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海路歴程 第十一回<上>/花村萬月

.     09〈承前〉

 中途半端にひらいたひびれた唇から、薄汚く黄ばんだ糸切り歯が見える。前歯はない。落雷したときに泣き騒いでおやに殴られ、折られたのだ。
 貞親さだちかほうけて、ひたすらかしきの糸切り歯を見つめた。歯には艶がまったくなく、乾ききっていたが、尖りが獣じみていた。その脇に生えている歯と歯のあいだに、薄白いものがはさまっている。
 盗み食いしやがって──胸中で吐き棄て、貞親は無理やり口をひらいて歯の隙間にはさまったものをつまみ、引き抜いた。
 凝視する。
 いったい何か? 判然としない。
 しばらく指先でいじくりまわして、唐突に気付く。
「船板だ──」
 信天翁あほうどりの肉や血をもらえずに、空腹のあまり、蘭引らんびきの焚きつけに使っていた船材を食ったのだ。
 飢饉のときに、百姓はわらまじりの壁土を食うと聞いた。貞親は笑んだ。
「船板くらって、仕舞いは、まるで水夫かこみてえじゃねえか」
 陽射しは容赦なく、畳針を束ねたかのような鋭さで、爨のたいを、貞親の肌を突き抜いていく。
 雪が舞い散る箱館から出港したのが信じ難い。日輪が猛り狂っているのに合わせて頭がおかしくなりそうな熱が降ってくる。爨の屍体の前で貞親は一瞬、朦朧とした。
 貞親は爨の頰で乾いた涙に気付いた。目尻から耳に伝う涙の痕は、小さな蛞蝓なめくじったかのような銀白で、すぼらしかった。
「まったく、なんとも小汚ねえ」
 呟いたとたんに目頭が熱をもった。
「泣くとこかよ。からだの水気がますます抜けちまうぞ」
 船頭がたしなめたが、ひょうきんさを意識した口調のせいで逆に重々しく貞親を圧迫した。
 明日は我が身──と、いかりさばきは放心して動かない。すべてを遮断して、完全に己のみの世界に這入はいってしまっていた。
 耳障りなしわぶきが届いた。
「この餓鬼の生まれは上州若宮だがよ、親たちは流行り病でくたばりやがってな。村人もほとんど、くたばりやがったよ」
 地の底から伝わるかの、やたらとか細いかすれ声に、貞親は動揺を抑えられず、ぎこちなく声のほうに顔を向けた。
 親司だった。肘で這って伏せったまま、ほとんど口を動かさずに続ける。
「俺がな、俺が拾ってやらなかったら、飢え死にしてただろうよ」
 もう顔をあげる気力も失せたらしく、額を船体に落とし込んで憑かれた声をあげる。
「この餓鬼は、甲陽丸こうようまるに乗れて喜んでたんだぜ。もう、飢えずにすむってな。腹一杯、白いおまんま食えるってな」
 親司の言葉だが、なにを、あるいは誰を呪っているのかわからぬが、じゅに聞こえた。己を責められているかのように感じ、貞親はぎこちなく喉仏を上下させた。
 甲陽丸の横腹をくすぐる不規則な波の音が耳について、貞親は息を荒らげる。流しかけた涙は親司の声に吸いとられ、消えていた。貞親は波の地獄にほうり込まれたかの恐怖を覚え、鳥肌が全身をはしっていく。
「おい、これ、見ろや」
 船頭が顎をしゃくって爨の顔を示す。
 柄が刺さった当初は富士壺じみた穴が開いていたが、とっくに赤黒くふさがっていた。ところが皮膚の下でうごめくものがある。船頭が伸び放題、割れ放題の爪で爨の額を裂いた。
 うじが這い出てきた。信じ難いことだが、爨の軀の中で生きていたのだ。貞親は独りごちる。
伴助ばんすけが付けた傷だ」
「てめえ、俺様を呼び棄てるんじゃねえ」
「けど、船頭がしゃくの柄を投げて、ぶっ刺したんだ」
「そーだっけ」
 すっとぼけた船頭が、感に堪えぬといった感じで呟く。
「すげえもんだな、蛆ってやつは。きっと内側でよ、この餓鬼の肉をひたすら啖ってたんだな」
 得心したかのごとく頷くと、指先で器用に蛆を抓み、ひょいと口に抛り込んだ。
 音が聞こえるはずもないが、貞親は船頭の口中で蛆が潰れるプチッという音をたしかに聴いた。
「蛆も薄情なもんだぜ。くたばったことがわかったとたんに、ほれ、いっせいに逃げだしやがる。餓鬼の内側をほとんど食い尽くしちまったから、用済みってか。しかし間抜けだよな、蛆虫も。傷がふさがっちまったから、逃げられなかったんだぜ」
 船頭は素早く逃げる蛆を追う。抓みあげて口に抛り込む。船頭の言っていることは理窟にもなっていないれ言以前だが、きつく貞親を締めあげていく。
「ほれ、おめえらも啖えってんだ」
 貞親は船頭の笑みに威圧されて、うつむくばかりだ。一呼吸おいて、そんな貞親の肩口を、痩せ細った足で蹴ってきた。爨の屍骸を目で示す。
「食うんだろ、これ」
「言うに事欠いて、これ、は、ねえですよ」
「死んだらな、物になるんだよ。これ、でいいんだよ」
 西日が爨の涙の痕を浮かびあがらせる。
 船頭は傷口に指を突っ込んで雑に蛆を探っていたが、もう蛆は見つからなかった。蛆を食い尽くした船頭は、大欠伸をした。うみでぬめる指先で、目尻の涙をこそげる。
 波の音だけになった。
 西日が盛って、世界が目映い黄金色に染まっている。
「こら、貞親。とっとと食いやがれ」
 貞親は船頭と爨の屍体を交互に見た。船頭が指先にこびりついた膿の臭いを嗅ぎながら言う。
「俺は蛆を食ったから、もういらねえ。こんな臭え肉、食いたくもねえ」
「──俺も、とてもとても」
「だらしねえなあ、てめえ」
「だめなもんは、だめでさあ」
「じゃあ、葬式だ」
 船頭は爨の両脇に手を挿しいれ、力んで海に棄てた。
「こっから先、いってえ誰が蘭引の火をあれすんだよ?」
 船頭の声が煩わしい。殴りかかりたいところだが、力が湧かぬ。貞親は爨の歯にはさまっていた船材だった繊維とでもいうべきものを無意識のうちに棄てた。指先で抓んだままになっていたのだ。
「あれ、貞親よ」
五月蝿うるせえよ」
「でもよ、貞親」
「なに」
邪慳じゃけんにすんなよ。ほら──」
「だから、なに」
「親司。死んでる」
 船頭が薄く笑う。
「係累がくたばったら、お役御免てなもんでよ、あの世に逃げだしやがった」
「そういう物言いは、ねえでしょうが」
「俺は餓鬼を抛り込んだんだから、親司はてめえが抛り込むなり煮るなり焼くなりしろ。って、食うところがねえか」
 貞親は必死で力み、大きく顔を歪めて、親司を海に落とし込んだ。
 碇捌は息をしてはいるが、もはやなにも見ていない。見えていない。
 俺もこいつも、時間の問題だ──と貞親は碇捌を見やる。船頭だけが荒い息をついて、ときに貧乏揺すりさえしている。
「なあ、貞親」
「──なんですか」
「なぜ、食わんかった?」
「船頭がかしたとおり、食うとこがねえからですよ」
「噓こけ」
 黙っててくれねえか──と貞親は船頭を睨みつける。船頭は大げさに首をすくめた。
「なあ、貞親。餓鬼の肉はともかく、蛆虫、食いたかったか?」
 味噌に蛆が涌いたときはたいして気にもしなかったが、屍体の蛆となれば別だ。
「食いたくもねえ。見たくもねえ」
「ふーん。人の肉と蛆虫と、どんだけ差があんだろうな」
 貞親は吐き棄てた。
「──口に入れちまえば、一緒だろうが」
 船頭がおちょくる。
「達観してやがるなあ」
 貞親は膝のあいだに顔を突っ込んで、船頭を無視する。そよとも風が吹かぬ夜が忍び寄ってきた。海は静まりかえっている。

.   *

 鮫の骨はすっかり干涸ひからびた。死んでたいしてたたぬうちは案外刃物を受け付けたのだが、時間がたって、すっかり硬くなった。臭気も薄まった。
 動けないと言ってしまえばそれまでだが、碇捌も貞親も薄ぼんやり転がっているばかりで、蘭引は船頭が引き受けて、なたで甲陽丸を破壊し、まきにして、貞親にも碇捌にも、そして自分にも均等に水を分ける。
 雨が降りさえすれば船頭の苦労も一段落するのだが、抜けるような青空が拡がるばかりだ。
 抜けるような青空の頭に間をつけて、間抜けな青空──と、貞親は吐き棄てていた。実際、海も空も、甲陽丸を小莫迦にしている気配である。
 貞親はすっかり原形を喪った甲陽丸を見やりながら訊く。
「なぜ、見棄てねえ?」
「水か? 俺はてめえらを雇ってんだぜ」
「──わけがわからん。なにを言ってんのかわからねえ」
「わからねえのは、てめえのおつむが、その程度ってことだ。そんなことよりも、蕎麦搔きにたっぷり醬油をかけて食いてえなあ。蕎麦搔きには、紀州湯浅の醬油があつらえたみてえに合うんだよ~」
「蕎麦搔き」
 貞親の鼻腔に蕎麦の薫りが充ちた。聞こえているのかいないのか、傍らに転がっている碇捌も口からよだれをたらして笑んでいる。貞親はずいぶん間をおいて、繰り返す。
「蕎麦搔き」
「俺は蕎麦が嫌えだったんだ。貧乏臭えだろが。色がよろしくねえ」
「慥かにどんのほうが──」
「だろ! けど、なぜか、蕎麦搔きだ。貧乏臭くたって、いま食いてえのは蕎麦搔きだ。箸が折れるくれえの勢いでぶっ搔きまわしてよ、醬油をドボドボぶっかけて──」
 貞親が皮肉な眼差しを投げる。
「貧乏臭えんじゃねえ。俺も船頭も貧乏が似合ってるってことだ」
「沈めるぞ、てめえ。俺は、金だけは、もってんだよ」
「それは、それは」
 返しながら、貞親は拳をむようにして小さな笑い声をあげ、付け加える。
「いくら金をもってたって、ここじゃ遣いようがねえじゃねえか」
 峠を越えてしまったというのか、軀と心が慣れてしまったというべきか、動くのは億劫で大儀だが、お喋りの受け答えは以前ほどつらくなくなってきた。
 碇捌は黙りこくって半覚醒、ときに夢を見て頰笑んだり、なにやら聞きとれぬ声で譫言うわごとを洩らし、あげく不規則なふるえ声をあげておびえたりしている。
 かったるいと不平を言いながらも、船頭だけが動く。自棄気味に鉈を振りまわして甲陽丸を破壊し、蘭引の火を燃やす。この日は甲陽丸自体の傾き具合を勘案し、ついに伝馬船を破壊した。
 常に海水を浴びている船材は火付きがよくない。船頭はかんしゃくを起こしそうになると大きく顔を歪めて着火を諦め、崩壊した伝馬に鉈を叩き込む。もちろん力は弱々しいが、八つ当たりがてら、次の分の薪をこしらえているようだ。
 鬱憤を晴らすと、ふたたびひうちがねと燧石を手にする。
 青白く焦臭い煙が流れてきた。
 これで少しだが水が飲める。息をついて安堵する。貞親にとって船頭の働きが命の支えになっていた。
 船頭が、漆が剝げ落ち、あちこち欠けた椀に半分ほどの水をもってきてくれる。
 貞親はいぶされた匂いのする水を、捧げもつようにして飲む。椀をめる。
 碇捌は水がきたときだけ目を見ひらき、喉を鳴らし、水を飲み干してしまうと、放心する。
 船頭も一息に水を飲み干す。椀を舐めまわす貞親ほど水に執着していないようにも見える。それを小声で指摘すると、ぼやき声が返ってきた。
「貞親はわかってねえよ。俺だって飲みたくてたまらねえよ。ゲロ、吐くまで飲んでみてえさ。ちくしょう。これを見ろや。水が足りねえから肉がげただけじゃなくて、すっかり干涸らびちまったぜ」
 船頭が痩せ細ってしわだらけのはくの皮膚を抓んで示す。
「いくらでも皮が伸びるんだよな」
「気持ちわりいから、やめてくれ」
「貞親は、ほんと冷てえな。なんか手前勝手なんだよな。痛々しいとか言ってくれてもいいんだぜ」
「伴助をかまってる余裕はねえんだよ」
「あ、また呼び棄てやがった」
「船頭様。静かにしてくれませんかね」
「てめえ、ぶっ殺すぞ」
 眉間に険悪な縦皺を刻んだが、苦笑いしながら呟く。
「──って、それが望みか」
「うふふ」
「気持ちわりいな、なんなんだよ、その笑いは」
「いえね、俺は船頭が言うとおり、手前勝手だなあって」
「やっと気付いたか」
 貞親は大きく頷く。
「やっと気付きました。様子のいいときは、仁者にして善人で、皆から敬われるように気など配っていい顔をして、ところが腹が空けば平気で人の肉を食うつもりになって」
「あたりめえじゃねえか。腹がへって、食うもんが間近にありゃあ、口にする。そんだけのこった」
 貞親の脳裏で巨大な鮫が跳躍する。
わにの肉も人の肉も、いっしょってえことですね」
「そのとおり。だいたい俺は、もう蘭引の火を燃やすんだって息も絶えだえだぜ。てめえが何してんのかわからなくなる。鉈の重みがこたえちまって、取り落としてばかりだ。そんなこんなで、問題は骨皮筋右衛門をバラす余力がなくて面倒臭えってことよ。だってよ、食うとこがねえんだぜ」
「まったく。じつに、そそられねえ」
「な。肉付きのいいうちに、食っときゃよかったよ」
 貞親は船頭の視線を追う。転がった碇捌の胸が間遠に上下している。
「だめですよ、食っちゃ」
「だから骨皮筋右衛門は食うとこがねえって言ってんだろが」
「骨を叩き折って、髄をすすれば?」
「貞親がその労を引き受けてくれるんなら、よろこんで戴くぜ。こりゃ、いいや。まさに骨折りだ」
 絵に描いたような呵々かかたいしょうが、続いた。
「──船頭は、ほんと、よく笑うなあ」
「笑わねえと、やってけねえだろ」
「ですね」
 船頭が顔を覗きこんできた。
「なんか、おめえ、盛り返してねえか?」
 情けない笑みを返す。
「動けないんですけどね」
「なんなんだろな、あれこれ思いだけはぐるぐる駆けめぐりやがってな。意外におつむは冴えてんだよな」
「俺もなんかおつむが透きとおって、雑念がなくなっちまった。でも、もう、まったく身動きできねえ」
「俺もさ、本音は、もう鉈を手にするのが苦しくて、しんどくて、ときどき気ぃうしないそうだよ」
 船頭が、じっと手を見る。貞親が横目で見やる。船頭は放心して、眼前の掌に目の焦点が合っていなかった。他人の様子をしんしゃくする余裕はないが、凄い男だと貞親は感じいっていた。
「もう、充分にやってくれましたって」
「薄気味悪いな」
「本音ですって。掛け値なし」
 船頭は鼻で笑った。
「貞親よ。おめえは俺が、大嫌いだ。それははなから悟ってたさ。けど俺は、どうしても貞親の腕がしかったんだよ」
 貞親が自分の腕に視線を落とす。飢餓のせいで食い物を見る眼差しで己の腕を見てしまったが、操船の腕を慾したということだ。船頭は自嘲気味に続ける。
「だから嫌われてるのは百も承知で甲陽丸に乗ってくれって、頭を下げたんだ。この俺様が頭、下げたんだぞ。けどよお、いまだって俺がでえきれえだからなあ。まったく、なんでそんなに嫌うかなあ」
「きっと羨ましかったんでしょう」
 けっ、と船頭は唾を吐く仕種をした。もちろん吐く唾はない。
 貞親も身動きできないが、船頭も立てた膝に顎をおいて、黙りこくった。
 沈黙すると波の音が耳につく。疎ましいけれど、いらつ気力もない。ざばざば際限なく声をあげて、海は船頭よりもやかましい。どうせなら真っ平らで動かない鏡になってくれ、と貞親は胸中で控えめに祈る。
 視野に入っている影が、少しずつ移動して短くなっていく。頭が働かず、その影をつくっているのがなにであるか判然としない。強弁すれば、純粋な影だ。
 貞親は女郎屋で蕎麦搔きを食う妄想にふけった。女郎と一緒に蕎麦搔き。有り得ない。船頭の言う通り、味はともかく貧乏臭いと毛嫌いしてきた。航海がうまくいけば、それなりに金が入る水夫ならではだが、俺は水呑百姓じゃねえ、といったおごりさえあった。
 うゎおおおぉ──。
 奇妙な雄叫びが迫った。
 なにか? と気怠げに顔を向けかけた瞬間に、碇捌が雪崩れこむように貞親にすがりついてきた。肩口に嚙みついてきた。
 歯がすべて抜けてしまっているので傷こそできないが、歯茎だけでも凄まじい圧がある。
「狂いやがった」
 大儀そうに立ちあがった船頭が、碇捌の蓬髪を雑に摑んで引き剝がしてくれた。やってられねえ──といった顔つきで、投げだすかのように碇捌を横たえる。仁王立ちというには衰えてしまったが、すっくと立って、じっと見おろす。
 碇捌は事切れていた。指先が宙を搔きむしるかたちのまま、固まっていた。貞親を食い千切ろうとしたままの表情で、顔全体に無数の獰猛どうもうな皺が刻まれていた。貞親が泣き声をあげた。
「なんか地獄だ」
「まったくだ」
 船頭は他人事のように同意し、息みながら碇捌を海に投げ落とした。雑に手を合わせると、貞親の傍らにどさりと座りこんだ。しばし荒い呼吸を整えて迫る。
「めそめそすんなよ。目から水が流れてもったいねえじゃねえか」
「舐めても、いいですぜ」
「気持ちわりいこと吐かすなよ」
 貞親はすがるように訊く。
「なぜ、船頭は耐えられる?」
「なんのこっちゃ。耐えられるわけ、ねえだろが。しいて言えば」
「しいて言えば?」
「死ぬときは、死ぬ」
「死ぬときは、死ぬ」
「鬱陶しいから、繰り返すな」
「すんません」
 貞親は、ごくゆるやかな楕円を描いて微動だにしない水平線を見やる。穏やかで青緑にきらめいてじつに美しい。
 間違いなく、地獄だ。青緑の地獄だ。静穏な地獄だ。美しき地獄だ。船頭が短く息をつく。
「ついに二人だけになっちまったな」
「さすがの船頭も、そこまで衰えちまうと、俺の菊座をアレできねえでしょう」
「もともと野郎になんぞ、そそられたためしがねえよ」
「あ、そうだったんだ?」
「なんでえ、がっかりしたツラして」
「ありゃあ芝居みてえなもんだったのか」
「まあな。受け狙いだよ。なんか面白えだろう」
「よくわからねえよ、船頭は」
 貞親は首を左右に振ったつもりだが、わずかに婆娑羅ばさらがみが揺れただけだ。船頭が淡々とした声で言う。
「俺の魔羅は立派だぜ。仕分けすんなら、糞搔き魔羅ってやつだ」
 貞親は苦笑いとともに頰を歪めた。
「なんかすっげー雁高って感じだな。掘られたら、てえへんだ。はらわたまで引きずりだされちまいそうだぜ」
「だから、掘る気はねえって言ってんだろ」
「そうか。そうだった」
 落ち着き払った声で船頭が呟く。
「貞親よ。てめえのほうこそ、そっちの気があんだよ」
「そうか。そうだったのか」
「与太じゃねえぞ。おめえは男が好き。俺が好き。ま、俺のように生きたかったんじゃねえのか。ちがうか。とにかく俺が好き。そういうこった」
「そうだったのか──」
 弱々しく得心した貞親を叱咤する。
「シャキッとしやがれ。おんなしことばっか繰り返しやがって」
「いえね、地面の上にいるときは、もう潮時だ、海には出ねえってまなじり決してるくせに、結局は、男しか乗らねえ船に乗る。大嫌いな船頭が居座る甲陽丸に乗る。そんなてめえが、よくわかんなかったんですよ」
 船頭は笑み、小さく頷く。
「男はいいよな」
「まあ、そうですね」
 不明瞭に同意すると、船頭が投げ遣りに言葉を継ぐ。
「男なら、いちいち、くっつかなくて、すむじゃねえか」
「女は面倒ですかい?」
「わりと苦労してんだよ」
「──小金をもってるから、女が寄ってくるんだな」
ほう。モテるんだよ、俺は」
「でしょうとも」
「ヤな言い方するよなぁ、貞親は。そういう物言いはよくねえぞ。毒があるぜ」
貞親は、静かに笑って呟く。
「好い人やってたけど、結局は飢えたあげく本性がでちまったってことで──」
「いいんじゃねえの。そんなもんだよ。貞親も、ようやく偽善が剝がれたってことだぜ。様子のいいときは、せいぜい好い人の仮面をかぶって演じてられるさ。それって演じてることにも気付いてねえ噓くせえ仮面だぜ。反吐へどが出る。叩き割ってやりてえ」
 貞親の肩から力が完全に抜けた。
「なんか船頭といると、ぜんぶ、どーでもよくなってきますぜ」
「あのな」
「はい」
「世の中のぜんぶはな、どーでもいいことなんだよ」
「そりゃあ言いすぎだ」
 貞親の異議に、船頭が熱っぽく返す。
「なーにが言いすぎか。どーせ死んじまう。はっきりしてんのは、これだけだよ。金を稼ごうが、皆から賞賛されようが、けなされようが、嫌われようが、好かれようが、俺もおめえも終わるんだ。生きることにしがみついたって、どーせ死ぬんだ。まちがいなく死ぬ。苦しみ抜いて、死ぬ。もういやってほど死を見てきただろ」
 四方八方に水平線が拡がるばかりで、空は奇妙なまでに透きとおって青い。死の気配ってやつは案外、静穏だが、その静けさに、なにやら人を小莫迦にしたようなみだりがましいものが隠れている。
 すべては噓臭い。自然天然なんて、噓と酷薄の極致だ。途方もない大波や雷を啖わしていたってきたかと思うと、こうして静かに穏やかになぶり殺しだ。
 船頭が言うとおり、死だけは確実だ。まちがいなく死ぬ。必ず死ぬ。貞親は、胸の奥の蠟燭の焰がいよいよ弱々しくなってきたことを実感していた。
「どうせ死ぬ。まさに、そうですね。そのとおりだ。まったく俺はなにをしたかったんだろう」
「てめえは、せいぜい人様の役に立ちてえとか思ってたんじゃねえのか?」
 船頭の揶揄やゆに頷きかえす。
「──ええ。なんか思ってた気がします。いや絶対に思ってた」
「だから厭な臭いがしてたんだよ」
「まだ、臭いますか」
「いや、もうしねえ」
「よかった」
「貞親よ」
「へえ」
「うまく生き残ったら、おめえはなかなかの人物になるぜ」
 うまく生き残ったら?
 船頭は諦めていないのだ!
 命の蠟燭が消えるのを漠然と見守っている貞親とちがい、生き抜く気でいる。
 なにか根本的に、人としての力の量がちがう。質がちがう。
 そんな畏れにも似た貞親の視線を受けて、船頭が気負いもなく言う。
「どーせ死ぬ。けど、得体の知れねえなにかに嬲り殺されるわれはねえ。俺は神も仏もねじ伏せてやる」
「ねじ伏せるなら、なんか食わねえと」
「だよな~。空元気もここまでだ」
 貞親はもともと転がっていたが、船頭も座っている気力もなくして、ささくれ立った船板の上に転がった。
 船頭も貞親も寝返りなどもってのほか、奇妙にねじ曲がってもつれたかたちの手足を整えることもできず、ただただ倒れたままの恰好で、間遠に息をしている。
 気付くと夜だ。しんしんと湿り気が降りてくる。貞親は、間近に転がった船頭の顔を見つめる。船頭は目を見ひらいてなにかを見ていた。
「なに、見てるんです?」
「あの世」
「見えましたか」
「それが、よく見えねえ。まだ、見えねえ」
「船頭」
「なに改まってんだよ」
「俺が死んだら、食ってくれ」
「おう。いただいてやろうじゃねえか」
「船頭が先に死んでも、俺はへたれだから、たぶん食えねえ」
「ははは。大坂みなと
「え?」
「へたれってのは、大坂で覚えた言葉だろ」
「ああ、そうです、そうです。いろんなとこの言葉が混じりあって」
「水夫言葉」
「ですね」
 貞親は頭上に拡がる天の河に視線を投げ、抑えた息をつく。
「死んだら、極楽に行けるかな」
「阿房。行けるわけねえだろ。てめえみてえなきょうげん野郎がよ」
「じゃ、地獄で待ってます」
 船頭はじっと貞親をうかがう。その口許に掌をあてがう。囁き声で問う。
「貞親よ、極楽に着いたか」
 しっとり濡れた夜気と裏腹に、天空の銀色の帯は、いつもよりくっきり燦めいている。伴助は舌打ちして、夜露に濡れた船板に額を押しつけた。
「まいったな。海しかねえ地獄で、俺は独りぼっちになっちまった」
 明け方まで伴助は動かなかった。水平線からわずかに顔を出した陽の気配を肌が感じとる。四囲を手探りする。貞親が常に身近においていた錆びた脇差に指先が触れた。
「どっこらしょ」
 上体を起こし、貞親の前に座す。伸び放題の貞親の髪を搔きわけて、すっかり冷たくなった首筋を、あらわにする。
「このあたりかな」
 当たりをつけて、首の横を切開する。
 唇をつける。
 ちゅうちゅう音たてて、貞親の血を吸う。ふと顔をあげる。
「寂しいなあ。たまらんなあ」
 ふたたび唇をつける。じっくり時間をかけて貞親の血をすべて吸い尽くす。錆びた味は塩味よりも苦みがきつく、生臭く、お世辞にもうまいとはいえない。それでも伴助は、頰や唇に痛みを覚えても、吸いつづけた。
 吸いつくされた貞親は、死したときよりもさらに干涸らびて見えたが、心なしか唇の端で笑んでいた。
 伴助は顔全体を血で赤黒く汚して、小半時も夜を押しのけていく陽射しの動きを見送っていた。いつもは朝の儀式のごとく蘭引の前に行くのだが、もう蘭引を見向きもしなかった。ひたすら黙って転がっていた。夜を待ちわびた。
 夜露が伴助をつつみこむ。湿り気が伴助を慰撫する。間遠な呼吸を追いやって、燧石の火花を睨みつけるようにして追う。陽射しの許で火を付けるよりも、よほどうまく着火できた。
 蘭引は蒸留された海水が残した塩が分厚くこびりついて、ひどくでこぼこしている。指先でそれを探る。塩は熱を通しづらいという思い込みがあった。あちち──と剽軽な声をあげて、手を引っ込める。
 貞親の血が、伴助を駆動している。伴助は貞親をまだ海に投げていなかった。首からわずかに血を流して、静かに眠っている。
「遣り口が汚えよな、てめえは。とっとと逃げだしやがって」
 蘭引の水を飲み干す。いままでは分けあっていたが、一人になった。だからといって飲みでがあるほどでもないが。
 膝に手をついて、立ちあがる。
 貞親の両脇に手を挿しいれ、船縁に運ぶ。船縁といっても鉈で破壊し尽くしている。だからなんの手応えも引っかかりもなく、貞親は黒々とした海に没した。
 伴助の耳の奥に、貞親が海面に呑まれるごく控えめな音が居座っていた。それに聞き耳を立てると、逆に無音になった。
 伴助はその場にごろりと横になり、けれど波にさらわれるおそれがあるので、肘で這って折れた帆柱の下に移動した。
 規則正しいいびきをかいて、熟睡した。

(次回に続く)

【第一回】  【第二回】  【第三回】  【第四回】
【第五回】  【第六回】  【第七回】  【第八回】
【第九回】  【第十回】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。

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