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海路歴程 第四回<上>/花村萬月

  .      04
 
 熱い。
 熱い、熱い。
 熱い、熱い、熱い。
 頬がけ、眼球が乾く。
すげえ火だぜ」
 仁王立ちというには華奢な姿で、じゅう右衛もんは焔に向かって呟く。
 火が出たのは午後二時やつどきくらいだったか。それまでの青空が一転して焦臭い煙に覆われてしまった。
 太陽がさえぎられてくらくなったから、焔の危うい猛りがくっきりとわかる。
 妻女が不安そうに十右衛門を一瞥いちべつする。
 火勢は衰えるどころか、烈しく背丈を伸ばすばかりで、紅蓮が北西いぬいからの空っ風に煽られて迫りくるのだ。
 妻女の眼差しに切迫が宿る。十右衛門とちがって、大きく腰が引けている。逃げ遅れたらと考えると気が気でない。
 まだ焔は霊岸島れいがんじまを舐めるまでには到らないが、島とは名ばかり、焔を隔てているのは以外の三方を囲った入掘と称する狭小な溝渠こうきょにすぎない。
 朱色に輝く火の粉は容赦なく十右衛門にも妻女にも、そして屋敷にも降りかかる。いつ引火するかわかったものではない。
 大気に籠もった熱で、妻女の髪がチリチリと丸まっていく。
 十右衛門が声をあげる。
「見ろや、竜巻が起きてるぜ」
 狂焔がもつれあうように輻輳ふくそうして、上昇気流が発生しているのだ。
 竜巻は、ごごごごごごごご──と耳を圧する轟きをともなって、見るみるうちに天にまで背丈を伸ばしていく。
 あとを追うかのごとく無数の竜巻が不規則に踊りはじめ、わずかに覗いていたそうきゅうを暗褐色に汚していく。
 妻女は十右衛門の様子が尋常でないことを感じとり、困惑気味に袖を引く。
「逃げなくてだいじょうぶでしょうか」
「逃げる? この勢いだと、どうせこの家も燃え落ちるぜ」
 十右衛門は笑っていた。
 頬笑んでいる。
 腕組みして、笑んでいる。
 妻女は怯みながらも踏みとどまり、十右衛門の様子を窺った。
 いよいよ口許に刻まれた笑みは深くなり、せせら笑いに近づいていく。
 なにやら呟いている。
 燃えろ。
 燃えろ。
 燃え落ちろ。
 ぜんぶ燃えちまえ。
 妻女は火事よりも十右衛門が怖くなってきて、顔をそむけた。
 十右衛門はふと我に返る。
「おい、おまえら、逃げるぞ」
「逃げる。どこへ」
「船で沖にでる」
 十右衛門は下男下女に指図し、河村家に関わりのある者全員を屋敷の眼前に停泊させている自前の材木船に乗せた。
 肝心の十右衛門は屋敷内からもどらない。ついに焔が霊岸島にまで迫り、皆がやきもきしはじめたころ、大きな風呂敷包みを背負って十右衛門がもどった。
 船は沖に向かった。吹きすさんでいる戌亥ほくせいの風を帆にはらみ、へさきが焔の色に染まった海を断ち割っていく。すばらしい勢いだ。
 十右衛門が陸に目を凝らして嬉しそうな声をあげた。
「おお、燃えてるぞ。燃えてる、燃えてる」
 妻女は怖さを通り越して呆れ果てた。
 燃えているのは、自宅である。
 材木商であるから、燃えるものには事欠かない。焔は霊岸島全体に燃えひろがって、力まかせにほどかれていく帯のごとく、いよいよ猛り狂う。
 十右衛門は自宅が完全に消失したのを見届けると、舳先を浦賀のみなとに向けさせた。
「しかし今年は火事ばかりだな」
 やっとまともに返ったか──と、妻女は肩から力を抜く。けれど、我が家は燃え落ちてしまった。
 妻女は息を整えた。涙がにじんでしまったが、命があるだけましであると気持ちを切り替える。
「はい。火事ばかりです」
 妻女は顔をあげ、記憶を手繰る。
「元旦から四谷竹町が燃えました。正月二日も半蔵門あたりでしたか、松平越後守様のお屋敷が焼けました。正月五日は中間町、九日は麹町──」
 妻女は指折り数えて呟いていたが、眼前の大紅蓮を目の当たりに、虚しくなって言葉を呑んだ。
 江戸のすべての街が焔に舐めつくされ、消えていくのだ。喪失感に妻女は立っているのがやっとだ。
 十右衛門が、ぼそりと言う。
「雨が降っておらぬからな」
「──はい。なんでも昨年から八十日以上と聞きました」
「そりゃあ、乾くわな」
「はい。カラカラです」
「そりゃあ燃えるよな」
「はい。見てのとおりです」
 十右衛門がポンと肩を叩いてきた。
 妻女は焔の朱が照り映える十右衛門のかおを凝視した。
 すっと気持ちが変転した。
 この人といると、なんだか、あれやこれや悩むことが莫迦らしくなってくる。
 そんな妻女の気持ちを知ってか知らずか、十右衛門はごく軽い調子で言ってのけた。
「雇い人も増えてきて、手狭になっていた。焼けてちょうどよい。おまえには、しばし我慢を強いることとなるが、しばらくはよしんとこに世話になってろ」
 船が浦賀に着くと、十右衛門は大きな風呂敷包みを背負ったまま姿を消した。
 
.       *
 
 十右衛門は妻子を残して、籠や馬を使って信州は木曾に急いだ。
 途中の宿で、このたびの大火のあれこれが十右衛門のあとを追うようにして、伝わってきた。
 麻布の富裕な質屋である遠州家の娘、梅乃が本郷丸山の法華宗本妙寺に墓参に出向いた帰り、たまたますれ違い、上野の山に姿を消した小姓に一目惚れしたという。
 梅乃は病弱だった。原因不明のまま床に伏せってしまった。
 病に苦しみながらも、その美少年が忘れられずに梅乃は鬱々とした。
 高熱にうなされながらも、潤いをうしなった瞳で小姓の幻を追った。
 不憫に思った両親は、美少年が着ていたものと同じ荒磯と菊柄の振袖を梅乃にこしらえてやった。
 梅乃はその着物を抱き締めたまま、衰弱して死んでいった。
 悲嘆にくれた両親は、葬式のおり、娘の棺桶にこの振袖をかけてやった。
 本妙寺にて営まれた葬儀のあと、まるで棺桶に着せてやったかのような振袖を寺男が古着屋に売った。
 転売された振袖は、上野の紙商である大松屋の娘喜乃のものとなった。喜乃はこの振袖をたいそう愛おしんだ。
 ところが喜乃も、たいしてたたぬうちに他界してしまったのだ。
 喜乃の葬儀はまたもや本妙寺にて営まれたという。喜乃の両親の手によって振袖はふたたび棺桶にかけられた。
 怖い物知らずの寺男は、見覚えのある振袖をまた古着屋に売った。
 すると翌年、本郷は麹屋の娘である幾の葬儀が本妙寺で執り行われ、この振袖が三たび棺桶にかけられたというのである。
 寺男は葬式に伴うあれこれ、死者に関する物をもらってよいきたりである。振袖を転売したのは別段、とがめられることではない。
 けれど見覚えのある荒磯と菊柄の振袖を三度目の当たりにして、死に慣れきった者たちも、さすがに因縁にふるえた。寺男たちは住職に供養してやってくれと訴えでた。
 死した娘たちの供養にと正月十八日、本妙寺にて、大施餓鬼が執り行われた。
 娘の振袖を護摩壇のかがりに投じて念仏を唱えていたさなかに、狙い澄ましたかのように北の空からの竜巻が襲った。
 火のついた振袖は娘の立ち姿のごとく舞いあがり、本堂を燃えあがらせ、本尊の十界勧請曼荼羅も炎に包まれた。
 焔は折からの北西の風に四方八方に飛び火して、住職以下あれよあれよと狼狽うろたえるうちに、焔は常軌を逸した大火にまで育ってしまってあたりを焼き尽くしたという。
 ところがようやく鎮火したと誰もが安堵した翌朝に、ふたたび小石川から火の手があがり、さらに翌々日には麹町の三丁目あたりから焔が立ちあがった。
 後に振袖火事と名付けられたこの大火は、際限なく延焼し、三日間燃え続けて、江戸の三分の二以上を焼き尽くした。
 この尋常でない大災害には火付けの疑いも浮上した。てい牢人ろうにんによる放火、幕府に対するしょうせつの残党による放火、さらには人口密集はなはだしい江戸の街を大改造したいがために、幕府がしかけた放火であるという穿うがちすぎた見方まであった。
「燃える理由は、振袖だろうが付け火だろうがなんでもいいやな」
 と、十右衛門はうそぶく。背の大量の小判がぎしりと軋む。江戸が灰燼かいじんに帰すれば帰するほど、この種銭が生きる。
 旅のさなかに、続々と振袖火事の詳細が伝わってくる。
 実際は本妙寺の隣、菊坂下北の忠秋ただあきの屋敷が火元であるらしいということもわかってきた。
 されどこの空前の大火である。死者の数も尋常でない。老中の阿部家が火元となると幕府のけんにかかわる。結果、本妙寺が罪をかぶったという。
 けれど十右衛門は振袖の大火を心の中で受け容れていた。振袖云々うんぬんはいかにも作り話めいてはいるが、娘たちの切なさが沁み入ってくるからである。
 ともあれ法華陣門本妙寺からの出火は、折からの空っ風により本郷一丁目に燃え移り、湯島から駿河台方面に燃えひろがった。
 この火はさらに鎌倉河岸に燃え移り、烈風により神田明神から乱れ飛んだ火の粉は村松町、材木町を焦土と化して、柳原から和泉橋までをほぼ灰にした。
 湯島に延焼した焔は湯島天神社、神田明神社、東本願寺を次々に焼き払い、火はこのあたりから南に進み、諸大名の屋敷はすべて焼け焦げた柱だけとなった。
 駿河台の焔は二手にわかれて片方は誓願寺を迂回し、もう片方は須田町から鍛治町、銀町と勢いを増して南下した。
 夕刻になると強風は急に西風に変わり、遠方の鞘町に飛び火して東に延焼し、伊勢町から江戸橋付近で日本橋川および楓川を越えて茅場町を燃やし尽くした。
「さらに焔は東に拡がったそうで、ついには霊岸島にまで到りましてな」
 己の屋敷が燃え落ちるのを船上から眺めていた十右衛門である。
「哀れなことに、たくさんの者が霊岸島に逃げこみまして」
「哀れなことに?」
よう。哀れなことに霊岸島で行き止まり。焔に追われて逃げこんだ九千六百人ほどが焼け死んだそうな」
 十右衛門は無表情になった。
 早飛脚から仕入れたらしいあれこれを記憶を絞りだすように目をあげて開陳していた男は、十右衛門の様子に気付かずに続ける。
「霊岸島の焔は、停泊していた船に燃え移ったそうで、その焔の船が風に運ばれて海を隔てた佃島や石川島に達して、これも飛び火と言うんでしょうかなあ、総てを焼き尽くしたそうです」
 もう十右衛門は聞いていない。けれど男はかまわず、得意げに語る。
「大川を隔てた向島八幡宮も焼失し、吉原に迫り、瞬く間に吉原も灰燼に帰し、さらに西は境町に飛び火したあげく、掘りを隔てた堀江町にも延焼しましてな」
 十右衛門は黙って酒をあおる。
「火焔に追い立てられた皆の衆は巨大な流れと化して、浅草に殺到したそうな。なんと浅草堀に浮かんだ死体の上を駆けて逃げることができたそうです」
 酒が苦い。
「焔は誓願寺にも飛び火して大名小路に延焼して数十の寺院を焼き払いましてな、小伝馬町のほうからの焔は罪人までもまきこんで、普段は恐ろしい兇状持ですが、焔はさらに恐ろしい。追い立てられた数万を呑みこんだといいます」
 十右衛門は酔わず、どんどん顔色が白くなっていく。
「夜になっても業火は衰えることを知らず、火は海沿いに並んでいる諸大名の屋敷を次から次に灰にして、はるか離れた牛島新田の百姓家までも焼き払ったというから、てつもない大火。鎮火したのは翌四日のうしつ時とのことでございます」
 十右衛門は嬉しそうに語る男をじろりと見やる。男は気にせず、わざとらしく目を見ひらいて付け加えた。
「結局、死者、十万超とのこと」
「もういい」
「さいですか」
 男は不服そうに口をつぐんだ。
 
.       *
 
 美少年に焦がれ死に──。
 恋い焦がれて死ぬ。
 十右衛門は恋に胸を焦がす娘の気持ちがよくわかった。身に沁みていた。
あい
 ぼそりと呟いて、前屈みになって足を速める。木洩れ日を追いかけるかのように、ときおり、どさりと雪の塊が木々のあいだから落ちてくる。
 男と女の違いはあれど、人を恋うる気持ちに違いはない。
 いまでは、妻子もちとなった十右衛門である。妻子になんら不満を抱いてはいないが、十右衛門の胸を焦がす恋情は消え去ることがない。
 中仙道といえども木曾路のこのあたりは残雪が深く、行き交う者もほとんどいない。
 ざらのように固まった雪を踏み締めていくうちに足指が凍えた。感覚が完全に失せた。
 十右衛門は手頃な石の上の雪を手で雑に薙ぎ、腰をおろすとじっくり足指を揉む。
 三十九歳になった。
 かたくなに伊勢には近寄らなかった。
 いまでは飯代の五十両くらい、造作なく払ってやることができる。
 百両でも払う──と啖呵を切ったものだ。それができるようになったのだが、十右衛門は煮え切らない。
 よく、夢に見る。
 の藍はいつだって美しい。
 愁夢の裡の藍は、まったく歳をとらぬ。
 憂いに充ちた眼差しで、静かに十右衛門を見やる。
 すると十右衛門は汐の匂いがかすかにまざった藍の肌の香気をたしかに感じるのである。
 胸苦しくなる。
 ぐっと気を充たして、立て膝の藍を見おろす。藍が上目遣いで十右衛門を見返す。
 藍の眼前に百両、並べる。
 心の底からの礼を言う。
 藍の顔が輝く。
 金額ではない。
 百両は、十右衛門がいっぱしの男になった証しだ。
 一生、藍の面倒を見てやりたい。
 そのためにもこのたびの振袖の大火は、千載一遇の好機である。
 一気に財を増やすことができる。
 十右衛門には目算と勝算があった。
 だから自身の屋敷が燃えるのを、笑みをたたえて見守った。
 もっともっと大きな屋敷を建てる。
 そこに藍を引きとりたい。
 だが十右衛門は自信がなかった。
 傲岸に振る舞うことを覚えた十右衛門ではあったが、藍に対しては初めて出逢った十三歳のころのままだった。
 気のせいだろうか、幽かにひのきの芳香を嗅いだ。
 
.       *
 
 材木のやりとりの約定を交わしている男の家は、思いのほか質素だった。ただし柱などは見事な檜だ。
 男は木曾の実力者だ。山林の木材のほとんどを自在に動かすことができた。
 白い息をついている十右衛門を一瞥して、無愛想に引っ込んでしまった。
 火事場から駆けたので、なんともひどい恰好だったからである。
 十右衛門は肩をすくめた。冷静になってみれば、大火のすすで汚れてすぼらしすぎる。木曾の木材の総てを独占取引してくれと迫る男の姿ではない。
 苦笑しつつ、火鉢の炭の燃える匂いを胸に吸いこむ。炭だけが赤々と勢いがいい。
 さて、どうしたものか。
ときとの戦いだからなあ」
 呟いたが、取引の実際は常ににまかせて、木曾を訪れることもなかった。勢いだけで飛びだしてきてしまったのだ。自分を信用させる手立てがうかばない。
 気配に気付く。
 この屋の娘だった。
 七つ、八つといったところか。好奇心あふれる、くりくりした黒目がちの眼差しが可愛らしい。
 十右衛門は笑みを向け、火鉢の中で赤熱している炭に、鉄火箸を突っ込む。
 なにをしているのか──と娘は凝視している。あきらかに十右衛門の手つきには意図があり、それを娘は見抜いたからである。
 十右衛門はふたたび満面の笑みを向けて娘を安心させ、頃合いをみて手招きする。
 おずおずと近づいてきた娘に、火箸の尖端を示す。
「真っ赤に灼けただろ」
「うん」
「これをな、こうして、ほら」
「あ! 穴があいた」
「綺麗にあいただろう」
「うん! まさかあくなんて」
「よし。もう一枚、あけてしまおう。で、そのりをもってきてごらん」
 娘が自身で紅白の和紙をりあげたのを承知で、頼み込んだのである。
 十右衛門と娘は、穴を凝視している。
「も少し冷まさないとな。せっかくの紙縒りが焼け切れてしまうからな」
「山吹って言うんでしょ」
「よく知ってるなあ」
「お父は、お金が大好きだから」
「ははは。人は皆、お金が好きだよ」
「そうかな」
「そう。でもな」
「はい」
「それほど好きでない人も、ごく稀にいる」
「どんな人?」
「俺が知っているのは海女でな」
 海のない土地の娘が目を見ひらき、昂ぶった声をあげる。
「海に潜る人!」
「そうだよ。とても綺麗な人で、でも」
「でも?」
「お金とかにはあまり興味がないみたいだったな」
「ふーん」
 心の中で自分はどうか? と問うているのだろう。考え深げな娘が好ましい。
「そろそろ冷えたかな」
 十右衛門は焼け火箸で穴をあけた二枚の小判に紙縒りをとおした。
 娘の首にかけてやると、怪訝そうに見返してきた。
「跳ねてごらん」
「こう?」
 娘は座敷で軽やかに跳ねた。
 小判同士がぶつかりあい、金の澄んだ音があたりに響く。
 その音が嬉しくて跳ねる、跳ねる、娘は跳ねる。
 いったん引っ込んだ父親が、何事かと顔を覗かせた。
 娘の胸元で踊る二枚の黄金色に気付く。
「お父、あたしのくび飾りだよ!」
 男がしげしげと十右衛門を見る。
「穴を、あけなすった?」
 十右衛門は恥ずかしそうに頷く。
 男が、呆れ顔で呟く。
「慶長金に穴を──」
「これでね」
 十右衛門は笑みを泛べたまま、まだ赤熱がおさまらない火箸を示す。
「酔狂な」
「あまりに可愛らしい娘さんなんでね、頸を飾ってあげたくてね」
 十右衛門は背負ってきた風呂敷包みを、男の眼前でひらく。
 がしゃり、がらがら、がらがしゃり。
 大判小判が畳の上に流れだす。
 やたらと重い荷だった。大判小判であることを悟られぬため、きつく結わえて軋みがでないよう気配りしてきた。
 ぶちまけて、軀にも心にも解放感が拡がって、肩から力が抜けた。十右衛門は床に散った黄金色を見やって言う。
「金をぶちまける。下品な遣り口だ。無礼は承知の上。なにせ火事場から即座に駆けたんで──」
 これしか己を明かすものはない、という言葉を呑みこむ。
 男は十右衛門と大判小判を見較べる。一歩引いた口調で言う。
「今朝、聞いたんだが、凄まじい大火だったそうで」
「ああ。凄かった。江戸の街は綺麗さっぱり焼け野原だ」
 男は煤で汚れた顔のまま木曾まで駆けた十右衛門の意図を察した。
「風呂など、どうです?」
「ああ、いいですなあ」
「着るもんも用意させましょう」
「それは、ありがたい」
 十右衛門は男を真正面から見つめる。
「さしあたり、それは手付けということで」
 男が生唾を呑む音が聴こえそうだ。
「総ての木材を俺のところに。すなわち独占です。独占すればどうなります?」
「俺とあんたと──」
「そう。独占。焼け野原となった江戸では、誰もが木材をしがる。これすなわち、自在に価格をいじれるということ。お互いの儲けは、半端なものではありませぬぞ」
 男はあせった顔つきで、幾度も頷く。
 娘はまだ跳ねている。黄金のぶつかる澄んだ音は、たいそう美しい。
 
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 綺麗に焼けた霊岸島に、新たな河村家の屋敷が建った。
 この大火のせいで、場所によっては延焼を防ぐために広小路などを整備しなければならなくなったのだが、そういった決まりがなくとも十右衛門は自宅の周囲を広くあけた。
「どのみち、燃えるときは燃えるが、一応は備えておくということだ」
 独りごちて、腕組みして満足げに新居を見つめる。
 木曾の木材を一手に扱い、他の材木商に卸しているうちに、十右衛門が思っていたよりもはるかに多額の金銭が懐に入った。
 大工の需要も、木材があってこそなので親方が十右衛門のところに材木を求めて押し寄せるほどだった。
 新居のもっとも奥まったところに白砂も瀟洒な内庭がついた六畳ほどの部屋がある。陽当たりもよく、とてもくつろげる。
 誰の部屋でもない──と十右衛門は妻子に告げていた。こうして空けておくんだ──とも付け加えた。
 ときどき十右衛門はこの部屋に独り座し、静かに思いにふける。
 藍。
 胸中で呟いて、幸福と不安のようなものが入り交じった感情を味わう。
 いつかこの部屋に藍を呼ぶ日がくることを強く念じている。藍にここで暮らしてもらいたい。
 そのために必死で背伸びして、意地になって銭を稼いだ。
 お互い、歳を重ねた。
 藍は十右衛門よりも十、あるいは二十ほども歳が上だろう。
 十右衛門はこの部屋に藍を座らせて、ゆっくり肩を揉んでやりたい。
「そんなことを受け容れるような藍ではないがな」
 頬笑みながら独り言だ。
「なんでもいい。藍に楽をさせてやる」
 いよいよ笑みが深くなる。
 うぐいすの声が届いた。ささ鳴きだ。
 十右衛門は地鳴きの変化に意識を集中し、早く谷渡りを聞かせろと耳をます。
 ほーほけきょ──と狙い澄ましたように鳴いた。
 十右衛門は大きく頷いた。
 吉兆だ、と判じて立ちあがる。
 
.       *
 
 瑞賢ずいけんという号をつくった。
 金銭的な余裕ができて、書画などに親しむことができるようになったからだ。周囲からも河村瑞賢と呼ばれるようになった。
 新居の庭先に立って振り返り見れば、威容を誇っていた江戸城の天守閣も焼けおちて、青空が広くなった。もはや幕府は新たに天守閣をつくりなおす気もないようだ。
 焼け野原となった霊岸島には新たな都市計画に則って続々と商人が移された。商人たちは土木事業に実績のある瑞賢に輸送の不便さを訴えた。
 商人共をまとめあげた瑞賢は、霊岸島の中央に日本橋川と並行して隅田川に到る新川という運河の掘削を幕府に願いでた。
 また物資運搬のことを第一に、新川には一ノ橋から三ノ橋まで、さらに霊岸島を囲む掘に五つの橋を架けることを認めさせた。
 瑞賢は以前の人足集めから始まって土木工事などで役人に顔がきく。
 大火のあとの焼け野原でもあり、瑞賢の都市計画がすばらしく、役人が参考にしたがるほどなので、許可を得るのは簡単で、即座に工事に着手した。
 これにより、後に架橋される永代橋まで畿内からの廻船が入りこむことができるようになり、霊岸島は江戸の港として大いに栄えることとなる。
 筋道を立てて考えることができるだけでなく、瑞賢には絵が見える。これをこうしたらこうなる、という絵が見える。理詰めのうえに、鮮やかな絵が描ける。
 だからこそ、難しい土木事業も最終的な絵に従って完成させることができる。
 このときも将来架かる永代橋の姿までもが脳裏に鮮やかに泛んでいて、それを実現するために新川の規模を思案したのである。
 こうした工事の巧みさで、瑞賢にはいつのまにか材木商よりも土木建築業の仕事の依頼が多くなって、繁忙を極めるようになっていった。
 整備した霊岸島の新川河岸の周囲に、瑞賢は積極的に酒蔵を誘致した。
 これから記すのは新川が掘削され、港が整う前、振袖の大火の少し前の話である。
 大坂富田屋や摂津伝法でんぽう村の屋などの船問屋は、廻船問屋泉屋平右衛門を主体とする組問屋のがき廻船に対抗できなくなり、ひそかに瑞賢にどうしたらよいものかと相談したのである。
「速さでしょう」
 と、瑞賢は即答した。
 伊勢には近寄らぬ瑞賢だが、いつかは水運をとの思いがあるので、船舶や航路を独自に学び、研究していた。
 漬物屋をはじめたころ、雲光院の玄恵げんけいに味わわせてもらった昆布の旨味が脳裏に刻み込まれていた。
 いつかは蝦夷地まで──という心窃かに抱いた夢を、まだ棄てていないのだ。
 藍が軀を張ってつくってくれたしょちょうを胸に、わたあらはまの湊から江戸に向かった十三のときの昂ぶりを忘れていない。
 船に詳しい瑞賢は、相談にきた富田屋と毛馬屋、とりわけ毛馬屋の金壺眼をじっと見つめ、笑んだ。
「毛馬屋殿は摂津伝法村。摂津伝法村といえば伝法船」
 灯台もと暗しではないが、常日頃から伝法船を用いていた毛馬屋は目を見ひらいた。
「されど伝法船は小廻船。伝法村近辺のみで使われておるから、伝法船。せいぜい四十丁櫓程度でございますぞ」
「だから好いのではないですか。問題は熟達した水主と積み荷。上方から江戸の航路は幸いにもいぬぼうさきを抜けずにすみますが、いままでどおりでは思わしくない。航路は私が考えましょう」
 航路──と、富田屋と毛馬屋は息を呑みはしたが、まともに捉えてはいない。
 それでも航路はともかく、なんとなく瑞賢にまかせればうまくいくという商人ならではの勘がはたらいた。
 恐るおそるといった態で、毛馬屋が訊く。
「水主はなんとかしましょう。だが、なにを積めばよいのです?」
「決まってますよ。酒です」
「酒!」
「伝法船はとにかく船脚が速い。飛脚船にしておくのは惜しい。樽詰めの酒を江戸にどんどん送りこんでください」
 毛馬屋は得心してうなずいていたが、富田屋は要領を得ない顔つきである。
「なぜ、酒を?」
「呑まないのですか?」
「生憎、で──」
「頼朝様の時代から、酒には多大なる税がかけられております。なぜ税をかけるかといえば、たしなまれない富田屋さんは酒に毒されておらぬから、わからないかもしれませんが」
 いったん言葉を呑んで、毛馬屋に親愛の眼差しを投げる。
「酒毒に染まっている御仁ならば、即座に理解なされるでしょう。人は酒に毒されるのですよ」
「毒される」
「そう。酒は呑みつけると、やめられなくなるのです。身持ちをくずす者も多い。それほど病み付きになるものです。病が付く。病み付きです」
「つまり病み付きになった者は、呑まずにはいられぬと?」
「毛馬屋さんにお訊きなさい」
 毛馬屋は酒のよさを勢いこんで語りはじめて、止まらない。
 頃合いを見て瑞賢が割り込んだ。
 室町幕府の時代より幕府は酒蔵を有力な財源として捉えて特権を与え、酒屋役や壺銭と呼ばれた酒税を徴収してきたこと、幕府にとっては年貢以外の重要な収入源であることを説いた。
「はじめのうちは幕府も民が酒に病んで堕落することを恐れて禁止したりしてはいたのですが、逆に酒に病み付きとなれば、税収はどんどん上がるということで──」
 なるほどと深く頷く下戸の富田屋に、ニヤリとする瑞賢であった。
「お二方は、酒に特化したらよろしい。いまの時代、米の値段がそのまま物価の基準となっております。ゆえに米から酒をつくる酒蔵は、各地から集まった米を買い込んで現金化します。実際、幕府は米の流通量ばかり気にしておりますな。即ち米の流通調整に酒蔵が大きく関わっております。じつは酒蔵は米相場を管理調整しておるのです」
 ここまで語れば、富田屋も毛馬屋も酒を素早く江戸に運ぶことの利を悟っていた。
 江戸の酒はうまくないのである。
 上方の酒が珍重されているのである。
 需要に供給が追いついていないのである。
 素早く運べば、巨万の富を得ることができるのである。
「灘や西宮の酒蔵と結ぶように」
 二人は大きく頷いた。
 二百から四百石積みの伝法船に酒樽を満載し、速やかに江戸に届ける。
 大火のあと、瑞賢が真っ先に霊岸島の河岸を整備して船荷の上げ下ろしが滞らぬようにし、新川河岸の周囲に積極的に酒蔵を誘致したのには、ような思惑があったのだ。
 口にすることはできないが、瑞賢は霊岸島が燃えつきたのを千載一遇と捉えていた。
 幕府の命という大義名分で皆をきつけ、先導して、霊岸島の新たな都市計画を実行したのだ。
 富田屋や毛馬屋が用いた廻船は、小さくて速力が出るためにはやと呼ばれていた。小早は酒樽ばかりを運ぶ。即ち荷主が灘などの上方の酒元であることから、樽廻船と称されるようになった。
 やがて樽廻船は高速と低運賃を売りにして菱垣廻船を圧倒するようになった。
 また樽廻船は積荷勝手次第を第一に掲げ、菱垣廻船との協定を平然と破って、そのときに需要のある物、金になる物、積みたい物を積むという姿勢をとり、いよいよ隆盛を誇ることとなる。

次回に続く)

【第一回】  【第二回】  【第三回】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。

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