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海路歴程 第十二回<上>/花村萬月

.    * 09〈承前〉

 なんだ、こりゃあ。話が違うぜ──と声をあげそうになった。抑えこんだ。
 米ではなく、粟飯だった。
 宮古島では粟のことを米というのかもしれないと思いなおし、もそもそしゃくした。惣菜は鰯が二ひき、酢であえた蛸、得体の知れぬ青菜と鶏の肉らしい欠片かけらが浮かんだ清まし汁だった。
 裏切られたとまではいわないが、白米を思い描いていたこともあって興醒めした気分だった。けれどかずはなかなかのもので、精一杯もてなしてくれているのが伝わった。
 それよりも給仕が枯れ木じみた婆様で、伴助はんすけはひどくがっかりした気分になった。顔に出さぬよう婆には笑顔と愛想を振りまいた。これで案外、女には優しいのである。だが伊良部島で面倒を見てくれた女の眉のくっきりした顔や腰つきが脳裏から離れない。
「いいしり、してやがったなあ」
 飽食して気がゆるみ、呟いた。
 婆が、白く濁ってしまった黒目で伴助を鋭く見やった。伴助の愛想が完全に演じられたものであることを見透かしていたのだ。
 伴助は決まり悪くなってしまい、誤魔化しで白湯さゆを飲んだ。歯茎からは、まだ血がでている。伴助は行儀悪く口中の白湯で口をゆすぎ、かすかな血の味を飲み干した。
 宮古島の役人がやってきて、また口書を取られた。伊良部島で喋ったのと寸分違わぬことを口にし、役人が退出してから自分が喋ったことを吟味した。
 これ以上は、ぜってえ喋らねえ。いかなる責めを受けようが、なにも喋らねえ──と心に刻んだ。伴助は、勢いで物を言ってしまう癖がある。絶対に避けなければならない。
 完全に黙秘するのが一番よいが、それは許されぬ。言葉尻を捉えられてあれこれ突っつかれぬためにも、よけいな噓はつかないことだ。積み荷が昆布であったことは口にしてもよいが、薩摩という地名は絶対にだしてはならぬ。
 琉球の取調はゆるい。だが大和の取調は尋常でないはずだ。なんなら、おつむがぬくいと思われたほうが、うまくいく。演じるしたたかさがいると気持ちを新たにした。
 伊良部島で世話をしてくれた若者が同行して、宮古島でも面倒を見てくれた。名をいても肩をすくめるだけで名乗らない。最下層ゆえに名乗らないのだと判じたが、伴助もそのあたりは淡泊で、しつこく尋ねない。
「本拠は那覇ですから」
「なーふぁ?」
 若者は笑みをうかべて、砂上に棒きれで大きく那覇と書いた。伴助には読めぬが、適当に頷いておく。
「那覇まで一緒します」
「そうか。付き合ってくれるのか」
 有り難いと笑みを返すと、若者は那覇にある薩摩の在番奉行所に属しているという意味のことを口にした。伴助は笑んだまま、気持ちを引き締めた。
 薩摩に頼まれて昆布を運んだあげく難船したのだから、率直にそれを口にしてもいいような気もしたが、薩摩から大坂などに移されたらまずい。やはり沈黙が大切だ。
「おめえは薩摩のもんか?」
琉球人うちなんちゅだが──」
 若者は語尾を呑みこんでうつむいてしまった。
なんちゅう﹅﹅﹅﹅﹅でもかんちゅう﹅﹅﹅﹅﹅でも、俺は一向にかまわんよ」
「大和の言葉が書けて、自在に喋れるから雇われたんだが、皆からは裏切り者扱いされている」
「そりゃあ、裏切ったからだよ」
 平然と言って、ドカンと若者の背を叩く。
「気にすんな。おめえの心は、この海みてえに澄みわたってるぜ」
 したり顔で付け加える。
「澄みわたってる海に、たいした魚がいたためしはねえが」
 伴助の言っていることをどう受ければよいのか。若者は戸惑いと憤りがまじった泣き笑いのような顔をした。伴助は得意そうに笑んでいる。若者は横目で伴助を窺う。
 助けだされた直後はひびれた肌が悲惨だったが、豚の脂を塗り込んだせいか、見た目はずいぶんましになっている。伸び放題の髭は面倒だからと剃らず、先ほど食べた粟粒をたくさんくっつけて屈託がない。
 なぜか酒を勧めても呑もうとしない。けれど若者は、酒を一瞥いちべつした伴助の瞳の奥の揺らめきと、断った直後の、なんとも切ない表情を見てとっていた。
 口は軽いが、肝心のことは一切喋らない。取調でも単純なことを単調に繰り返すばかりだ。なにかを隠しているのかもしれない。あるいは、中身がなにもないのかもしれない。若者には判断がつかない。
「しかし島の者は優しいな。日に四度の飯ってえのは初めてだ」
 思いにふけっていたので、若者の返答は遅れた。伴助は意に介さず、白砂の上にどさりと座りこんだ。
「飯は、衰えたからだを早くもどすためだ」
「うん。ずいぶん、もどった」
 伴助は目を細めて洋上を見やる。若者は伴助の目尻に深々と刻まれたしわを凝視する。陽射しに焼かれて肌は火傷したがごとくだが、足取りもしっかりと、たいした恢復かいふくりょくだ。
「なんでえ、俺のことが好きか」
「いや、いや、いや」
「あわてて三度繰り返すのは、好きってことだぜ」
 勝手に決めつけるなと思う一方で、そうかもしれないとも感じる。
 そこいらに無数に転がっている噓臭い善の力ではなく、悪の魅力とでもいうべきものに伴助は充ちている。偽善とは無縁の率直は、若者からみても痛快かつ豪快だ。しかも取調には、よけいなことを一切口にしない強かさがある。
 伴助は、海を見つめたままだ。
 てつもない時間を流されて、独り生き残った稀有けうな男である。命の力が横溢おういつする男だ。無礼なところはあるが、腹に一物といった気配はない。
 あるいは、心中の企みを悟らせない老獪ろうかいな男なのかもしれないが、若者には判然としない。相当に手前勝手な男であることは直覚できる。大物か、ただの乱暴者だったのかは判断がつかないが、どのみち荒くれであろう。けれど不可解なことに忌避の気持ちは起きない。
「まっこと綺麗な海だぜ。浜も綺麗だ。今夜はここで転がって寝るぞ」
「いや、それは、困る」
「逃げだすかもしれねえってか」
「いや、だから、その」
「島から逃げ出せるわけもねえ。島ってのは天然自然の牢獄よ」
「ひどい物言いだ」
「違うか?」
「──そうかもしれん」
「船乗りになったのは、行きてえところに自在に行けるようになりてえって思いがあったからだが──」
 めずらしく語尾を濁した曖昧な物言いだった。若者は手を組んで、伴助の次の言葉を待った。
「こう見えて、俺はけっこう様子がよかったんだぜ。船乗りになる前からだ。ちょい裏街道を行き来してたんだが、金もたくさん稼いださ。羽振りはよかったんだ。でも、なによりも海が好きだった。だがな」
「だが?」
「大好きな海にこっぴどく裏切られた。行きたいところに行かせてくれたさ。たくさん儲けて俺は得意絶頂だったぜ。海は俺の手下みてえなもんだった。けど、代償にたくさんの命をくらいやがった」
「されど伴助殿は生きている」
「まったくだ。俺だけが生きている」
「漂船は、つらかったか?」
「ああ。もう船になんぞ乗りたくねえ。海なんてでえきれえだ」
 落ち込んだ声で言った直後、伴助は若者を見ずに怒鳴りつけてきた。
「漂船がつれえかだって? 当たり前のことを訊くんじゃねえよ。クソたわけめ」
 じゃの湊の近くの浜の昼下がりだ。沖の珊瑚礁に白波が立っている。海は大和には有り得ぬ透明度で、目のよい伴助は彼方の魚影さえ認めた。
「大物だ。なんちゅう不細工なデコしてやがるんだ。しかし、凄え色してやがるな。光り輝く青だぜ!」
「アウバツゥだ。小骨が多くて食うのが面倒だが味はいい。まれに毒に当たる」
「毒があるのか」
「肝は食わんほうがいい。死ぬるぞ」
 伴助が神妙な顔になった。鼻の頭を雑に搔いて、ぼそりと言った。
「食わんと、生きていけぬ」
「食ったか?」
「人か?」
 長いあいだの漂船で生きながらえたのだ。食人は暗黙の了解だ。
 けれど、つい口を滑らせた若者はまともに頷くこともできず、沖で揺らめく南洋だいの青い魚体に視線を据えた。伴助が満面に笑みを泛べて、若者の耳許でささやいた。
「食ったさ」
 若者は黙りこくっている。黙りこくるしかない。伴助は笑みを崩さない。若者はその笑顔に怖さを覚えるよりも、眼前の海のような透明に清んだ気配だけを感じとった。

.    *

 伴助は伊良部から宮古に渡るごく短い距離の乗船には逆らわなかったが、那覇に向かう船に乗るのは渋った。伊良部島に骨をうずめてえ──とまで言った。
 その心の中に伴助に給仕してくれた伊良部の女が住んでいることは、さすがに若者にはわからなかった。
 なぜ伊良部? と問うと、伴助は照れ笑いを泛べて黙りこんだ。
 それでも出港の刻限となるとはらを決めて船上の人となった。那覇行きの船はじつは薩摩から遣わされた船で、宮古カリマタの湊をでて、ざきに沿って外洋にでた。
 若者は伴助が海を怖がっているのを見てとったが、いまにも倒れそうなきのこじみた奇岩が浜に群れなす大神島おおがみじまをかすめたあたりで伴助はみよしに立った。脱力して潮を浴びている姿は飄々としたものだった。
「那覇まで、どんくれえだ?」
「八十里ほどか」
 伴助は西廻り廻船で江戸に向かう航路を脳裏に描いて、呟いた。
「ふーん。尾張名古屋から江戸あたりまでってとこだな。けっこう長えな」
「あの岩礁が見えるか」
「見える。いぬに向かっちゃまじいな」
 若者はきょうがくの眼差しを伴助に注ぐ。フデ岩は海から露出している部分の北西に宏大な珊瑚礁の浅場が拡がっていて、風と潮を読み違えてそのあたりに流されると座礁する。
「船頭は、手練てだれだな。きっちりたつに抜けるようだ」
「あまり言いたくないが──」
「言えよ」
「フデ岩を過ぎると、島影は一つもない」
 若者は四方八方、海しかないこの船路が苦手だった。あまりに漠としていて、不安を覚えるばかりだ。
「取っかかりのない海は、始末に負えない。正直、身が竦む」
「そりゃ、そうだ。きついよな」
 同意しながら伴助は、フデ岩に砕け散る荒波を見やって目を細めた。
「海はいいなあ」
 洋上にでたとたんに、海に対する恐怖は消え去ってしまったようだ。
「伴助殿は、また船に乗るか?」
「俺はてめえの船を難船させたあげく、おめえに気付いてもらうために燃やした男だ。もう船に乗ることはできねえ」
 固く決心しているのが伝わって、若者は眼差しを伏せた。伸び放題のしょうひげに潮を固着させて、いつまでも伴助は水平線を見つめていた。
「そういえば塩釜屋にいた女も、よかったなあ」
 唐突な言葉だった。若者は目玉を上にあげて宮古の製塩場の記憶を辿たどった。
「あの真っ黒けな女か」
「ああ。綺麗だった。整いすぎてた気もするが、真っ黒けの貌に真っ白な歯が光ってた」
「整っているのは、だめか?」
「ああ。多少崩れてるほうが婀娜あだっぽいじゃねえか」
 若者は、そんなものか──と思いつつ、塩釜屋の女の姿を反芻はんすうしたが、色黒であったことしか泛ばなかった。伴助がしみじみとした声で言う。
「島の女ってのは、じつによろしいなあ」
「よろしいか」
「よろしい。じつによろしい」
 元気なものだと若者は苦笑いを泛べる。上役が口書をとるときに、伴助が声を潜めてしまったので聴きとれなかったが、ずっと気になっていたことを尋ねる。
「伴助殿は、いったい、どれくらい漂流された?」
「百三十日ほどになるか」
「百三十日!」
「俺も伊良部島で日にちを聞いて、あっにとられたぜ。なんせ箱館を発ったときは霜月下旬、地べたは凍りつき、派手に雪が舞ってやがったからなあ」
「──雪は、見たことがない」
「降らねえってきいたぞ。けど代わりに蚊がブンブン舞ってるじゃねえか」
 蚊については無視して、答えた。
「そうだ。一年中、降らない」
「凍え死ぬ心配をせずにすむ。最高の陽気じゃねえか。それなのに、なんで島は、こうも貧しいんだ?」
 またもや唐突な問いかけである。若者は顔をそむけかけたが、かろうじて答えた。
「つかかなえ」
「なに?」
 若者は声を潜めて、人頭税が課されるようになった経緯を語った。
 薩摩が攻め入ってきて、圧倒的な軍事力の差により、首里の王府はあっさり負けてしまい、財政が逼迫ひっぱくした王府は宮古や八重山の島々に頭数に対する過酷な租税負担を課したという。若者は琉球の宮古八重山に対する強烈な差別については、口にしなかった。
「ふーん。腰抜けの王府のせいで、よけいな賦課を課せられて、その賦課は首里王府とやらを素通りして薩摩に盗られちまうってわけだろう?」
「まあ、そうだ。宮古には人頭税石というのがあって、高さが四尺少々、背丈がそれに達すると一律に税が課される」
「四尺ってえと俺の胸の下あたりか。もっと下か。まだ餓鬼だろうが」
「宮古島では人頭税石で、与那国では久部良くぶらばりだ。とにかく税は委細かまわず頭数にかかってくるから、そのきつさに、島の女ははらむと断崖の割れ目を跳ばされる」
「なにを言ってるのか、わからん」
「だから、岩の割れ目を向こうの岩まで跳んで、落ちれば死するかしょうさんか──」
「人減らしか」
「そうだ」
 若者は下唇をんだ。
「赤子。童。老人。病人。怪我人。気が触れた者。手足などが不随意な者。とにかく弱い者は殺されて口減らしだ」
「御苦労なこった」
 嘲笑の口調だった。若者はあきれて伴助を見やる。伴助は若者の視線をねかえす。
「喧嘩に弱えと、ろくなことにならねえ。だろ?」
 それはそうだが、あんまりだ。
「よかったじゃねえか」
 意味を掴めずに若者は、よかった──と口の中で繰り返した。伴助は大きく頷いた。
「おめえは、うまく立ちまわったよ。なんせ薩摩の奉行所に潜りこんだんだからよ」
 若者の顔がくしゃっと歪む。
「おめえは、よく泣き笑いみてえなツラをするなあ。そのツラはよくねえぜ。じつによくねえ。ちゃんと、きっちり開き直れ」
 伴助は真顔で諭しているのである。
「だいたいおめえは、己の掟ができてねえ。自身てめえの決まりをつくってねえ」
「どういうことだ?」
「どうもこうも、てめえはだらしなさすぎるよ。そりゃあ多勢に無勢、薩摩の芋なんかにゃ勝ち目はねえだろう。けどよ、それを踏まえた上で、俺はこう生きるってえ決まりをつくるわけだ」
 若者は、食い入るように伴助を見つめている。伴助は伸びた髭をしごいて、潮と粟粒が海風に舞い散るのを一瞥し、苦笑いだ。
「決まりは、なんだっていいんだ。なにせおめえの掟だからな。ただし」
「ただし?」
「ただし、まつろわぬこった」
「まつろわぬ──服従するなってことか」
「あたりめえだろう。この世に、おめえより偉い者はおらん」
「だが、それでは、即座に殺される」
「阿呆か。心の中の問題だよ。世辞も追従もかまわんし、媚びてみ手してもいい。でもな、おめえはこの世でいちばん偉え」
「気位か」
「度し難い阿呆だな。実際におめえはこの世でいちばん偉えんだよ。知らなかったか?」
「わからん」
「そりゃあ頭が悪いからだ。御愁傷様」
 伴助は、もうなにも言わない。完全に若者を突き放した。舳にどさりと座りこんで胡坐をかき、進行方向の漠とした海を目を細めて見守っている。

.    *

 航海は順調で、薩摩奉行所差し回しの船は三日ほどで琉球は十八なはノ湊に入った。あちこちに大小の浮島が群れ、おっとりした気配の入り江だったが、薩摩の士分の指図でのうなどをほうり込んで埋め立ても行われているようだった。
 停泊している船は、色使いが派手な唐のものが目立つ。されど湊の景色はどこでも似たようなものだ。誰を待つのか、船着き場で潮風に髪を乱してたたずむ一枚物の紅色の服を着た女の一団に伴助は目を奪われた。
尾類じゅりだ。紅い服を着るように定められている。十八ノ湊の北に拡がる辻には千人ほどもおるらしい」
 どうやら遊女であると当たりをつけた伴助は、溜息に似た息をついた。
「目にみるぜ」
 実際に目をしばたたいている伴助に、若者は抑えた笑い声をあげ、耳打ちした。
「薩摩の奴らに取り入って銭をくすねて、辻で遊べばいい」
 伴助は器用に片目をつぶった。若者は抑えた声で説いた。
「着るものは男も女も一枚物だが、男は帯を締め、女は締めぬ。亭主がいる女は花色、寡婦やもめは白だ」
「狙い目は、花色か」
「え──」
「そりゃあ旦那のいる女のほうが、美味えに決まってるだろうが」
 そんな遣り取りをしているさなか、いかにも下級武士といったていの貧しい身なりの者たちに連行されて、伴助は運天うんてんにある薩摩の在番奉行所に連れていかれた。薩摩の者は三百人強ほど詰めているとのことだ。とりあえず伴助は薩摩仮屋と称する掘っ建てに逗留を命じられた。
 驚いたのは琉球の者よりも、薩摩の者たちの言葉のほうがわかりづらかったことだ。けれど、それでも恰好や物腰は日本人そのもので、伴助は懐かしさと違和感を同時に覚えて内心、小さく混乱した。
 辟易したのは、掘っ建ての脇に巡らされたどぶすみなのだろう、巨大な蚊がうわんうわん音を立てて大量に飛びまわって、まとわりついて吸血することだった。
「まいった! ひでえなあ。伊良部や宮古よりもひでえ。頭が変になりそうだ」
 愚痴をたれながら力まかせに蚊を叩き潰す伴助に、若者は醒めた眼差しを投げ、あっさり背を向けた。
 若者は薩摩の人間がいるところでは過剰に卑屈だった。伴助と目を合わせようとしなかった。それどころか、二度と伴助の前に姿を見せなかった。
 取調は、ごく形式的なものだった。位が上の侍は、伴助にもわかる言葉を喋った。
の方、徳島はち須賀すか氏支配淡路国洲本の船頭伴助に相違ないか」
「へえ。水夫かこ共には甲斐の生まれで武田氏の末裔まつえいと吹いておりました」
「甲斐武田氏。赤噓あかうそとはいえ、また大きく出たな」
「海の上ですからね」
「わかるような、わからんような」
 伴助がニヤリと笑うと、侍は誘われるように笑んだ。
「漂流人送届人宰領、ちゅうどうげんより、そのほうのあれこれ、ここに認めてある」
「それが、全てでさあ」
「うむ──」
 侍はしばし思案したが、頷いた。
「よい面構えじゃ」
「褒められた?」
よう。褒めた」
 それで薩摩在番奉行所の取調は終わってしまった。気抜けして退出しようとすると、呼び止められた。
「伴助よ。其の方、女は花色がいちばんとかしたそうな」
「そりゃ、そうでしょう。他人の持ち物をくすねる。たまらんし、心地好い」
「歳にもよるが白もいいぞ。されど、いかに手が早くとも、花や白に手をだすにはあいが足りぬわ。紅なら世話できるぞ」
「よろしいですな。よい話だ」
「よし。委細まかせろ。最上を与えよう」
 うまい具合に日没のころだった。伴助は赦免しゃめんと称される下級武士にともなわれて、辻遊郭に連れていかれた。
 薩摩在番役人御用達の女郎屋はしょうはいに年輕陽光企とあった。赦免士に訊くと、唐の言葉だという。
 赦免士は物慾しそうな貌を隠さず、いきって背を向けた。伴助は案内されるままにどすどす跫音あしおとを響かせて女の許をおとのうた。女は開口一番、言った。
「辻は冠婚葬祭と無縁の別世界」
「それがどうした」
 伴助は委細かまわず尾類の紅衣を割った。眉をひそめる女の表情さえもが伴助をたかぶらせる。のしかかった。重みをかけた。
「あ──」
 間抜けな伴助の声に、女が焦点を合わせなおすかのように見つめる。恐るおそる訊く。
「果てた?」
 伴助は開き直って頷いた。
「楽ができたな」
「短いなんてもんじゃない」
「うるせえ。おめえがすぎるからだ」
 重い、と女は邪慳じゃけんに伴助の下から抜けだした。横目で怒髪天を衝いておさまりのつかぬ伴助の腰を見やる。意地悪な笑みを泛べて、問う。
「漂船が長かったせいであろう?」
「知ってるのか」
「よしなに──と申し渡されておる」
 伴助は頬笑んだ。改まった口調で告げた。
「不調法極まりない仕儀だが、じつに、よろしかったぞ」
「好かったか?」
「ああ。いまだかつて、このような快美を知らん。二つなしにしてかみなしだ」
「世辞は達者だ」
「まあな。口だけだ」
 女は鼻梁に猫のような皺を刻んだが、結局は笑ってしまった。伴助が勢いこんだ声をあげた。
「頼みがある」
「なんなりと」
「膝枕をしてくれ」
 女は伴助の居丈高なままの強張りを見やった。よいのか──と目で訊く。崩した膝の真ん中に頭を乗せたいと伴助が照れ臭そうに言う。女は言われたとおりにしてやった。
 嗚呼ああ──と吐息に似た声をあげると、伴助は紅衣のなかに頭を潜りこませ、動かなくなった。女はしばし上下する胸に視線を投げ、伴助が深い眠りにちたことを悟った。
 生まれて初めて眠ったかの気配があった。眠りを知らなかった男が、暗黒の夢寐むびに落下して、なかば死をもてあそんでいる。女は、そんな奇妙な感慨を抱いた。
 女は難船漂船に思いを致した。琉球で生まれ育ったから、海のことは聞き知っている。おそらくは熟睡と無縁だったのだろう。そういった気配を欠片も見せなかった伴助に、痛ましくも類い稀なる強靱を感じとった。
 伴助が唐突に目をひらいた。半覚醒で前屈みになっていた女も、すっと背筋を伸ばした。何時なんどきだと訊かれ、女は伴助の鼻筋を指先でさぐりながら答えた。
うしつ」
「そうか。ずっとこうして?」
 薄闇のなかで女が笑む気配が伝わった。
「すまん。しんどかっただろう」
「いや。嬉しかった」
「嬉しい?」
 女はしばらく黙りこんでいたが、声を殺して囁いた。
「番所から命じられていた。船頭伴助、詮議で口を割るような男ではない由。ゆえに色で仕掛けて本音を聞きだせと」
「ははは。色で仕掛けるもなにも、一気にはしって大破裂。あとは寝てただけだ」
「花色が好きと申しておったから、切支丹ではあるまい、と。が──」
 伴助は女の隠し所に顔を埋めた。女は伴助の蓬髪ほうはつに指先を挿しいれて、続ける。
「抜荷など、致しておらぬか、さりげなく訊けと」
「抜荷だ」
「そうか。なぜ明かす?」
「おまえが好い香りだからだ」
「そうか。ならば、そのまま手管を用いよ」
 伴助が頷くのが伝わった。女は伴助の頭を両手できつく押さえて、すすり泣きはじめた。

(次回に続く)

【第一回】  【第二回】  【第三回】  【第四回】
【第五回】  【第六回】  【第七回】  【第八回】
【第九回】  【第十回】  【第十一回】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。

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