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駆け落ち、逃亡、雲隠れ―。彩瀬まるの連作短編集『さいはての家』。短編ひとつ丸ごと特別公開!(前編)

 彩瀬まるの最新刊『さいはての家』が、2020年1月24日に発売されます。

 郊外に建つ、庭付きでぼろぼろの古い借家。
『さいはての家』は、そんな「家」を舞台に、駆け落ちしてきた不倫カップルや、元新興宗教の教祖の老婦人、逃亡中のヒットマンなど、様々な人のかりそめの暮らしが描かれる連作短編集です。そして、行き止まりの先に見える、かすかな光とは――?

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彩瀬まる『さいはての家』(集英社)
定価 本体1500円+税 四六判ソフトカバー
ISBN 978-4-08-771691-7 
装丁 鈴木久美 装画 宮原葉月

 このたび、『さいはての家』の刊行を記念して、収録作の一編をnote上で特別公開します。ぜひご一読ください。

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「ゆすらうめ」

 広めの和室が二つに台所、風呂、トイレと納戸。そんなどこにでもありそうな、ぼろくて古い家だった。真ん中あたりの色が薄くなった廊下は踏み出すたびにぎしぎしと軋み、黒ずんだ柱には小刀だったりボールペンだったり、犬猫の爪痕と思われるものだったり、大小の傷がいくつも刻まれている。

「大家が早く借りてくれる相手を探していたみたいでさ。男二人で住むっつっても、ぜんぜん詮索されなかったわ」

 清吾はそう言うと早々に段ボール箱を開き、持ってきたカーテンを和室のカーテンレールに吊るし始めた。庭へと通じるガラス製の引き戸を覆っていく。俺は適当に畳に腰を下ろし、庭の景色を眺めた。隣の敷地から生垣を越えてこちらに伸びた桜の枝が、さらさらと雪のような花びらを黒い地面に零していた。

「……ゲイじゃないって言いそびれた?」
「噂になるかね」
「着いてさっそくカーテンをかけるのも、後ろめたいことがあるみたいじゃないか?」
「ゲイ的な意味で? それとも、別の意味で?」
「両方」
「なんだよ、じゃあやめとく?」
「いいよ、そこまでかけたんだ。やっちゃえよ」

 顎をしゃくってうながすと清吾は肩をすくめ、やりにくそうに太い指を曲げて残りのフックをレールに引っかけた。右側のカーテンを吊るし終えたら、続いて左側も。ゆるゆるとひだを作った二枚の布に挟まれて、なんだか舞台の一シーンみたいな作り物っぽい美しさで、桜は花びらを落とし続けている。こんな柄にもないことを考えるなんて、なんだか腑抜けになった気分だ。頭の芯が、ふわふわと軽い。

 清吾は作業を終え、こちらへ振り返った。

「いっそゲイだと思われた方がいいのかね。金を貯めて店をやるために同居してます的な話を仕立てて」
「……目立つだろ」
「目立つのはもうしょうがないだろ」
「なんだかなあ」
「なに」
「……よくわからない。どうでもいい」

 助けてくれ、と清吾に言った。その日から、まるで自分のものじゃないみたいに心も体も、なにもかもが軽い。

 横倒しに畳へ崩れた。ここのところ毎日眠い。眠ってばかりいるものだから、起きていても夢の中にいるような、夢の中の方が現実っぽく感じるような、変な感じがとれない。むしろ俺は本当に起きているんだろうか。それまでのすべてから逃げ出して幼なじみとこんな古い家で暮らし始めるなんて、そっちの方が夢みたいだ。移動中のタクシーでほんの十分うたたねして見るような、安っぽくて無意味な夢。

 清吾は吊るし終わったカーテンに手をかけ、しかし一度こちらを振り返るとその手を離し、もう一組のカーテンを持って隣の部屋へ向かった。

 今の状態が夢だったとして、一体どこが夢の始まりだったのか、思い返してもよくわからない。清吾のタクシーに乗り込んだときか、それともカウンター越しの男の背中に向けて引き金を引いたときか、それとも安条に呼び出されたときだったのか。

 兄貴分である安条が事務所に来るなんて珍しい、と緊張しつつ向かったら、駐車場で出会って早々に、グローブみたいな手で頭をつかまれ、コンクリの壁に顔面を叩きつけられた。激烈な痛みに続き、トマトみたいにへしゃげた鼻から生温かい血があふれ出す。口の中が塩っ辛い。

「半端しやがって、何度目だ」
「……は」

 安条は俺とそう背丈は変わらないが、空手だか柔道だか長く武道を修めてきたとかで、硬くぶ厚い体つきをしている。動作の一つ一つが重く、強制力に満ちていて、押さえつけられた頭はぴくりとも動かせない。

 俺が管理を任されていた風俗店のオーナーが、貸していた金と贔屓の女を抱えてばっくれた。殊勝で、よく懐いた犬のように従順な男だった。他に手のかかる店があったため、そちらばかり気にかけて油断していた。

 安条は俺の頭蓋骨をぞりぞりと壁になすりつけ、きれいな円を描くように赤褐色の血汚れを塗り広げた。痛い。皮膚が削れて、顔が火で炙られているみたいに痛くて、息が出来ない。

「すぐ……追いかけ、ます」
「阿呆。てめえなんぞに任せられるか。前にも追い込みしくじって警察に駆け込まれたのを忘れたか」

 てらてらと光るアスファルトに投げ捨てられる。起き上がろうとするも、すぐさま後頭部に革靴の底が降ってきて杭を打つように潰された。どんな暴力を働いても安条の声は穏やかなまま、揺れることがない。顔つきも、サラリーマンだと言われたら誰もが信じるだろう凡庸かつ温和な雰囲気がある。

「金も稼げない、言われたこともこなせない、舐められる、逃げられる。お前、なーんにも出来ないのか。金をザラッザラばらまくだけか。慈善団体じゃねえんだぞ」
「すみません……」
「すみませんじゃねえよ、迷惑だっつってんだよ」

 なぜあんなに命知らずなことが言えたのか、今でもよくわからない。ふっと、まるで虎の前肢で押さえつけられたねずみが、ほんのわずかな爪の隙間から駆け出すように、気がつけば口から漏れ出ていた。

「……き、消えます……もういなくなります……」
「へえ、さんざ迷惑かけて足抜けしたいってか」

 頭を押さえる革靴に力がこもり、そのまま左右に揺らされて、押し潰された鼻の軟骨が嫌な感じでグニャグニャと動いた。

 ああ、やっぱりあれは夢だったんじゃないか。自分の鼻があり得ない動き方をするのを感じながら、俺は自分の体が人形みたいだと思っていた。安条がいくら蹴っても殴ってもなにも感じない、木に布をくくりつけたぼろい人形。なにをしてもいいもの。なにをしてもいいものだから安条はこうするのであって、今、現実に、なにもおかしなことは起こっていない。でも、そう感じたのはあれが初めてではなかった。だから悪い夢の始まりはもっとずっと前だ。ずっとずっとずっとずっと。しばらく黙り込んでいた安条がハッと息を吐いた。

「まさか、このまますんなり抜けられるなんて思ってないだろうな」

 鉄砲玉なんて流行んないんだけど、まあお前の半端な人生なんか、そのくらいしか使い道ないもんな。リサイクルだリサイクル。俺は相変わらず人形みたいに伸び広がったまま、だらだらと垂れ流される指示を理解しようと必死で意識を凝らしていた。

「ひどいよなあ大家の親父」
「え?」
「いや、さっき言ったじゃん」
「なにが」
「だから、事故物件なんだって」

 コンビニで買ったアルミ鍋のうどんを大口ですすり、清吾は割り箸の先をひょいと持ち上げた。気がつけば俺も似たようなうどんを前に、半割りにされた椎茸を箸でつまんでいる。清吾は生活の九割をコンビニに依存して生きているため、冷凍庫には大量の冷凍うどんや冷凍パスタ、惣菜類が突っ込まれている。

「やけに住まわせたがってたなと思ってさ。お袋の様子を見に行ったついでに、老人ホームのスタッフさんに探り入れてみたんだよ。そしたらここ、前の住人が死んでんだって」
「ふーん」
「お、さすが平気そう」
「まあ、なあ」
「あったまきて大家に詰め寄ったら、家賃をさらに安くするから半年は引っ越さないでくれってさ。ある程度俺たちを住まわせておけば、次の入居者には説明義務がなくなるってことなんだろうな」
「大野は幽霊怖いのか」
「超怖いよ。俺、お化け屋敷すら入ったことないもん。初めてつかもっちゃんを連れてきてよかったと思ったわ」

 くだらなさに思わず笑う。椎茸を口に放り込み、続けてやけに太い麵をすすった。強すぎるくらい人工的な鰹の風味が鼻に抜ける。

「死んだ奴なんかぜんぜん怖くねえよ」
「生きてる奴の方が怖い的な?」
「そりゃそうだ。死んだ奴は、負けたから死んだんだ。どうせ幽霊になったって、弱くて大したことない奴だよ。二度と出てくんなっつって、ぶちのめしてやればいい」
「怖いよ。発想が完全にあっち側の人だよ」
「そうだよ、怖いよ」

 アルミ鍋の端に口をつけ、甘く魚臭いだしを吸い上げる。

「怖いのになんで連れてきたんだよ」

 問いかけに、清吾は少し首を傾けた。

「俺、たぶんつかもっちゃんに借りがあるから」
「借り?」

 空になったうどんの容器を短く眺め、清吾はなにも言わずにローテーブルの上を片付けた。

 細い川を、足を伸ばしてひょいとまたぐ。もうあちらの町へは帰れない。大して好きなわけでもなかったのに、帰れなくなると途端に惜しい。引き金を引いた直後、そんな居心地の悪い感覚がよみがえった。

 それまでにも十分に汚れた仕事をしてきたくせに、考えてみればその瞬間までずっと、俺は自分がまだ川をまたいでいないつもりでいたわけで、安条が「半端野郎」と侮蔑を込めて俺を殴ったのもわかる気がする。

 準備中の札がかかった店のカウンターに入っていたのは、顔も名前も知らない中年の男だった。だいぶ酔っているらしく、顔が赤黒い。夜通し客に付き合って飲んでいたのだろう。俺に気づくと、すぐさま身を翻してカウンターの奥に向かって手を伸ばした。銃を持っている。ざっと全身の毛が逆立ち、なにかを思うよりも先に背中に銃口を向けて引き金を引いた。

 安条が寄越したサプレッサー付きの拳銃は、しぱっと空気が噴き出すような不思議な手応えがした。すぐに男の体が強ばり、ねじれながらぐらりと傾く。二発三発と撃ち込むうちに、男は完全にカウンター内に崩れ落ちた。

 発砲音、男の悲鳴、カウンター内の瓶や食器が落ちる音、様々な音がしたはずなのに、なにも聞こえなかった。なぜか、小学校の職員室の隣に置かれた緑の公衆電話を思い出した。なんの音もしない受話器を耳に当てて、銀色のボタンに彫り込まれた数字を見つめていた。ああ、やってしまった。殺してしまった。俺はここから逃げ出したかったのに、そのために川を渡ってしまった。

 もう帰れない。

 三秒ほど呆然として、店の裏口から外に出た。

 爽やかな水のような朝の空気がまぶたに触れた。安条に指示された通り、店のそばの植え込みの陰で目出し帽と手袋を脱ぎ捨て、隠しておいたショルダーバッグから百貨店の紙袋を取り出した。拳銃と帽子と手袋をまとめて紙袋に入れ、近くのアパートの郵便受けに突っ込む。

「次に顔を見たときはどんな事情だろうとぶっ殺すから。逃げろよ。遠くへ行け。お前みたいに半端なやつが最後にどうなるのか確かめてみろ」

 歌うような安条の声が耳にこびりついている。俺は綿密な逃走経路を考えていた。電車を乗り継いでここで一泊して、次の日には飛行機に乗り込んでこの国に亡命して、と、それなりの道筋を調べて偽造パスポートも用意しておいた。

 それなのに人で賑わう駅前に辿り着いた途端、急に頭がおかしくなった。

 どこにも行きたくない。

 もうどこにも行きたくないし、なんにもやりたくない。

 俺が高校生の頃、男のところを渡り歩いていた母親が覚醒剤の所持と使用で捕まり、噂が広がって、卒業後もまともな勤め先が見つからなかった。物心ついた頃には父親はいなかった。家にはいつも金がなかったし、母親の姿も滅多に見なかった。安条の下についてからも嫌なことばかりして、嫌なことばかりされた。誰に会いたいわけでも、なにがしたいわけでもない。出来るならただ、ぼうっと座っていたい。

 でも、ここから離れなきゃならない。捕まるし、うろうろしているところを見つかったら今度こそ安条に殺される。それで、駅前のロータリーに停まっていたタクシーに乗り込んだ。

「どちらに行かれますか」

 若い、同じくらいの年齢の運転手の潑剌とした声を聞いて、そうだこいつを殺そうと思った。尻ポケットにはいつも折り畳みナイフを差し込んである。遠くまで走らせて、ひとけのないところで刺して殺そう。そうすれば、しばらくなにも考えずにぼうっとしていられる。

「あの」

 男が振り返る。よく馴れた大型犬を連想させる、穏やかで少し間の抜けた顔立ち。垂れ気味の眉の形が、記憶の糸を引っ搔いた。助手席の前に置かれた運転手の名札を見る。大野清吾。おおのせいご。

「……大野?」
「はい?」
「大野って、第三小の? 大野清吾? ……俺、覚えてないか。塚本だ」

 俺の顔はまだ安条に大根おろしにされた傷が残っていて、全体的にまるで皮膚炎にかかったように赤い。清吾は怪訝そうに眉をひそめ、やがてぽつりと、語感を確かめるように呟いた。

「つー……つかもっちゃん?」
「そう」
「えー! なんてこった。マジか、すごいな。こんなとこで会うなんて」
「ああ」
「高校ぶりじゃん。あ、つか、ごめん。どこか行くんだよな。目的地は? 走りながら話そうぜ」

 清吾はハンドルに片手を乗せ、安定した社会人らしい笑顔を浮かべた。仕事をして、食って、暮らして、そんな毎日になんの不安も持っていない、なんとかなった男の顔だ。同じときに同じ教室にいたのに、俺は全然なんとかなっていない。だから、息をするように噓がつける。

「た、助けてくれ」
「え?」
「助けてくれ。殺される。人を殺せって言われて逃げてきたんだ。少しでいい、かくまってくれ」

 噓なのに、両目からぼろぼろと涙があふれた。母親似の甘ったるい顔と、ゆるい涙腺は俺の数少ない武器だ。これで今までに何人もの女から金を借りて踏み倒してきた。俺のためにとほだして風俗に沈めたこともある。泣こうと思えばいつだって泣ける。一時間でも泣き続けられる。

 清吾はぽかんと目を見開き、やがて手元をばたつかせながら急いで車を発進させた。

 それからしばらくの間、清吾のアパートに隠れていた。バーの発砲事件は連日ニュースで報じられ、しかし数日のうちになぜか大陸系マフィアの内輪揉めという筋書きが押し出されるようになった。どうやら凶器の拳銃が関係者の車から押収されたらしい。安条からは知らされなかったものの、報道された名前に見覚えがあり、あの男が長らくうちの組織と小競り合いを繰り返していた詐欺師だとわかった。

 わかったからと言って、今さらなんの意味もない。

 清吾はいつも青い顔をして帰宅した。

「扉を開けたらつかもっちゃんが中で血まみれになって死んでるかもって思うの、毎日すごく心臓に悪いわ」
「……悪かったな」
「やっぱり引っ越そうかなあ」

 若年性の認知症にかかり郊外の老人ホームに入居している母親が気になって、もともと清吾は施設の近くに引っ越すことを検討していたらしい。正直なところ遠くに逃げられるに越したことはなかったけれど、俺は口を挟まなかった。数週間後、借りてきた軽トラに家財を運び込み、俺たちは都心を後にした。

 近くっつっても真隣に住むことはなかったんじゃないか、と生垣越しに流れてくるしゃがれた歌声を聞きながら思う。まあ、清吾は二部屋以上の少しでも安く住める物件を探していたようだったから、たまたま事故物件で破格の値段になっていたこの家に決めたのだろうが。毎日毎日、午後になると老人たちは庭に出て、職員に先導される形で小一時間ほど合唱を行う。歌われるのはほとんどが古い歌謡曲で、うまいわけでも知っているわけでもない歌を延々と聞かされるのは苦痛でしかなかった。

 苦痛でも、気晴らしに出かけられるような立場ではない。そっと、閉ざしたままのカーテンをめくって庭を覗く。家の側面に沿う形で設けられた細長い庭には青々とした雑草が生い茂っている。草の海のあちこちで場違いなほど鮮やかな花や、小ぶりの野菜が飛び出している辺り、前の住人はそれなりに園芸を楽しんでいたらしい。あいにく俺も清吾も植物には詳しくない。庭もこのままだろう。

 隣の生垣、物陰、と周囲を軽く見回しても、特にこちらを窺っているような人影はない。ただ、安条が後始末をしてくれたとはいえ、警察なりマフィアなりが俺を追っている可能性は少なくない。のこのこと出歩くのは不用心だ。

 じゃあ、逃亡者って、なにをすればいいんだ。照明をつけていないため、薄い影がかかった天井を見上げる。ずっとこうして家の中にこもっているのか。残りの人生、ずっと? 室内飼いの猫みたいに清吾が運んでくるコンビニ飯を食いながら?

 無性に馬鹿馬鹿しく感じ、ショルダーバッグから茶封筒を取り出した。犯行前に引き出しておいた百万ちょっとの有り金から一枚を抜き取り、三百円しか入っていなかった財布に入れる。清吾の服を借りて、昼下がりの町へ歩き出した。

 平日の午後ということもあって、出歩いているのは老人か子連れの母親が多い。なんにもないしけた田舎町で、通りの商店のほとんどがシャッターを下ろすか潰れているなか、コンビニ、スーパー、ドラッグストア、ホームセンターなど全国チェーンのお決まりの店舗だけが原色使いの目立つ看板をでかでかと掲げている。

 コンビニで週刊誌を購入し、続いて適当な床屋に入って髪を明るい茶に染めてもらった。意味はないかもしれないが、多少は外見を変えておいた方が気が楽になる。染髪の間に週刊誌をめくってみたところ、世間はすでにチンピラ同士のうさんくさい発砲事件など忘れ、芸能人のスキャンダルを追いかけていた。

 ついでに全体を短く整えてもらい、さっぱりして床屋を出ると、よくわからない充実感があった。周囲を見る限り町はどこまでも平凡で、特に怪しい車や人影は見当たらない。まあ、実は尾行されていて、次の路地の入り口で突然殴りかかられて拉致されるなんてこともあるのかもしれないが。

 そもそも俺は清吾を殺そうとしていたのだ。どこか遠くまで走らせて、後ろから首をナイフでぶっ刺す。そのあとのことなんて考えていなかったし、あのままふらふらと実行していたら今頃とっくに逮捕されていただろう。すでに投げ捨てた人生なら、この先の日々は余分というか、楽しみこそすれ惜しむようなものではないのかもしれない。

 楽しむとか、馬鹿みたいだな。そこまで考えて、口が歪んだ。どうせこんな日々は続かない。構えていても、だらけていても、地獄の入り口は勝手にやってくる。ビルから飛び降りた人間がコンクリに叩きつけられるまでに見る夢みたいなものだ。

 スーパーで適当な刺身と焼き飯、ビールを二人分買って帰った。夕方に帰宅した清吾は俺の髪を見てまず「外に出たんだ」と目を丸くし、さらにテーブルの刺身を見て「金もってたの」と重ねて驚いてみせた。

「これ、とりあえずしばらく世話になる分」

 テーブルに分けておいた二十万をのせ、清吾の方へ押しやる。すると清吾はあぐらに両手を入れたまま、しばらく黙り込んだ。

「なんだよ、受け取れよ」

 あまり負担をかけると、役所や警察に相談するなど予想外の行動をとられかねない。ただでさえ引っ越しと母親のホームの費用とで清吾には余裕がないはずだ。新しく勤め始めたタクシー会社も、都内より基本給が低いとぼやいていた。こんな奴が、昔なじみとはいえ、うさんくさい同年代の男をかくまうという時点でなにかがおかしいのだ。

 清吾は梅干しでも食べたような顔で、ゆっくりと二十万を俺の方へ押し戻した。

「い、いらなーい」
「はあ?」
「うまく言えないんだけど、いらん」
「なんなのお前。やっぱりゲイなの」
「お前、俺がアニメの美少女好きなの知ってんじゃん。コレクション見ただろ」
「気持ちわりい」
「とにかく、今はいいよ。この先つかもっちゃんの方で必要になるかも知れないし」
「この先なんかねえよ」

 口に出してから、やめておけばよかったと思った。清吾が少し傷ついた顔をしたからだ。居たたまれず、ため息をついて金をしまう。

「なんなんだよ、わけわかんねえ」
「すまん」
「足んなくなったら言えよ。俺だって、金に困ったから出ていけっていきなり言われても困るんだ」
「言わねーよ」

 清吾は肩をすくめ、テーブルの上の料理に目をやった。

「すげえうまそう。食いたいんだけど」
「さっさと食えよ」

 タブを起こしたビールをそれぞれあおり、乾き気味のマグロを醬油に浸した。

 深夜、誰かが近くにいるような気配を感じて目が覚めた。まさか清吾の野郎、と一瞬血の気が引くも、周囲に人影はない。青暗い天井と、脇に寄せられたローテーブルの端が目に入る。襖で遮られた奥の和室からは、軽いいびきが響いている。

 なにもいない。だけど、誰かに顔を覗き込まれている感じがした。少し考えて、この家で過去に起こったことを思い出す。

「なんだ、本当に成仏出来ないでうろついてんのか? 呪うでも殺すでも勝手にしろよ。どうせ俺もそのうちそっちに行くんだ」

 呼びかけても、幽霊はまったく姿を見せない。めんどくさくなって目を閉じる。眠りはすぐに訪れ、あっというまに朝が来た。

 週末に、清吾の母親が一時帰宅する話が出ているらしい。

「つっても、俺が休みの日曜だけなんだけど。だんだん症状が進んできてるからさ、寝たきりになっちゃう前にちょっとでも家族で過ごした方がいいだろうって」

 いいかな、と清吾は口を曲げて少しすまなそうに聞く。俺は「お前の家だろ」と肩をすくめた。

「お前の母さん、若年性認知症だっけ」
「うん。はじめに脳梗塞になって、そこから始まったんだ。看護師で、めちゃくちゃ働いてた時期に突然バタン。倒れたのが職場の休憩室じゃなかったらそのまま死んでた」
「医者の不養生どころじゃねえな」
「家を買いたかったんだよ。離婚のときに元いた家を追い出されてから、誰にも追い出されない家が欲しいって母親の口癖だったもん。モテない俺のとこに来てくれる女の人ならどんな人でも好きになる自信があるから、二世帯住宅にして、嫁をいびんない優しいばあさんになって、毎日孫と一緒に遊ぶんだって、馬鹿みたいな夢のマイホーム計画。まあ、そのあと色々あって、症状が出てからは俺一人じゃ世話できないし、結局母親が貯めてた金を丸ごと使って、ホームに入ってもらうことになったんだけどさ」
「世の中くそみたいな話ばかりだよな」
「ははは」

 清吾は笑いながら背広に袖を通し、ふと、こちらを振り返った。

「あれ、そういえば、つかもっちゃん俺の母親知ってる? 見たことある?」
「ある。小学校の頃だけど」

 小柄でぼんやりした顔立ちの、地味な人だった。今でもよく覚えている。授業参観が行われた書道の時間、清吾の母親は他の親のように横から口を出すだけでなく、背中を丸め、息子の手に自分の手を添えて丁寧に書き方を教えていた。

 父親のいない家庭で、古くて狭い団地に住んでいて、と俺と清吾の家庭環境はよく似ていた。だけど両親がそろい、美しく広い家に住んでいる他の同級生の誰よりも、俺は清吾がうらやましかった。俺の母親はその時々の「新しいお父さん」とやらを追いかけまわすのに忙しく、一度も授業参観なんか来なかった。

「あー」
「どしたの」
「いやなこと思い出した」
「はあ」
「早く行けよ」

 支度を終えた家主を玄関へ向けて蹴り出す。ひでえ、俺んちだっつったのに、と文句を言いながら清吾は出て行った。胸焼けする心地で汚れた衣類を洗濯機に突っ込み、洗剤を入れてスタートボタンを押す。そのまま無心で掃除機をかけ、風呂場の排水口まで掃除した。

 手持ちの金を使い切ったら死ねばいい。そんな感じでいたのに、先日の清吾の顔を見て目的のない消費がしづらくなった。パチ屋に行くのも飲み屋に行くのも気が晴れず、最近は暇つぶしを兼ねてこうして目についた家事をこなしている。まあ、家事はやればやるほど暮らしが快適になるので、損はない。ただ、このまま金を使い切らずに追手に捕まったら、それはそれでなんだか間抜けだ。

 脱水の終わった洗濯物を干そうとプラスチック製の籠に入れて庭に運んだところ、雑草が生い茂った地面に真っ白なタオルが落ちていた。端に「ニコニコひまわりホーム」と青字で印刷されている。

 あとで清吾に渡すか。それとも見なかったことにするか。探しに来られたらどちらにしても顔を合わせることになる。居留守……いや、これまでだって生活音を抑えることなく立ててきた。無意味だし、かえって怪しまれる。うろうろと考え、そう迷うことすらめんどくさくなってタオルをつかむ。髪を手櫛で整え、首周りの伸びていないTシャツに着替えて家を出た。

 お隣のニコニコひまわりホームは外壁が明るいクリーム色で塗られた四角い建物で、敷地の四分の一ほどが背の高い生垣で囲まれた庭になっている。四階建てか五階建ての、割と大きな施設だ。一階の談話室の壁がガラス張りになっていて、通りからでも老人たちがぼんやりとお茶を飲んだり、テレビを観たりしている姿が見える。

 正面の自動ドアを抜け、下駄箱で深緑色のスリッパに履き替えてから左手の受付カウンターを覗いた。カウンターの奥にはいくつも机が並べられ、スタッフが席について仕事をしている。数秒それを眺めていると、近い席についていたスタッフが俺に気づいて腰を浮かせた。長い黒髪をうなじで一まとめにした、黒目がちな目と唇から覗く前歯がリスを連想させる若い女だ。

「すみません、お待たせしました」
「これ、うちの庭に落ちてて」

 言って、タオルを差し出す。女はきょとんとした顔で俺を見たまま動かない。反応が鈍いので、ホームの名前が印刷されたタオルの端を見せた。

「あ……やだ、ごめんなさい。わざわざありがとうございます」

 顎を引いて受付を離れると、背後からやけに大きな声で呼びかけられた。

「あの、この辺りの方ですかっ?」

 心臓がびりっと嫌な感じで軋んだ。なんだ、なにか怪しかっただろうか。俺の顔で手配書でも回っているのか。落ち着け、普通に、表情を崩すな、と念じて振り返る。

「……はあ」
「あ、ごめんなさい。近所の方ならよくお散歩のときにお会いするので、もしかしてまた、と思って」

 この女が一体なにを言いたいのかさっぱりわからない。要するに俺が本当に近所に住んでいるか疑っているということか。

「隣の、庭を挟んだ反対側です」
「隣……あ、もしかして文恵さんの! ええと、息子さん……大野清吾さんと一緒に住んでるいとこの方ですか」

 初耳の設定に黙ってうなずく。すると女はやけにはしゃいだ様子で身を乗り出した。

「私、大野文恵さんの担当をしている鈴波顕子と言います。どうぞよろしくお願いします」

 どうやら不審に思われたわけではないらしい。ようやく正面から目を向けると、顕子は嬉しそうに俺の顔を見ていた。最近やっと擦り傷が治り、赤味が引いてきた俺の顔を。まるで全身に小さな花を咲かせたみたいな華やぎようだ。一拍遅れて理解する。

 この女はなにも考えていない、ただの馬鹿な面食いだ。俺の顔にあっさりと引っかかっている。きっと実家で大切に育てられ、親の目が行き届く地元で就職を決めて、世間の悪意などひとかけらも体感しないまま大人になったのだろう。こういう世間知らずで夢見がちな女を、よく架空のスカウト話で引っかけては大金を巻き上げたものだ。

 でも、こいつは使えるんじゃないだろうか。見るからにおしゃべりで、物事を良いように解釈しそうな女だ。

「おばさんがお世話になってます」

 少し笑いかけただけであからさまに顕子の目線が泳ぎ、手元のボールペンへ落ちて行った。ふ、文恵さん、もうすぐ一時帰宅ですね。困ったことがあったらいつでも連絡してくださいね。目線が合わないまま早口でつむがれる言葉に相づちを打ち、カウンターへ歩み寄る。

「基本的には清吾が世話をすることになってるんだけど、たぶん俺が一人で様子を見る時間もあるだろうから。気を付けた方がいいこととかあるかな」

 奥のテーブルに、身体介護のワンポイントと書かれたパンフレットが置かれているのを見越して語りかける。顕子はすぐにいくつかのパンフレットと、施設の連絡先が入ったカードを持ってきた。

「文恵さんの状態でしたら、こちらの車椅子の案内と、入浴や排泄、口腔ケアなどお世話の仕方をまとめたプリントがあるので、目を通していただければ……あ、あと、お引き渡しの際にも、ちゃんと説明させていただきますね!」
「ちょっと、ボールペン借りていいですか」
「どうぞ」

 顕子はセロハンテープで軸の補強がされたボールペンを恥ずかしそうに差し出す。俺は渡された資料を確認するフリをして、受付に置かれていた利用者向けの意見カードにスマホの電話番号を書き込み、ボールペンと一緒に顕子へ返した。

「週末までに読んでおきます。ありがとう」

 顕子はメモを見たまま、呆然としている。俺はもらった資料を手にニコニコひまわりホームを出た。

 電話は、ほんの数時間後にかかってきた。

(後編へ続く)

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