが、いくら食うてもまるで向こう先は見えん」
 兄貴分らしい背の高い男が、
「こら、凡太……! ええ加減にせえ」
 そのとき喜六が、
「これ、まだ箸つけてまへんのやが、よかったら食べとくなはれ」
 そう言ってレンコンの小皿を凡太という男に差し出した。
「え……? よろしいのか? こりゃうれしい!」
 凡太は舌なめずりをしてレンコンを口に入れ、
「あー、レンコン……」
 うっとりした顔でそう言った。喜六は腹のなかで大笑いしていたが、
「おもろいお人やなあ。こうしてここでうたのもなんぞの縁や。まだ燗がついとらんみたいやし、わての酒、飲んどくなはるか」
 兄貴分が、
「それはあんまり申し訳ない」
「かまへんかまへん。あんたらの酒が燗ついたら、返してもろたらよろし。――さあ、どうぞ」
 喜六はふたりに自分のちろりから酒を注いだ。こうして三人は仲良くなり、盃を交わし合った。喜六はすっかり楽しくなり、どんどん酒をお代わりしたので、どう考えてもみくにもらった小遣いでは足らないだろうと思えたが、もう止まらなかった。べろべろに酔っぱらった喜六は、
「ほたらなんですかいな、あんたは元相撲取りやと……」
 凡太が、
「そうじゃ。力は強いが技が覚えられぬゆえ、親方からおまえは相撲に向いてないとクビにされてしもうた。しかし、今でも力だけはだれにも負けぬ自信がある」
「そらええ! どや、一番行こか」
 そう言って喜六は自分の太ももをぴしゃりと叩いた。兄貴分が、
「やめとけ。こいつは元玄人やで。酔うとるさかい力の加減がわからん。怪我してもつまらんやろ」
「いや、わてはどうしても相撲がとりたい」
 凡太も、
「素人衆に勝負を挑まれて後ろは見せられん。よしっ、かかってきなされ」
 ふたりは屋台のまえでがっぷり四つに組んだ。喜六が、
「うう……さすがに……腰が重いなあ……足が地面から生えてるみたいや……」
 やがて、投げの打ち合いになり、喜六が前のめりに倒れるかと思いきや、ぎりぎりで踏みとどまり、くるりと向き直って、凡太の足を払った。不意をつかれた凡太はつんのめりながらも喜六につっぱりを食らわせようとした。しかし、喜六はその腕を抱えるようにふところに引き込んで、地面に引き倒そうとした。凡太は倒れざま、喜六の帯を掴んで金剛力でぐいっと引っ張り、喜六は空中をぶんと飛んで、そこにあった樽にぶつかった。居酒屋の親爺が、
「元力士の勝ちーっ」
 兄貴分が、
「アホなこと言うてる場合やないで。――おい、おまえら、怪我はないか」
 しかし、喜六と凡太は笑いながら立ち上がり、着物についた泥を払うと、肩を叩き合った。
「あんた、素人のくせになかなかの業師じゃのう」
「あんたも強いわ。今からでも相撲に戻れるのとちがうか?」
「さっきも言うたとおり、わしは力はあっても技が覚えられぬ。それゆえこんな泥……」
 兄貴分が、
「あはははははは……泥がつくような目に遭う、ゆうことやな。さあ、飲み直そ」
 三人はすっかり打ち解けて、なおも酒を飲んだ。
「そうだすか。源次さんとおっしゃりますのか」
「今後ともよろしゅうに」
 三人ともほとんどへべれけである。源次が喜六に、
「あんた、おもろいひとやなあ。商売はなんだす?」
「それやがな……あんたらにききたいのやが、近頃、このあたりで、その……アレを見たことないか?」
「アレ? アレてなんや」
「言いにくいなあ。わてはあんたらをなぶってるのやないで。いたって真面目にきいてるのやが……」
「わかったわかった。早よ言わんかい」
「化けもん見たことないか?」
「化けもん……?」
「ないわなあ。やっぱりあれはわての見間違いやったんや。すまんすまん、しらけるようなこと言うてしもて……」
「いや、あるわい」
 凡太が言った。
「そやろなあ。化けもんなんてこの世におるはずがないわ。明日から親方の仕事に戻ろ」
「だから、見たことがある、と言うておるのじゃ」
「化けもの、妖怪、物の怪、お化け……そんなもんは絵草紙か芝居のなかにしかおらん。あんたらが見たことある、て言うのも当然……えっ?」
 喜六は言葉を切り、
「あんたら、まさか化けもの見たことあるのか?」
「さっきから『ある』と言うておる」
 喜六は凡太の襟首をつかまんばかりにして、
「いつどこでや! どんなやつやった? 詳しゅう教えてくれ!」
「いや……訳あって詳しゅうは言えんのじゃが、『宝岩堂』という唐物問屋の六番蔵のなかで……」
「な、なんやと! 宝岩堂やと!」
「声がでかいわい」
「これが叫ばずにおれるかい。とうとう生き証人を見つけたで!」
「なんのこっちゃ」
「どんな化けものやった?」
「わしらが見たのは、へのへのもへじの顔がついたやつじゃ」
 源次も、
「嘘やと思うかもしれんけど、ほんまなんや」
 喜六は、
「嘘やとは思わん。わしが探してるのはまさにその『へのへのもへじ』やねん」
「肌にぶつぶつがあってな、目玉が丸いのや。顔は小さいから子どもやと思う。とにかく怖かったわ」
「なにかされたんか?」
「いや、びっくりして逃げたさかい……」
「ほかに、馬鹿でかい大ウナギとか目の飛び出したトカゲとかは見かけへんかったか?」
「それは知らん。けど、あの蔵はおかしいで。床に小さいアオダイショウとかネズミがいっぱいおるのや。普通、蔵ゆうのはそういうのが入り込めんようにしてあるもんやろ」
「そやなあ。――けど、あんたら夜中になんで宝岩堂の蔵になんか入ってたのや?」
「そ、それはやなあ……」
 源次が口ごもったとき、
「おい、貴様ら……」
 すぐ近くから声がかかった。三人が見ると、恰幅のよい男が立っていた。
「そこのふたり、なにゆえ宝岩堂の蔵の様子を知っておる。ははあ、読めたぞ。貴様らだな、笛を盗んだのは!」
 源次と凡太の顔がこわばった。
 喜六が、
「おまえはだれや!」
 男は答えず、脇差を抜いた。
「あの蔵のことを知っているものは生かしてはおけぬ」
 言うなり、手近にいた源次にいきなり斬りつけた。
「ひえっ!」
 源次はかわそうとしたが、左腕に傷を負った。男はつづいて凡太に襲いかかった。凡太は無謀にも正面から素手で受け止めようとしたが、肩を斬られてのけぞった。喜六はおろおろしながらも十手を抜いて男に向かって構えた。
「なに? 貴様は十手持ちか」
「聞いて驚くな。月面町のおみく親方の一のかた、ちょかの喜六とはわてのこっちゃ。神妙にせえ」
「はははは……そのへっぴり腰でわしを召し捕るつもりとは笑止! 宝岩堂の蔵の秘密を知った以上、貴様も殺してやる」
 そのとき、
「逆巻七五郎、御用だ!」
 叫びながら走り込んできたのはみくだった。喜六をかばうようにして十手笛を抜き、逆巻に突き付けた。
「親方あっ!」
 逆巻は顔をゆがめると、
「たまたま通りかかったわけではあるまい。宝岩堂からわしをつけてきたな?」
「そういうことや」
 みくは、逆巻の顔つきがこのまえと比べて変貌していることに気づいた。目は吊り上がり、口は耳もとまで裂け、歯が尖っている。人間離れした容貌ではないか。
「女だてらに出しゃばると、その大事な顔に傷がつくことになるぞ」
「顔なんかどうでもええ。うちが守りたいのは大坂のみんなや」
「ふっふっふっ……おまえが必死で守ろうとしておる大坂は近いうちに戦で灰になる」
「なんやと……?」
 みくは光左衛門がそんなことを言っていたのを思い出した。
「あんたこそ、えらそうに言うとるけど、武術ならうちの方が上手やで」
「そうかな……?」
 逆巻は脇差を構えると、やりのようにまっすぐ突き出した。あまりに速すぎて切っ先が見えないほどだった。みくは飛び退きながら十手笛で受け止めようとした。しかし、なぜか身体に力が入らず、脇差が十手笛に衝突した瞬間、よろよろと腰砕けになった。逆巻はにやりと笑い、
「約束どおり顔を斬ってやる。覚悟いたせ」
 後ろから喜六が抱き着いたが、
「邪魔するな!」
 そう怒鳴ると逆巻は人間離れした力で喜六を振りほどいた。喜六は吹っ飛んで地面に伸びてしまった。逆巻が脇差を構え直したとき、
「熱ちちちちちーっ!」
 逆巻に親爺がぐらぐらに沸いた湯をぶっかけたのだ。
「くそっ……!」
 逆巻はでたらめに脇差を振り回したが、跳ね起きたみくが逆巻の両脚を十手笛で思い切り払った。
「ぎゃあっ」
 逆巻は、
「貴様、覚えておれ!」
 そう捨て台詞を吐くと、暗闇のなかに走り去った。みくはへなへなとその場に膝を突いた。ようやく起き上がった喜六がみくに駆け寄り、
「親方、大事おまへんか」
「あ、ああ……大丈夫やと思う。それより、宝岩堂の蔵がどうの、て言うとったけど……」
「そ、そうだんねん! とうとう見つけましたのや、化けもんを見た、ゆうやつらを。しかも、そいつらは宝岩堂の蔵のなかで見た、て言うとりますのや」
「そうか、でかしたで! これで宝岩堂と化けもんがつながるやないか。そいつら、どこにおる?」
「えーっと……」
 喜六は周囲を見渡したが、源次と凡太の姿はどこにもない。
「おかしいな……今の今までそこにおったのに……」
 みくは喜六から事情を聞いた。レンコンの煮つけについて長々と話し始めたため、
「そんなことはどうでもええねん。化けもんについて早う言わんかいな」
「けど、ここからしゃべらなしゃべりにくい」
 そしてようよう長い説明が終わった。
「うーん……あんたらが宝岩堂の蔵のことをしゃべってるのを逆巻が耳にして、斬りつけてきた、ゆうことやな」
「そうだす。いきなり脇差引っこ抜くやなんてむちゃくちゃや」
「けど、逆巻はそのふたりに『蔵から笛を盗んだ』て言うたのやろ」
「へえ、たしかにそう言うてました」
「ということは、そいつら盗人やないか。宝岩堂の蔵に押し入って、そこで笛を盗んだのやが、化けもんに驚いて逃げ出す途中でその笛を落としたのやろ。そんな連中に十手見せたら、おらんようになるわ。たぶん、もう二度と戻ってこんやろなあ」
「あ……」
「まあ、ええ。とにかく『へのへのもへじ』の化けものはほんまにおる、ゆうことや。その二人組が消えてしもたのは残念やけど、明日からまた性根入れて聞き込みしよ。宝岩堂と化けもんがつながってるのがわかったさかい、うちらとあんたが追いかけてるもんはひとつや。これでやりやすうなったわけや。――さ、帰るか」
 みくがそう言ったとき、煮売り屋の親爺がおずおずと、
「あの……まだお代をちょうだいしとりまへんのやが……」
 喜六が、
「ああ、すまんすまん。なんぼや」
 親爺が口にした金額は喜六の所持金を大幅に超えていた。喜六がみくに、
「親方、すんまへーん! 残りは払うとくなはれ」
「しゃあないなあ……」
 みくがぼやきながら財布を出したとき、親爺が申し訳なさそうに、
「あのふたりとお知り合いみたいだすなあ。あいつらも支払いせんとによりましたのや。言いにくいけどあのふたりの分も……」
 みくはブチ切れそうになった。

   ◇

「盗人ふたりに斬りつけた? なんでそんな勝手な真似をしてくれましたのや!」
 岩太郎は逆巻七五郎に言った。逆巻はふてぶてしく笑い、
「やつらはこの蔵に化けものがいる、と知っておる。口を塞がねば、おまえの秘密がバレてしまう、と思うたのだ。感謝してもらいたい」
「感謝もなにも……そいつら逃げてしまいましたのやろ?」
「だが、言い触らす勇気はもうあるまい」
「そ、そんなことより、先生……この注文書はなんだすねん!」
 岩太郎は紙の束を七五郎に突き付けた。それは、長崎出島の商館にいる書記役個人に宛てて、西洋の武器や弾薬などの輸入を要請したもので、名義は唐物問屋岩五郎になっている。
「わしは注文した覚えはおまへん。先生、あんたの仕業だすやろ。こんなに南蛮の武器を買うてどないしますのや。何千両、いや、下手したら何万両にもなりまっせ。戦でも起こすつもりだすか」
「ふふふふ……そうだ、と言うたらなんとする」
「あんた、なに考えてますのや。これは抜け荷だっせ。わしが罪になってしまいますがな」
「おまえはすでに抜け荷をしておる。東インド会社経由で長崎から天竺の珍しい生きものを勝手に大量に買い付けておるではないか。それが露見したら、おまえは処罰される……」
「それは脅しでやすか? あれだけ金を渡したのに……」
「おまえはもうわしの言うことをきくしかないのだ。わしとおまえとはいちれんたくしょう。まずは大坂を手中に収め、そのあと江戸に向かう。ことが成就したあかつきには、おまえを副将軍にしてやるぞ」
「そ、そんなおとろしいこと……わしはただ、こいつらを眺めていたいだけや。それがわしの幸せなのや……」
「あきらめろ。おまえはもうこのことに両脚を深く突っ込んでいる。いまさら抜けられぬぞ」
「あ、あんた……ただの笛方やないな。いったいなにものや!」
「わしはただの笛方だ。しかし、この天竺の笛には……悪魔が宿っていたのだ」
「悪魔……?」
「さよう。天竺のいにしえの悪魔……名は、しゅという」

   ◇

「そうか……ついに化けものを見たという目撃者を見つけたか」
 江面可児之進は低い声で言った。「化けもの」は実在したのだ。みくは、
「けど、そいつらは盗人やったみたいで、うちらが目明しやとわかると逃げてしまいました」
「ならば、もう見つけ出せぬかもしれんのう。残念なことじゃ。なれど、宝岩堂と化けもののつながりがわかったのは収穫ではないか。――と申して、宝岩堂がなんらかの悪事に加担しているという証拠はない。いきなり召し捕るというわけにはいかぬ。なおも探りを入れろ。町奉行所としても正式に詮議をはじめるよう、お頭にも申し上げるつもりじゃ。おまえもしっかりやってくれ」
「はいっ」
 みくは頭を下げたあと、
「あのー……じつは今度の一件、いろいろとお金がかかっておりまして……」
「はははは、よいよい。おまえとおぬい殿に迷惑をかけているのは承知しておる。――当座の小遣いにいたせ」
 江面は一分銀を二枚みくのまえに置いた。
「えーっ! これまでこんなにもろたことおまへんで! いつもの始末屋ぶりはどないしましたんや。どうぞご無理なさらんように……」
「これっ、わしが日頃よほど手札を渡していないように聞こえるではないか。いらぬなら返してもらうぞ」
「あっ、いりますいります。ありがとうございます」
 みくは頭を下げた。

   ◇

「いよいよことが動き出した。わしとおまえが手を携えればこの国に怖いものはない」
「王」はそう言った。王の名は阿修羅である。天竺ではアスラといい、神々と対立する悪魔である。強大な魔力を持つが、甘露アムリタという神薬を飲んでいないので、神々のような不死の存在ではない。
「おまえはこの国をあなどっている。そうたやすく成就はせぬと思え」
 ふたりは阿修羅王の伸ばしている忌まわしい糸を使って会話しているのだ。
「はははは……ここにはわしを封じるだけの力を持つ神官はおらぬ。今の宿主は完全にわしの支配下にあり、わしの思い通りに動く。まえの宿主はわが力の強大さに負けて命を落としたが、たびの男はもともとよこしま性質たちゆえ大丈夫だろう」
「このあとどうするつもりだ」
「わが影響力をじわじわと広げていき、支配下におくものたちを増やしていく。そのうち、注文した武器、弾薬が長崎から船で届くだろう」
「とてつもない大金がかかったろう」
「宝岩堂の財産をすべて費やした。わが手下にそれを配り、この近くにある城に攻め込むのだ」
「大坂城のことか? 馬鹿げたことを。大坂城には侍だけでも常時四千人ほどが在勤している。足軽や奉公人を加えればもっと大勢になる。すぐに皆殺しにされるだろう」
「皆殺しにされてもかまわぬのだ。わしはその間に大坂城代にひょうし、わが傀儡かいらいとする。それから都に攻め上り、この国の皇帝に取り憑いて、全国の諸大名にトクガワ家討伐の勅を出させる。大名のなかには腹のなかでトクガワに反感を持っているものも多いと聞く。大義名分ができれば、大勢が賛同するだろう」
「なるほど。天竺で使った手だな」
「そうさ……あと一歩のところで見破られ、神官どもに寄ってたかってこの笛に封印されてしまったが、おまえがこの笛を吹いてくれればおそらく呪は解けるはずだ」
「そう言われても、わしも封じられている身だ。『妖星』という曲が奏でられたときだけ短時間外に出ることができる。しかし、その曲を吹けるのはみくという娘だけなのだ。あの娘は気まぐれゆえ、いつそういう気分になるかはわからぬ」
「心配いらぬ。あのみくという娘にわしが取り憑き、むりやり笛を吹かせればよい。おまえが外に出たら、殺してしまえ。たやすいことだろう」
「うーむ……」
「考えることはない。この国をふたりのものにできるのだぞ。おまえには西の半分をやろう。暗い笛のなかに閉じ込められているのがよいか、外に出て人間どもを顎で使い、好き放題するのがよいか……」
「それはそうだな……」
「あの娘は宝岩堂に目星をつけている。近々、おまえの棲む笛を持ってここに来るだろう。そのとき、わしはあの娘を我がものとする。あとはよろしく頼む」
「…………」

次回に続く)

プロフィール
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。93年「凶の騎士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する緑」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。2002年「銀河帝国の弘法も筆の誤り」で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門、16年「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」で第47回星雲賞日本短編部門を受賞。「笑酔亭梅寿謎解噺」シリーズ、「鍋奉行犯科帳」シリーズ、「浮世奉行と三悪人」シリーズ、『文豪宮本武蔵』『臆病同心もののけ退治』『崖っぷち長屋の守り神』『誰が千姫を殺したか 蛇身探偵豊臣秀頼』『貧乏神あんど福の神 秀吉が来た!』他、著書多数。

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