海路歴程 第十二回<下>/花村萬月
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伴助を詮議し、尾類の許に送りこんだ侍が見送りにきた。伴助のまわりでだらけていた士分たちがいっせいに平伏した。侍は伴助のごく間近に顔を寄せ、笑った。
「籠絡しおって」
「はて」
「胸を焦がしておるぞ」
「なんのことやら」
「まあ、よい。渡したくはないが送りこまねばならぬ。薩摩はともかく、大坂奉行所の詮議は、このようにはいかぬぞ」
しばし見合って、伴助は雑に頭をさげた。
「達者でな」
伴助はもう一度、頭をさげて船上の人となった。
在番所の横目付に付き添われて四日ほどの航海で、薩摩は山川湊に入った。船縁より身を乗りだして薩摩富士こと開聞岳を見やりつつ、大声をあげる。
「着いたぞ! ようやく薩摩に着いた。身一つだが」
破顔する伴助を、奇妙な奴だと横目付が一瞥する。まがりなりにも目的の地に到り、伴助の虚ろな高笑いは止まらない。
やがて笑いの芯から、もろもろの感慨が津波のごとく押し寄せ、伴助の笑い顔は烈しく歪み、凶悪紙一重の険悪な目つきになった。
山川湊より大きめの艀に乗り換えて、番所鼻、大山崎、知林ヶ島と抜け、錦江湾内の奥深くを目指す。波は至って静かだが、なにやら不穏な気配が漂っている。
真昼のはずだが、洋上まで薄雲が立っていて、あたりが靄っていた。鼻のきく伴助は異臭を嗅いで眉を顰めた。海の色はいよいよくすんで、濁っていく。琉球の透明な海とはまったく別物だ。
甲陽丸の目的地であった薩摩は、右の大隅半島も、左の薩摩半島も翳みがひどく、やたらと殺風景だった。足裏が薄く積もった灰らしきものを踏んでじゃりっと鳴った。
眼前を季節外れの雪が舞い降りてきた。目視していると、目付が降灰であると教えてくれた。陽射しに焼かれて、まだ荒れが治らぬ伴助の肌に触れると、灰色の雪は窃かな熱と幽かな痛みをもたらした。
低い位置に蝟集していた雲のような降灰が晴れると、錦江湾を隔てて、眼前に巨大な桜島が聳えたった。世界を断ち割る、暗黒の壁に見えた。
伴助は口を半開きにして桜島を見あげた。まさかこれほど間近に噴煙をあげる火山があるとは。途轍もない地である。熱をもった硫黄の臭いに、いよいよ鼻をひくつかせる伴助を、目付が腕組みして見守った。
山川湊に入った時点で、即座に江戸表に早飛脚が立てられ、今後いかにするかを伺うこととなったと目付に囁かれ、万事長閑だった琉球とちがって罪人のごとく扱われることを伴助はいまさらながらに悟った。
「まあ、なるようになれだ」
天を汚す勢いで噴煙をあげる桜島にも慣れてしまい、伴助は大あくびした。降灰のせいか目脂がでて、それを雑に刮げていると、目付が苦笑気味に言った。
「お主は肚が据わっとるのお」
淡路国洲本にも飛脚が放たれ、在所や宗門寺号をはじめとする確認が続いたが、琉球における取調と相違なく、伴助を早く放逐してしまいたい思いを薩州の役人は隠しもせず、大仰な形式だけは踏んだものの、詮議には熱意が感じられなかった。
ただ宗門改、切支丹に関することだけはかなり執拗だった。伴助はこれを大坂に運ばれたときの予行演習として捉え、あれこれ対応を練った。
薩摩では完全に幽閉された。漂船していわば洋上に閉じこめられていた伴助は、転た寝してても水が飲めて飯が食える──と淡々と処した。いつのまにやら破れ畳に拡がっている桜島の降灰だけが鬱陶しかった。
「琉球では蚊。薩州では灰」
ぼやく伴助に、いまではすっかり馴染みとなった目付が囁く。
「明日、発つぞ」
「船か、陸路か?」
「船」
「なぜ?」
「国の様子や地勢を見せたくないからだ」
「薩州は、やたら内証が多いなあ」
見せたくないから、と言っておいて、目付は伴助を咎めた。
「滅相なことを申すでない」
よほど薩摩が鎖国の禁を破って昆布で稼ごうとしている片棒を担いで難船した──と囁き返してやりたかったが、伴助は皮肉な笑みを泛べて遣り過ごした。
他人の操る船など飽きあきだが、どうしようもない。伴助は抑えつけられることに対して強烈な嫌悪を抱いていたが、先々に思いを馳せて、それを外にださぬ周到さもあった。伝馬の中に転がって、くすんだ空を漠然と眺める。
船は赤江灘を北上していく。黒潮に乗ってしまいさえすれば船脚もあがりそうだが、豊後水道から南下する沿岸流と黒潮の本流がぶつかって、とにかく波が荒く、船はまともに進まず、時間ばかりがたっていく。
琉球から薩摩に至る海が天候に恵まれ至って静かだったこともあり、大坂行きに関しても監視役として伴助に付き随っている目付が烈しく嘔吐した。伴助が嗤う。
「こませ醤蝦、撒いてる場合か」
目付は黄水を唇の端から滴らせ、ふらつきながらも突っ張った声をあげた。
「せっかくだ。鯛でも釣ってくれ」
伴助はニヤリとして、目付に向けて大きく頷いた。とたんに引っ繰りかえりそうだった目付の胃袋が鎮まった。
自身は気付いていなかったが、漂船のあげく伴助は、いままで持ち得なかった包容力をものにしていた。不思議な力であった。周りの人間はなんとはなしに伴助を中心に据えてしまい、頼りにするようになっていく。
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否応なしに流されてしまったというのに、のちに鎖国と称される海禁政策を破ったかどという罪人扱いに、伴助は心窃かに腹を立てたが、ふてぶてしさはそのままに怒りを外にあらわさず、磊落にもろもろに対した。
大坂町奉行に送られてしばらくは詮議もなかったが、昼夜も判然とせぬ揚屋の薄暗さには閉口した。抜荷を疑われてはならぬ。肝心のところは沈黙を守りとおすと決心を新たにした。
幾人、踏んだのだろう。黄銅に浮き彫りになった磔にされた半裸の男は磨耗して鈍く輝いていた。しかも足裏の垢をこびりつかせて汗で腐食し、緑青をはびこらせていた。
踏めと命じた役人の切迫した眼差しに、伴助は真になにをすべきか悟った。一昔前に、天草とやらで大戦があったらしい。幕府は切支丹を恐れている。
「くだらねえ」
「なんと吐かした?」
伴助は醒めた目で役人を見やり、磔の男を加減せずに踏み抜いた。木製の台座に罅が入って真鍮板が歪んだ。
「これ、なんということを!」
「こんな薄汚え代物を踏ませるからだよ」
一段高いところの影になるあたりに端座した上役が、契利斯督を歪ませて屹立する伴助を上目遣いで窺っていた。心底莫迦らしくなって、伴助は大あくびした。
「──神の罰が当たると思わんか」
「もし当たるとしたら、こんな薄汚えもんを理不尽に踏ませるお役人様に、真っ先に当たることでしょうよ」
あくびで浮いた涙を指先で拭い、伴助は続けた。
「俺が信心してるものは、俺ですぜ」
「なんと申した?」
「だから、俺は俺しか信じねえと」
詮議の壺は、宗門改だ。それを悟っているがゆえに契利斯督を足蹴にするどころか、踏み壊した。あくびもした。
本来ならば己だけを信じるという徹底した個人主義とでもいうべき考え方こそが封建社会にとってもっとも重大な問題なのだが、凡庸な役人には、思いも至らぬことであった。この日を境に詮議に張り詰めたものはなくなり、ゆるくなった。
なぜ箱館から船を出したのかという問いかけに、俺の操船は神懸かりだから、正月前に大坂は無理でも敦賀まで運んで捌けば、いくらでも買い手がつくという心積もりだったという言い訳を伴助は崩さなかった。
そもそも烈しく海が荒れる霜月下旬に船をだすなど自殺行為であるが、伴助を目の当たりにしていると、それも有り得るという気分になってくる。
箱館の沖口番所記載の積み荷は大量の昆布ということで、昆布に相違ないという証言も番所から得られた。
荷受けの相手がいないことも詮議の対象であったが、甲陽丸は伴助の持ち船である。己の才覚で一儲けするつもりだった──と伴助は強引に突っぱねた。
役人もそのまま信じたわけではないが、宗門改には問題がなく、言っていることも微妙ではあるが、一定の筋が通っている。
武士であれば代々の役職に就く。百姓であれば代々の土地を耕す。工および商人であれば代々の家業を継ぐ。すなわち己の住む土地を離れることは容易いことではなかった。
ところが伴助は、こういった強固な身分制度の埒外であり、行きたいところに船を疾らせたあげく、百日以上も洋上を流され、琉球に辿り着いて、こうして太々しく構えているのだ。
代々、生真面目一本槍で職務に忠実に生きて宗門改に携わる役人など、窃かに伴助の自由気儘さに羨望を覚え、すべてを見透かされていると感じたほどである。
密貿易などに関しては微妙なところがあって嫌疑が消えたわけではないが、船が焼けてなくなっているのだから鉄砲武具の持ち帰りは有り得ない。さらに詮議を加え、責めを加えると、あれこれ手ばかりかかって面倒になるという直感を覚えた。
揚屋で首を縊る漂流民さえあると聞いていたが、神無月から霜月に変わるころ、伴助はあっさり解放された。
大坂から淡州までは潮流こそきついが、明石瀬戸を隔てて洋上一里ほどしかない。目と鼻の先だ。
久々の故郷の土を踏みしめたのは、霜月なかばだった。箱館を発ってから、ほぼ一年たっていた。無駄な一年だった──と伴助はぼやくが、極限に抛り込まれ、とことん攪拌されて多くのことを体得し、直知させられた一年であった。
淡路島の洲本は阿波国徳島蜂須賀氏の筆頭家老、稲田氏の城下町である。生家にもどると、さっそく家老の使者が訪れた。殿が話を聞きたいというのだ。
「殿とは?」
「蜂須賀公である」
「てえことは、阿波まで出向かなければならぬのか」
どこかとぼけていて飄々とした伴助に、使者は笑んだ。執りなすように言う。
「詮議ではない。殿御自ら漂海の有様をじかに聞きたいとの思し召しである」
どうやら興味をもたれているようである。話が聞きたければ、殿が訪のうてくればよいではないかというあたりは呑みこんだが、やれやれといった顔つきを隠さず、伴助は溜息を洩らした。
使者が嬉しそうに覗きこんだ。
「難儀そうだのう」
「生煩わしいと口にしたら、叱られますかのう」
「まだ軀ももどっておらぬであろうから、心際はなんとのう判るがな」
蜂須賀氏は下野源氏を祖とすると系図にあるそうだが、じつは盗賊であったときいた。そう堅苦しくもないだろうと伴助は抱柏の紋を眺めやる。迎えの使者には平然と海で膝を壊したと噓をつき、だらだらするばかりで、時を気にする使者の肝を冷やした。
実際、待ちわびた殿は半立ちになり、両手を打ち鳴らしながら伴助を迎えた。伴助はあたりを睨めまわし、殿にかたちだけ頭をさげた。伴助の御目見得は、殿のねぎらいの言葉からはじまった。
「大儀であったのう」
「俺の味わった大儀は、気儘自在と引き換えですからな」
「うむ。そうであろう、そうであろうとも」
伴助は殿の面前で足をくずし、胡坐をかいた。殿が酒を呑んでよい機嫌であることを見てとったのと、膝を壊したという噓との整合をとったからだ。もちろん畏まるのは苦手中の苦手である。
当然、周囲は狼狽え気味に咎め、叱責したが、使者が膝のことを耳打ちする前から殿は一切気にしない。近う、近う──と手招きさえした。初見で荒々しい熊のごとき伴助の風貌、眼光や物腰をいたく気に入ってしまったのだ。
身分制度で土地に縛られた人々である。されど唯一の例外が、難船し漂流してもどった伴助のようなごく少数の漂民であった。生き残ってもどったこと、その一点で超越した人であった。
自然天然の暴虐をどうしのいだか。苛酷な漂流をどう生き抜いたか。漂着した異境はどのようなものか。人々は興味津々であり、それは殿様も例外ではない。
国策上、幕府は漂民が漂流や異国の様子を物語ることを認めなかったが、下々には取調をもとに脚色した漂流記の写本が流通し、殿様は漂民を招いて話に耳を欹てた。
「殿は雷に直に撃たれた者を目の当たりにしたことがありますか。知工与平、雷をまともに受け、炭と成り果て、俺も派手に痺れて頭が燃えてチリチリになりました」
「炭。直撃か! 炭になってしまうのか!」
「炭になった黒焦げの皮の罅割れから、真っ赤な肉が覗けて、塩鮭を焼いたがごとく、たとえようもなく香ばしいわけです」
「香ばしい──もう、塩鮭は食えぬ」
「なにを言ってんです。人だって鮭だって変わりはねえですよ。美味しく食ってやるのが筋であり、情けってもんです」
「その、なんだ、その」
「なんですか」
「食ったか」
「人ですか」
「──そうだ」
「お答え致しかねますな。答えぬということで悟っていただければ」
「すまぬ。野暮な問いかけであった」
伴助は、黙りこんでしまった。沈黙に場は凍りつくがごとく緊張した。身を乗りだしている殿の膝頭が忙しなく揺れる。気付いた家老が小声で伴助を促す。伴助は幽かに頷き、短く息をついた。
「俺は甲陽丸を愛でておりました。おなじく水夫たちを愛でて」
「愛でて?」
「殴り、蹴倒しておりました」
ぞんざいな伴助の受け答えであるが、殿様以下臣下ともども伴助の言葉に惹きいれられて、もはや気にもしていない。
「ははは。そちの、そちの殴打は、きつそうだのう」
「常在戦場。海の上はまごうことなき戦場。優しく頭を撫でさすってやってると、いざというとき、その者の命にかかわります。侍の心得にも通じることかと」
「おお、そうじゃ。まこと、そちの申すとおりじゃ」
「僭越ながら御家臣においては、じつに腑抜けた間抜け面が揃っておりますな」
「誰じゃ。どいつと、どいつだ」
「それは答える筋合いにありません。御家中のことは、御家中で」
「うむ。それは侍の船頭である余の為すべきことか」
「然様。ただし」
「ただし?」
「抜け作も必要。間抜けも、大切」
「抜け作も必要。間抜けも、大切」
「いちいち復唱なされるな」
「すまぬ。だが──」
「船に乗るということ、閉じこめられるということです。だから否応なしにわかるのですが、人を十人集めれば、その九割は屑でございます」
「九割は屑!」
「だから復唱なされるな」
「相済まぬ。的を射てるがゆえに、抑えがきかぬ」
「その屑と間抜けを切り棄てたとたんに、国は滅びます。なにせ屑間抜けは九割、それが消えたら国は立ちゆかぬ」
「うーむ。屑をいかに活かすか」
「然様とお返ししたいところですが、屑は屑であり煮ても焼いても食えませぬ。そこが難しいところですな」
「だが屑にも位があろう」
「馬の糞にも段々とは、よう言うたものですなあ」
「余は馬の糞の段々をうまく見極めぬとな」
「御家中が微妙な顔つきですぜ」
「いや、その、まあ」
「笑ってごまかす。じつによい遣り口でございますな。殿の笑顔は、じつによろしい」
「皮肉か?」
「いえいえ。海の上にいると、気付くのですよ。笑いこそが、すべてであると」
「余はへらへらは好かぬ」
「へい。俺もです。けど好い笑いを泛べる者もおります。甲陽丸では表の貞親。ふとした拍子にすばらしい笑みを泛べるわけです」
伴助は大きく胸郭を膨らませ、長い息をついた。下唇を咬む。
「俺は奴らを殺してしまった。水夫十三人全員を殺してしまったのです。甲陽丸の十三人は貞親をのぞいて屑でした」
「十三人のうち、まともは一人だけ」
「俺がまともかどうかはともかく、そんなもんなんですよ、人の集まりというものは。それなのに、人は皆自分を買いかぶって一廉と思ってるから、てえへんだ」
「翻って、この阿波の国──」
「されど殿。いまだから言えるんですが、いらねえ人間は、おりませぬ」
「おらぬか」
「おりませぬな」
伴助の鋭い眼差しを真正面から受け、殿が深く頷く。
「相わかった」
「甲陽丸で真っ先にいらなかったのは、この俺でしょう」
「だが──」
「殿の温かな眼差しが、きついですぜ。俺はひでえ酒呑みでした。呑兵衛なんてもんじゃなかった。俺は屑の中の屑でしたが、酒さえ呑んでなかったら、も少し、ましにやれたって後悔してるんです。で、後悔先に立たずじゃねえですけど」
伴助は言葉を呑んだ。殿が膝で躙り寄る。縋る声をあげる。
「申せ、申してくれ」
「酒、やめました」
一呼吸おいて、付け加える。
「琉球では泡盛という酒を振る舞われましたが、断った。汗が滴るほどきつかった」
伴助は笑んだ。
「だからといって殿や御家中に呑むなと言ってるわけじゃありません。生きるってことはしんどい。酒くれえ呑まねえとやってられませんぜ」
座敷は鎮まっている。しわぶき一つ聞こえない。各々が思いに耽っている。殿が気を取りなおし、咳払いして言った。
「のう、伴助。また折を見て、琉球の話でもしてくれ。琉球のこれは、どうだった?」
「殿も好きですなあ。じつは、とっておきの話があります。琉球の女には花、白、そして紅があるのです」
「花、白、紅」
伴助は頷くと、すっくと立った。一礼して背を向けると、どすどす跫音を立てて大広間から出ていった。追いかけた案内役が、爪先立って伴助の耳許で囁いた。
「じつは幕府から、扶持米が賜られる。生涯だ。伴助が生きているあいだは食うに困らんぞ」
「そりゃあ、ありがてえ」
「うん。でな、感じいった殿からも、伴助には生涯、扶持米その他を賜るとのお言葉である。追って目録など」
「そうか。わざわざ与太話をしにきた甲斐があったというものよ。されど殿からの贈り物はわかるが、なぜ幕府が米をくれる?」
「それは伴助、おまえを地面に縛りつけておくためよ。自在気儘に行きたいところに行っていたおまえだが、もはや船には──」
「俺は船に乗る気もねえんだけどな」
案内役の使者は往路でのやりとりで、身分を超えて、すっかり伴助に心酔している。さりげなく伴助を盗み見た。なんともいえぬ寂寥が伴助の双眸に宿っていて、使者は顔をそむけ、眼差しを伏せた。
あまりに伴助が悄気ているように見えるので、使者は咳払いし、あえて咎める口調で迫った。
「ところで伴助、難船で膝を傷めたのではなかったか?」
「あ、忘れてた」
どこか、わざとらしく見つめあった。伴助が真顔になった。使者に深々と頭を下げた。
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願い出て、伴助は係累のない生家を引き払い、紀伊水道の要地である由良の南、生石鼻に掘っ建て小屋を手作りして暮らしはじめた。
雨漏りばかりか強風に屋根が吹き飛んだりしたが、伴助は自足していた。だが周囲が抛っておかず、あれこれ具申してしまい、家老の稲田氏が殿より命を受けたと強引に立派な屋敷を建ててしまった。
独り身には広すぎる部屋にぽつねんとしていると、なにやら疼くものを覚えた。嫁がほしいと言いだし、けれど三回見合いして、三回とも断った。四回目にして、ようやく伴助は頷き、二十以上歳の離れた娘と暮らしはじめた。
夫婦仲は、きわめてよかった。ときに伴助に話を聞きたがる訪問者があったが、夫婦水入らずでつましく暮らした。嵐の晩など妻女はきつく伴助にしがみついて、その胸板に頬を押しあてて安らいだ。
老いた伴助は、娘のような妻女に手を引かれ、生石鼻の高台から由良の門と称される紀淡海峡、友ヶ島水道を見やるのを日課としていた。
その日も伴助は妻女に膝を崩させて、そのくぼみに頭を安置し、紀淡海峡から紀伊水道を飽かずに眺めていた。
「あれ、蝶々が──」
妻が笑む。紋白蝶が禿げあがった伴助の額で翅を休めたのだ。
妻は一瞬、瞬きを止めた。
伴助が息をしていないことを悟り、妻は伴助の目尻から一筋流れ落ちた涙の痕を凝視した。伴助の涙の痕に妻の涙が静かに落ち、伴助の貌を控えめに濡らし、蝶がふわりと舞いあがった。
妻女は伴助に覆いかぶさるようにして囁き声で告げた。
「海は、海は見事に凪いでおります」
伴助が流れ着いた伊良部島にて親身に世話をしてくれた骨格のしっかりした美しい顔立ちの娘に、妻女はそっくりだった。伊良部の女がしたように、伴助の顔を濡らした涙を指先で叮嚀に拭っていく。
〈了〉
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