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【第一話全文公開】アイドルになりたい青年たちの、至上の青春。佐原ひかり最新作『スターゲイザー』

第一話をお読みいただく前に

2022年、デビュー3作目の単行本『人間みたいに生きている』がTikTokを中心に大きくバズり、若年層の認知度を一気に高めた作家、佐原ひかり。全作品に共通して言える優れたリーダビリティと、現代を生きる10代・20代の姿を丁寧に活写する筆力の高さで、多数の出版社から執筆依頼が殺到している、いま最注目の作家の一人です。

そんな佐原さんの最新作『スターゲイザー』が、来たる9月26日(木)に刊行となります。

スターゲイザー/佐原ひかり


今作の舞台となるのは、人気アイドル事務所「ユニバース」。そこに所属する、まだデビュー前の青年たち、通称「リトル」が物語の主人公です。

ある日、彼らが出演するイベント「サマーマジック」で最も活躍した一人を、デビュー間近のグループ「LAST OZ」に加えるという噂が流れだします。この噂をきっかけに熱を帯びていくリトルたち。しかし、その中でひとり、疑問を抱いていたリトルがいた――。

彼はなぜ疑問を抱くに至ったのか。そして、その疑問とはいったい何なのか。それは本文を読んで、お確かめください。

今作は、佐原さんのキャリアで初となる男性を主人公に据えた連作短編集。最終編まで読み終えた瞬間に押し寄せる感情は、簡単には言葉で表せないものかもしれません。それでも、いつかその感情を皆さんと語り合える日が来ることを、楽しみにしております。

それでは『スターゲイザー』より第一話「サマーマジック」を全文公開いたします。あなたはこの物語の観客です。どうぞ、心ゆくまでお楽しみください!




※第一話は「小説すばる」2022年8月号に掲載された短編を、改題・改稿したものです。なお、本作はフィクションであり、実在の個人・団体とは関係ありません。


『スターゲイザー』より第一話全文公開

デザイン/円と球

1.

「大地さんって、余命あと何年でしたっけ?」

 コンシーラーで口元のニキビを消しながら、隣の持田が大地さんに話しかけた。

 デリケートな話題に思わずぎょっと手を止めたが、大地さんは平然と、「入所八年目だから、あと二年だな」と答えた。とくに気にするふうでもなく、鏡に向かったままヘアアイロンで前髪を巻いている。

「二年かー。じゃ、若さまよりは一年余裕あるんだ。あ、これ色合わねえな。誰かー! リキッドの三番持ってねー? コンシーラーのほう!」

 持田が叫ぶと、後ろから「あるー」と即座に返事が飛んできた。「投げてー」と持田が腰を浮かせる。それと同時に、「アイロン終わった人ー」と声がかかり、大地さんが、「はーい。どうぞー」とヘアアイロンを振り上げた。声をかけたやつが、「あざーす」とリトルたちの隙間を縫って取りに来る。その上をコンシーラーが放物線を描き飛んで来た。俺めがけて。

 反射的に出した手が、うまい具合にコンシーラーを受け止めた。

「加地さんすんません!」

「透くんあざっす」

 同時に声が上がる。

 軽く手を挙げてから、ほら、と持田に渡した。

 いつものことだが、汗の臭いが充満したメイクルームは定員オーバーで、大勢のリトルでごった返している。ヘアセットもメイクも自分でしなくてはいけないから、誰も彼もが身なりを整えるのに必死だ。男が雁首並べてメイクする、こんな光景、学校じゃありえない。それでも、ここではこれが当たり前だ。デビュー前のリトルといえど、人前に出る以上、プロのアイドルだ。あちこちで、「あれどこ」「これ貸して」が飛び交っている。心なしか、ギリギリまで粘っているやつがいつもより多い。普段なら手を抜く連中までまだ鏡を見ている。思えば、入りのときからして、妙な緊張感と興奮が渦巻いていた。今日が初日だからだろうか。

 毎年恒例の夏公演、「サマーマジック」。これから一ヶ月間、ほぼ毎日続くとわかっていても、初日はどうしたって気合いが入る。

 持田は色違いのコンシーラーを受け取ると、それきり、またニキビ消しに熱中し始めた。紫に変色したニキビは手強そうで、細く剃りすぎた眉を寄せながら、浅黒い肌を指先で叩いている。

 おいおい、とさすがに大地さんが突っ込んだ。

「訊いといて放置? なんだよ急に」

 頭を振り、前髪を散らしている。短めの黒髪が見慣れず、どうしても違和感を拭えない。大地さんといえば、少し長めの金髪だ。すずめの尻尾のように軽く後ろで結わえるのがトレードマークだったのに。

 持田が手を動かしながら、「すんません」と軽く謝った。

「こん中で誰がいちばん余命短かったかな、って気になって」

「いきなりだなあ」

「や、ちょっと参考までに」

「なんの参考?」

「あれです。あの噂っす。今年のサマジの具合見て、誰かラスオズに加入させるってやつ」

「ええ? なんだそれ。初耳だぞ」

「あれ、大地さん知らないんすか? でもこれけっこうガチっぽいすよ。上の人らが話してたの聞いたやつがいるって。で、誰が選ばれるんだろうなって、今リトルの間で話題になってるんです」

 なんだその根も葉もない噂。

 横で聞き耳をたてながら、口を挟みそうになる。サマーマジックの出来次第で、LAST OZ─ラスオズにメンバーを追加する? リトルで話題になってるって、そんな噂、俺も初耳だ。

「というか、そもそもなんでラスオズに補充?」

「ラスオズって今、四人グループじゃないすか。で、たぶんあの人らサマジ終わったぐらいでデビューじゃないですか。そこに一人引っ張ってきて一緒にデビューさせる、みたいな。ほら、今だと偶数だから」

 なるほど。確かに、デビュー組のグループは、大体が奇数で構成されている。三人、五人、七人、最高で九人。センターを一人置いて、シンメトリーにしやすいからだろう。

 ラスオズは現時点で四人。あと一人補充があってもおかしくはない。リトル内ならメンバー移動、グループ変動はよくあることだし、その中から新ユニットが誕生することもある。俺や大地さんが所属するI'm-ageのように、十人を超える大所帯のグループから、ある日いきなり勢いのあるグループに引き抜かれてそのままデビュー、なんてこともなくはない。

「透くんは誰が選ばれると思います? やっぱ年次順すかね。俺的には実力順で選んでほしいんすけど」

 持田がぐりん、とこちらを見た。

 聞いていなかったふりをしようかと思ったが、とぼけたところで持田は同じ説明を繰り返すだけだろう。さあ、と素っ気なく返す。鏡越しだが、若林さんが見える位置にいる。持田、後ろに若さまいるのわかってんのか。

「そもそも、ラスオズがデビューかどうかもわかんないだろ」

 言い返すと、持田が、いやいや、と大げさに顔をしかめた。

「ラスオズはもうデビューっしょ。ビジュも実力もリトルのレベル超えてるっていうか。つーか早く出てってほしいっす。後が詰まっちゃうんで」

 持田が鼻を鳴らした。よくない笑い方だ。気持ちはわからなくもないが。

 今年のサマーマジックも、ラスオズを中心としたプログラム構成になっている。楽屋も俺たちとは別、入る客もラスオズ目当てが大半だ。残りの百人ほどのリトルとはあきらかに一線を画している。デビュー間近と言われるラスオズに入りたいリトルは山のようにいるだろう。

 まあ、たとえ噂が本当だったとしても、自分がやることに変わりはない。決まった演目を、決まったメンバーと、これから一ヶ月間、ほぼ毎日そつなくこなす。当たり前のことを当たり前にやっていくだけだ。

 十分前でーす、とスタッフが声をかけにきた。はあい、と、持田が快活に応える。先程までの陰のある表情はなりを潜め、きちんとステージ用の顔になっている。元気で無邪気なアイドル「もっちー」に。

「暗い」「覇気がない」「表情筋が死んでいる」と、ファンにすらこき下ろされる日本人形顔としては、こういうところは見習わないといけない。

 鏡の中の自分を見て、げ、と声を出しそうになる。感心している場合じゃなかった。まだセットしきれていない。どこまでやったんだったか。メイクは終わらせた。ブローもした。ああ、ワックスだ。誰かが放置しているワックスを拝借して髪に揉み込む。後ろでは、靴が片方ないだの衣装が違うだの慌ただしさが増している。本番前、いつものことと言えばそうだが、いつもより気合いが入っているようにも感じる。気合いというか、そわそわ、か。張り切ってはいるが、自分は知らない、気にしていないという空気。そう、バレンタイン当日の男子共の空気感だ。入りのとき妙に感じたのは、その噂のせいだったのか。

「透、まだ髪決まんねえのか」

 大地さんに軽く肩を叩かれた。

「もういきます」

 立ち上がると、「男前にしちゃろ」と、ぐしゃぐしゃ頭を撫でられ、うわ、と身を捩る。

「最悪。五分前ですよ」

「わるいわるい。ほら、仕返ししてもいいぞ」

「届かないのわかってて言ってんでしょ」

 大地さんは百八十センチ以上ある。大学生になってからもずっと、身長は伸び続けているらしい。百六十八センチの自分が手を伸ばしてもどうせ同じようにはできない。

 手ぐしで直しながら、今度アイドル誌に提供するネタがひとつできたな、と心の中でメモしておく。

 シンメトリー、対の位置で踊るだけの関係なのに、その相手とのエピソードはファンに喜ばれる。マネージャーいわく、「構いすぎる大地と、塩対応の透」がうけるそうだ。自分としては、つれなくしているつもりは全くない。むしろ、同じI'm-ageのメンバーということもあって、大地さんはリトルの中ではかなり気安く話せる存在なのだが。

 行くぞ、と軽く腕を引かれ、メイクルームを出る。狭い廊下を、ぞろぞろと練り歩く。

「余命だって。おれ久しぶりにあんなストレートに訊かれたわ」

 大地さんは愉快そうに笑っているが、笑い事じゃない。

 余命。

 何回聞いても嫌な気持ちになる隠語だ。

 入所してから十年。それが、リトルの寿命だ。

 十年以内にデビューできなければ、自動的にリトルは卒業となる。ユニバース事務所には所属し続けられるが、個人として舞台やドラマなどの芸能仕事をやっていくだけで、アイドルとしてのデビューはほぼ不可能だ。自然、年次が上の人間へは気遣いが生まれる。それを、あんなあけすけに訊ねるなんて。無神経にもほどがある。

「……あとで持田に言っときます」

 低く呻くと、やめろやめろ、と大地さんが手を振った。

「透って何気に体育会系だよな。見た目はクールな文化系のくせして」

「大地さんがゆるすぎるんですよ。あいつ、この前も舐めたこと言ってて、俺、よっぽどその場で𠮟ろうかと」

「なんて?」

「大地さんのダンスはアイドルのダンスじゃない、ハカだ、って言ってました」

 大地さんが、ぶっ、と噴き出した。怒るどころか、大笑いしている。

「ゴリラダンスの次はハカか。もっちー喩えがユニークだよな。透のことは体幹フラミンゴって言ってたぞ」

「どういう意味ですか」

「褒め言葉だよ。体幹がエグいって意味。片足Y字とか余裕でできるじゃん、おまえ」

「それは、まあ。でも、大地さんに対してのは暴言ですから」

「そんなかりかりすんなよ。事実っちゃ事実だし。それにハカだってかっこいいだろ」

 大地さんが足を踏み鳴らした。ドンッと重い音が響く。

 確かに、細身が多いリトルの中では、大地さんはかなり体格がしっかりしているほうだ。下半身の筋肉が発達していて、ステップひとつとっても、重めの動きになる。その分、ダイナミックな表現が可能になる。それが大地さんのダンスのよさだ。

 黙り込んでいると、大地さんがさりげなく肩を抱いてきた。廊下の突き当たり、カメラが回っている。メイキング用だろう。大地さんがピースを作った。抱かれるまま、軽く頭を下げた。


2.

 まだ寝ている家族を起こさないよう、階段をゆっくり下り、靴を履いて慎重に外に出た。

 六時半でもすでに明るい。夏は活動時間を長くとれるから好きだ。やるべきことを朝からやってしまえるのは気持ちがいい。河原まで早足で歩き、入念にストレッチを行う。筋が伸びるのを確認して、走り始める。町の東西を流れる川に沿って、三つ目の大橋で引き返し往復すれば大体五キロ。朝のジョギングにちょうどいい距離だ。

 夏草の澄んだ匂いが心地いい。スピードを上げそうになるのを、ぐっと堪える。筋肉を少しずつほぐしていくのが目的だ。ペースを崩さないよう、ラップを刻みながら走る。

 七時五分。もうすぐ前から野球部の集団がやってくる。どこの高校か知らないが、毎日この時間にここですれ違う。部活お疲れ様、とついつい心の中で言ってしまうが、傍から見れば俺も部活のために走り込む高校生だろう。

 まあ、リトルでの活動だって、部活みたいなものか。

 小六の終わりにユニバースに入所しリトルになるまでは、クラブチームでサッカーをしていた。放課後、練習場で同年代の少年たちと汗を流す。レッスンと差異はない。

 サッカーを続けさせたかった父親は、クラブチームを辞めることに難色を示したが、家庭内闘争の結果、母親が勝利を収めた。自分はそれに従っただけだ。

 ユニバースへの履歴書は母親が送った。ある日、オーディションにいけと言われ、交通費を持たされ、わけもわからず会場で踊り、そのままリトルと呼ばれるようになった。そこからもうすぐ五年、まだよくわからないままリトルとして活動している。先輩のツアーにバックでついたり、舞台やラジオ出演で給料を貰っている点では部活と異なるが、意識としてはサッカーをやっていたときとあまり変わらない。当然、本気でデビューを目指しているリトルたちにくらべれば、主体性なんてないに等しい。

 たまに、振付師から「ダンスに主体性がない」と怒られるが、正直、仕方ないだろう、と思う。そもそも、ダンスの主体性ってなんなんだ。決まったリズムで決まった振りを踊るのが、誰がいつどのタイミングで観に来ても一定の質のものを供給するのが、仕事としてのダンスじゃないのか。

 大橋まで走り終え、引き返そうとしたときだった。前から、意外な人物が走ってくるのが見えた。

 ウェアが全く似合わない派手なピンク髪に、遠くからでもわかるはっきりとした目鼻立ち。

 蓮司だ。

 思わずその場で立ち止まる。蓮司もこちらに気づいたのか、ゲッ、と顔を歪めた。露骨にターンして、走り去っていく。

 なんだかな。蓮司には随分と嫌われている。同期で家も近いとあって、入所当時はそれなりに親しくしていたはずだが。正直、心当たりはまったくない。

 こちらも背を向けて、家に向かって走り始める。百メートルほど走ったところで、「待て」と後ろから肩を摑まれた。全力で追いかけてきたのか、蓮司は肩で息をしている。

「なに。どうした」

「言うなよ」

 かぶせ気味に蓮司が言った。

「何を」

「俺が走り込みしてたこと」

「なんで」

「ダセーから」

 大まじめに言っている。まさか、釘を刺すためだけに追いかけてきたのか。

「それ、言ってる時点でダサくないか」

 指摘すると、蓮司はばつが悪そうに、うぜ、と悪態をついた。

「まあ、でも、意外だよ。蓮司が走り込みしてるなんて」

 レッスン場でも本番でも流すばかりで、「くだらない」という態度を隠そうともしない。そのやる気のない態度に、リトルからもファンからも「手抜きアイドル」と揶揄されている蓮司が、こんな朝っぱらから走り込みだなんて。

「肺活量落としたくないだけだ」

 視線を逸らし、蓮司がぼそりとつぶやいた。

 なるほど。

 蓮司は歌が上手い。声質も声量も頭一つ抜けていて、ミュージカルにも多数出演している。そこだけは死守したいのだろう。

 蓮司は今、謹慎中だ。先日、ホテルでのベッド写真が流出した。未成年ということもあって、一定期間、活動を休止するという形で謹慎が言い渡された。そこから、蓮司はレッスン場にもめっきり来なくなってしまった。MIDNIGHT BOYZのメンバーに迷惑をかけているし、顔を出しにくいのはわかるが、そんなことを続けていたら、どうやったって体は鈍るし、振りも抜けていく。走り込みはいいが、家でもちゃんと踊っているのだろうか。

 訊ねかけて、ためらう。もしかして、こういうところが嫌われる原因なのかもしれない。

 それ以上会話が続かず、気まずい沈黙が流れる。何かないか、と頭の中を探って、あ、と思いついた。

「蓮司、あの噂って知ってるか?」

 噂? と怪訝な表情を浮かべる蓮司に、サマーマジックとラスオズの噂を説明する。最後まで聞き終えて、蓮司は「しょうもね」と一言吐き捨てた。

 その反応に、少しほっとする。蓮司ならそう言うと思った。

「そうなんだよ。くだらない噂なのに、信じてるやつが多くて。最近みんな、変に気合い入ってるっていうか。そのせいで、サマジ、始まってまだ一週間なのに、ちょっとバテてるやつもいてさ」

「それ入りたての頃にやるやつじゃねえか」

「そう、ペース配分間違うやつ。持田なんか毎日へろへろだよ」

「持田ァ? あいつ何年目だよ」

 蓮司のせせら笑いに、溜飲が下がる。

「持田、誰が選ばれると思うか、いろんなやつに訊いて回ってんだよ」

「ああ。おまえ、って言ってほしいんだろうな。まあ、噂が本当だとしても持田はねえよ。フツーに考えたら遥歌だろ。あんなん、顔がもう優勝だよ。持田なんかと同じグループで腐らせとく時間がもったいねえ。とっととデビューさせて、スター街道乗せるべきだ」

 蓮司の口から遥歌の名前が出たことに驚く。あの場で名前は出さなかったが、正直、可能性があるとしたら遥歌じゃないかと自分も思っていた。蓮司はなぜか俺を毛嫌いしているが、やっぱり俺たちは気が合うんじゃないか。

 ああでも、と蓮司があごに手を当てた。

「俺、見たぞ。この前、大地さんがお偉方と会議室に入っていくの」

「大地さん?」

「そ。こないだ事務所で説教くらった後だよ。入れ違いで、隣の会議室におまえんとこのマネージャーと一緒に入ってった。俺みたいに何かやらかしたんかと思ってたけど、もしかしたらその話だったのかもな」

 意地悪く、蓮司が口の端を歪めた。

 まさか。

 大地さんが、ラスオズに?

「おまえ、なんも聞いてないの?」

 動揺を見抜いたのか、蓮司がたたみかけるように嘲笑した。

「ま、大地さんもおまえみたいなサイボーグにはなんも言わんわな」
 それだけ言い捨てて、蓮司は背を向けて去っていった。


3.

「サマーマジックっていいよなあ」

 バーに片足を乗せ、上体を折り曲げながら、大地さんがのんびりとした声を出した。リラックスした表情で、なんとなく、湯に浸かっているカピバラを思わせる。

「なんですか、いきなり」

 事務所のレッスン室に他に人はおらず、地下ということもあって、声がやけに響いて聞こえる。

「いや、ふと思って。よくね?」

「公演にいいも悪いもないと思いますけど」

「そう? おれは単純に好き。持てるかぎり、やれること限界までやって一瞬をつくり出す感覚が、〝夏の魔法使い〟って感じで」

 サマーマジックのコンセプトは、「真夏の昼の夢」だ。観客は夏の森に迷い込んできた旅人。リトルたちは、ユニバースのメドレーをはじめ、コント、ミュージカル調の芝居、タップダンス、サーカスめいた曲芸と、ありとあらゆる「魔法」でもって、旅人を翻弄し、歓待する。

「その分疲れますけどね」

「なあ。二幕からの衣装めちゃくちゃ動きにくいしな」

 はは、と穏やかに笑う。いつも通りの大地さんだ。隠し事をしているようには見えない。

 ストレッチを終えた大地さんが、バーから足を下ろした。

「そういや、もっちーが言ってた、サマジの噂だけどさ」

 唐突な話題転換に、まさか、と身構える。開脚をやめて、居住まいを正した。

「透は、今回のサマジでがんばろうとは思わないの?」

「え」

 予想外の問いに、口を開けたまま固まってしまう。

「みんなさ、なんだかんだ意識して力入れてるだろ。でも、透はいつもどおりだから。ぶっ倒れない、きっちり八十パーセントの力で回そうとしてる」

「それは……」

 見抜かれていたとは。しかも、余力の具合まで、正確に。

 サマーマジックが始まる前、全力でやるぞ、とリーダー格のリトルが鼓舞していたが、それを横目に、八割で、と俺は決めた。公演は一ヶ月間。何よりも、走り切ることが大切だ、と。

 指摘された気まずさと、それのどこが悪いんだ? と思う自分もいて、どう返していいかわからない。

「この機会に目立って、デビューしたいとは思わないんだ?」

 見据えられ、つい目を逸らす。

 責める口調ではない。でも、大地さんの射貫くような視線は、少し居心地が悪い。ステージングでもそうだ。その場にいる観客だけじゃない。カメラの奥の奥まで、大地さんは見る。心の奥まで、射貫く。

 黙り込んでいると、大地さんが、ごめん、と謝ってきた。

「透、そういうの考えてても態度に出すタイプじゃないもんな。ヘンなこと訊いて悪かった」

 頭を下げられ、やめてください、と慌てて立ち上がる。

「俺はやるべきことをやってるつもりで……。デビューできるかもしれないから頑張る、っていうのも違う気がして。課題があるなら期日までにこなすべきだし、金払って観に来てくれてる客がいるなら、一定のクオリティのものを見せるだけ、っていうか」

「やるべきことを、ね。そのモチベでやっててしんどくないのか? 毎日けっこう大変だろ、レッスンも公演も」

「さあ……。当たり前のことを当たり前にやるだけ、って感覚なので。何がモチベーションかは、あまり関係ないかもしれません」

「当たり前、か」

 大地さんがつぶやいた。

 ――大地さんもおまえみたいなサイボーグにはなんも言わんわな。

 ふと、蓮司の声が頭に響いた。心臓が、スッと冷える。

 こういうところなんだろうか。大地さんが俺に何も言おうとしないのは。
 マネージャーとお偉方と、いったい何を話していたのか。今の流れなら、訊ける。サマジといえば、大地さん、もしかして――。

「サマジの最後に歌う曲あるじゃん」

 タッチの差で、大地さんが先に話し始めた。喉元まで出かけた言葉をどうにか吞み込む。

「最後……エバーグリーンですか?」

「そ」

 あの日きみは 光の中で
 笑いながら 泣いていた

 傷つきながら かがやいて
 ぼくらどこまで ゆけるのか
 だれにもなれない ぼくのまま

 大地さんが出だしの数コーラスを口ずさんだ。低く太い歌声。高い声が多いリトルの中で、下ハモを無理なく歌える貴重な声だ。

「あれってさ、おれら自身のことを歌ってる曲でもあるわけじゃん」

「まあ、そうですね。そういう体の曲ですね」

「テイって言うなよ」

 大地さんは顔をしかめたが、実際そうだろう。アイドルとしての苦労苦悩を匂わせるような歌詞だ。今までの経験を想起させ、エモーショナルな気分にさせる効果がある。現に、サマーマジックの最後に歌うことで、泣き出すリトルも少なくない。

 そういえば、大地さんが泣いているところって、見たことがない。

 リトルのレッスンは厳しい。怒られて泣き、悔しくて泣き、苦しくて泣き、汗と涙、同じぐらい流して一人前だとも言われる。でも、大地さんは、少なくとも俺の前ではそのどれも見せたことがない。いつも穏やかに笑って、泣くこともなければ、怒ることもない。厳しいことを言うときも、言葉を選んで、威圧的に怒鳴ることは絶対にしない。

 リトルのオーディションのときに、先輩として前に立っていたのが大地さんだった。ダンスなんて今までやったこともない俺は、前で踊る大地さんを真似して、わけもわからず踊った。大地さんは時折、後ろの俺の様子を確認しながら、どの先輩よりも丁寧に、初心者用に踊ってくれた。

 入所後は、大地さんが直属の先輩としてリトルのいろはを教えてくれた。最初はその広い背中を見ながら踊って、同じグループになってからはシンメとして隣で踊って。メンバーの入れ替えもそれなりに経験したけれど、大地さんとだけはいつも一緒に踊っていた。

 おれはさ、と言いながら、大地さんがスピーカーの電源を入れた。

「あの曲、好きなんだけど、歌うのは苦手なんだよな」

「へえ。そこまで難しい曲じゃないと思いますけど」

「いや、どっちかっていうと感情的に。ちょっとフィットしすぎっていうのかな。〝傷つきながらかがやいて〟なんて、ほんとそうだから。八年やってて、思うよ。みんなどこかしら損ないながら、傷つきながらステージに立ってる。そうじゃないと輝けないって言い聞かせてさ」

 そうなんですか、と言うのは、さすがに他人事すぎるだろうか。「エバーグリーン」の歌詞も、あまり自分に重ねたことはない。傷ついて輝くなんて、ダイヤじゃあるまいし。

「透はさ、そのままでいいよ。傷つかずに輝けるなら、それに越したことはないんだから」

 それだけ言って、大地さんが練習曲を踊り始めた。急いで並び、合わせる。フォーメーションチェンジが多い曲だ。ステップを組み合わせながらの移動が難しい。バタバタすると見苦しいが、オーバーめに踏まなければ間に合わない。今は二人だが、合わせるときは十二人だ。一歩踏み込む位置を間違えると、ぶつかってしまう。お互いの位置を常に把握しておかないといけない。

 大地さんが脇から前にすり抜けてくる。黒髪が見慣れない。仕事で黒染めすることはあっても、それが終われば金髪に戻していた。どこにいるかすぐにわかる、スポットライトの下、いちばん目立てる色。

 ツーエイト、立て膝で待ちながら見つめる。大地さんは真剣な顔でカウントをとっている。温厚な顔立ちに耳上で刈り上げた短髪。実直で素朴な青年、という感じだ。べつに、黒が似合わないわけじゃない。でもずっと、なにかが、しっくりこない。


4.

 信号機のない横断歩道を渡っていると、夕日を背負って車が走ってくるのが見えた。小走りで渡り終える。途端、汗が噴き出してきた。夕方でもこんなに暑いとは。夏休みのこの時間に外をうろつくのは久しぶりだ。空調の効いた室内で動き回ってかく汗とはまた違う、じっとりとした汗が首を伝う。

 待ち合わせ場所の公園に、柴田は先に来ていた。何をするでもなく、ベンチに座ったまま走り回る子どもらを見ている。

「久しぶり」

 声をかけると、柴田がおう、と言って横に体をずらした。会うのは、柴田の中学最後の試合を見に行ったぶりだ。目や耳にかかるほど伸びた髪のせいか、大人っぽさが増している。背も随分と伸びた。横幅が変わっていない分、ひょろりとした印象を受ける。ハーフパンツからのぞく脚は記憶よりも細くなっていた。

 隣に腰を下ろす。木陰におおわれているものの、ベンチは熱い。柴田の高い鼻や頰が赤く焼けている。いつからここに座っていたのだろう。

「悪いな、急に。加地、夏休み忙しいんだろ」

「大丈夫。今日はオフだから」

「オフ! 芸能人みてえ」

 からかうように笑ったが、すぐに、「いや、芸能人なのか」と感慨深そうな表情を見せた。

「なんだっけ、リトル?」

「ああ」

「クラスの女子にもいたよ。熱烈に推してるやつ。布教されたから、オレも何人か名前わかるよ。おまえのファンは見たことないけど」

「言わなくていいんだよ、そういうのは」

 苦い声を作って返すと、柴田は、はは、と軽く笑った。もっと気落ちしているかと思ったが、このぐらいの軽口は叩けるようだ。

「うそうそ、いるいる、おまえのファン。加地がサッカーやめてアイドルになるって聞いたときはマジでビビったけど、おまえ、ちゃんとそれっぽい見た目になっていってるもんなあ。すげえよ」

「そうか?」

「ああ。かっこよくなった」

 真顔で柴田が言う。仕事以外で面と向かって容姿を褒められるのは久しぶりで面映ゆい。

 同世代の男子よりは確実に容姿に気を遣ってはいるが、周りに男前がゴロゴロいるせいで、自分の容姿に適切な自己評価を下すのがなかなか難しい。自分では変わったつもりはないが、柴田は世辞を言うタイプではない。少しはアイドルらしい見た目になってきているのだろう。

 柴田は瘦せたな、と言いかけてやめる。柴田はきっと、自分自身の変化を自覚している。

「まあ、無愛想なところは変わってないけど。つかおまえ、それでアイドルやっていけてんの? アイドルってもっとニコニコ笑って愛嬌をふりまくもんじゃねえの」

「俺はクール系だから」

「それ自分で言うやつじゃないだろ」

 柴田が笑って、足元に置いてあるサッカーボールを足の甲に乗せた。

 そこに触れていいものか。

 躊躇していると、柴田がボールを高く蹴り上げ立ち上がった。風が吹いて、汗と柔軟剤が入り交じった匂いが漂ってくる。

 ボールを受け止めた柴田が、ちょっと蹴らねえ? と言った。

「俺はいいけど……その、脚は」

「このぐらいなら大丈夫だよ」

 柴田が左脚を軽く叩いた。

 強烈で正確なシュートを放つ左脚。クラブチームを辞めてから、柴田のプレーは数えるほどしか見ていないが、スポーツ推薦で単身、地方の強豪校へと入学したぐらいだ。その左脚は高校に入ってからも健在、だった、のだろう。

 柴田から連絡が来たのは、夏休みに入る直前だった。

 学校を辞めて帰ってくる、というメッセージには、脚の怪我でサッカーを続けられなくなったこと、夏休み明けからこちらの高校に通うこと、その前に一度会えないか、ということが端的に書かれていた。クラブチーム時代も含め、中学に入ってからも、柴田とそこまで深く付き合っていた記憶がない。意外だったが、休演日でよければ、と返した。

 柴田がボールを蹴った。強くもなければ弱くもない球だが、寸分のズレもなく真っ直ぐ足元に転がってきた。相変わらず抜群のコントロールだ。蹴り返すと、球は柴田の立つ位置から左に逸れた。

「おまえ、ほんとに辞めてからサッカーやってないんだな。部活も入ってないんだっけ」

「ああ。リトルの活動で手一杯だよ」

 蟬の声が煩い。少し声を張る。

 ふーん、と言って、柴田がまた正確な球を蹴った。

「そんなに楽しい?」

「楽しいとかは、とくに」

「楽しくないのにやってんの?」

「まあ、仕事だし」

「じゃああれだ、女子にモテるからだ」

「モテないよ」

「ウソだ。キャーキャー言われてんじゃん」

「あれはファン。モテるにカウントしない」

「学校で告られたりしねえの?」

「ない」

 リトルだと知られてはいるから、好奇の目で見られることはある。だが、それは必ずしも好意に結びつくわけではない。むしろ、あのレベルでアイドル? という視線を向けられることも少なくはない(リトルなら誰もが遥歌や蓮司のような顔面だと思ったら大間違いだ)。

 入学当時はそれなりに話しかけられもしたが、元来の愛想のなさも手伝って、今では女子どころか男子も近づいてこない。移動教室も昼食もほとんど一人だ。空いた時間を使って曲入れや振り入れをしている。俺の学校生活を大地さんは大げさなぐらい心配してくるが、人と関わるのはそれなりにエネルギーが要る。学校はこのぐらいがちょうどいい。

「いや、オレは知ってる。おまえみたいなのが実は裏じゃ人気があるんだ。大人っぽい、とか、言って!」

 柴田が強い球を寄越してきた。トラップが上手くいかずボールが跳ねる。

「いいな、アイドル。チャラい恰好で歌って踊るだけなんだろ。オレもやろうかな」

 柴田が半笑いで言った。体を少し、傾けたまま。

 咄嗟にどう返せばいいかわからず、反応が遅れる。

 そうだろ、柴田もやれよ、楽だから――。

 こんなの、軽口の延長だ。だから、本心でなくともそう流せばよかったのに、一瞬、汗だくで踊るリトルたちが脳裏をよぎって何も言えなかった。無言でボールを蹴り返す。

 ボールを止めて、悪い、と柴田が謝った。本気で言っていないことはわかっていたから、黙って頷く。

「嫌だな。オレ、今スゲー嫌なやつになってるんだろうな。自分が世界で一番かわいそうだ、って浸って人に当たって。わかってんだけどな、どうしようもねえよ」

 ため息をついて、足元のボールを見つめた。

 柴田は、中学のときからオスグッド気味だった。高校に入って悪化した。でも練習しなければレギュラー争いには加われない。無理な体の使い方をした。それも手伝って、柴田は練習試合で靱帯を酷く痛めた。医者と監督には、リハビリと治療に専念するよう言われた。だが部員は二百人超の強豪校。柴田の怪我の回復を待ってくれるほど甘くない。焦った柴田は治りきっていないのに練習に参加しては脚を痛めてを繰り返した。そのうち、柴田はマネージャーという扱いになった。しばらく部に籍を置いていたが、二年の春、自らの意思で退部した。

 ボールを足元で転がしながら、入学してから今に至るまでを、柴田がぽつぽつと語った。気づけば、柴田は隣に来ていた。

「学費がさ、クソ高いわけ。オレそんなん今まで気にしたことなかったんだけど。つか免除だったし。免除が外れるってなって、軽い気持ちで調べてみたらさ、ビビる額で。オレはスポーツ推薦だから、って成績も気にしてなかったんだけど、そのせいで全然授業にもついていけなくて。こんなとこまできて何してんだろう、って思う時間が長くなって。ま、よくある話だよ。スポーツ推薦あるある。つまんねー話。ってこれも自虐になるのか。むずかしーな」

 柴田が自嘲気味に笑った。顔が暗く翳る。気づけば辺りは薄闇に包まれていて、子どもたちの声も、蟬の鳴き声すらも聞こえない。木々が風に揺れる音だけが響き、気まずい沈黙が流れる。

 どう言葉をかければいいのだろう。

 とっくの昔にサッカーをやめた人間が、怪我も経験したことのない人間が、今ここで慰め程度のことを言っても、柴田が抱える苦しみはどうにもしてやれない。同じ深さで受け止めることも、共感してやることもできない。柴田は柴田で、俺は俺だ。

「柴田、申し訳ないけど、この件で俺は聞き役に向いてない。相馬とか高橋とか、サッカー続けてて話を聞けるやつに、きちんと聞いてもらったほうがいい」

 率直に伝えると、柴田はぽかん、と口を開けた後、あっはっはっ、と豪快に笑った。

「おまえ、ほんと昔から変なとこバカ正直だよな。フリでもいいから慰めようとしろよ。つめてーな」

「……それは、自覚してる。マネージャーにも怒られるし、ファンにすら言われる。愛想カスアイドルとか全身血じゃなくて塩が流れてるとか」

「いや、ファン容赦ねー。血じゃなくて塩って、推しに使う表現じゃねえだろ。加地もそこまで言われてるんならさすがにどうにかしろって」

 返す言葉もない。

 さすがにばつが悪くなって押し黙る。ひとしきり笑った柴田が、目尻を指で拭った。

「加地でいいんだよ。加地ぐらい、別世界の人間じゃないと、オレは多分、今なにも話せない。なんにも」

 眉根を苦しそうに寄せたまま、柴田は薄い笑みを浮かべた。無理やり上げているだろう口角は、今にも落ちそうだ。弱音が、プライドの防波堤を越えようとしている。

 軽口を叩ける余裕があったんじゃない。あれは、俺のために叩いた軽口だった。

「言うてもさ、オレはそれなりに納得してるんだよ。監督たちの言うこと聞かずに無茶したのは自分だ、しゃあねえべ、って。でも、なんつーかな、親が落ち込んでるのが一番キツい。期待がデカかった分、ため息もデカいっつーか。しかもその反動で、あれはどうだ、これはどうだって色々次の目標を並べてくるんだよ。今言ってきてんのはスポーツドクター。この経験を活かせるはずだ、ってな。ウツクシー夢の出来上がりだ」

 なんで何かを目指さなきゃいけないんだろうな、と柴田が漏らした。あ、と声が出そうになる。そう。その感覚。少し前から、ずっと引っかかっていたもの。

 柴田、それだけど、と言おうとしたが、先に柴田が言葉を継いだ。

「加地もさ、大変だと思うけど、あんま無茶すんなよ。アイドルってすげえハードなんだろ? クラスの女子が見せてくれたよ、ドキュメンタリーみたいなやつ。オレと同い年ぐらいの連中がさ、痛み止めとか解熱剤とか打ちまくってステージ上がってなんともないフリして踊ってた。あれ、ちょっと自分に重なったとこもあってさ。加地、大丈夫なんかな、って。まあ、今日オレが言いたかったのは、それだけ。悪かったな、時間とらせて」

 ひと息で喋って、柴田が話を切り上げた。ボールを持ち上げる。固まったままの俺に、「でも加地はきっと大丈夫だな」とさみしげに笑いかけ、帰るか、と背を向けた。


5.

 例の噂は、いつのまにか「パフォーマンスを見て、グループチェンジ、新グループを誕生させる」という話にまでなっていた。

 ステージングにもますます力が入り、観に来ていた母親も、今年はみんな元気ね、と感心したように言っていた。あんたももう折り返しなんだから、負けないようにね、とも。

 デビューを目指すのが当たり前だと思っている決まり文句。いつも通り適当に流そうと思ったが、ざらりとしたものが喉につっかえて、なにも出てこなかった。俺がリトルを辞めたら、この人は、どういう反応を見せるのだろう。柴田の親のように、また次の未来を被せてくるのだろうか。

 気合いが入りすぎている、という点では、大地さんもそうだった。

 普段なら、ぞくっとくるほど揃うシンメのターンも、力が入りすぎているせいか微妙にずれてしまう。ちょっとした移動でも、一呼吸遅れる。逆に、ダンスは若干早取りになっていて、他のメンバーが遅れているように見えてしまう。

 気にしなければ気にならない程度のものだが、今まで阿吽の呼吸でやってきたぶん、些細なずれが気持ち悪くてたまらない。それでも、気にするな、と言い聞かせるしかない。大地さんだって、もう八年目だ。そりゃデビューしたいだろう。あんなくだらない噂にのせられているなんて、らしくないが。

「透くん!」

 自販機の前、よく通る澄んだ声に振り返ると、廊下の奥から遥歌が駆け寄ってきた。

 殺風景な事務所の一角が、一瞬で明るく華やかなものになる。

 遠近がくるいそうなほど顔が小さい。蛍光灯の光を受けて、元々白い肌がさらに白く透き通って見える。こぼれ落ちそうなほど大きな目はきらきらと輝き、自然と上がった口角とあいまって、人好きのする顔だ。目も唇も頰も、まろやかなパーツが多いが、すっきりと通った鼻筋が全体の印象を絶妙に引き締めていて、撮影時、メイクスタッフに「やることがない」と言わしめる美少年ぶり。これでまだ十四歳。ユニバース史上最高の美貌と言われるだけある。あまりにも整いすぎて、見るたび畏敬のような念すら抱いてしまう。

「お疲れ。今帰ってきたのか」

「うん。直帰してもよかったんだけど、事務所のロッカーに夏休みの宿題入れっぱなしだったから取りに来た。もー、今日始発ですよ。超つかれた」

 遥歌が人なつこく笑った。目の下に、うっすら隈が見える。

 サマーマジックの一ヶ月間、公演だけに専念できるかといえば、そうでもない。多少調整はしてもらえるが、他の仕事も通常通り走っている。忙しいリトルだと、早朝、新幹線で地方に発ち、本番前に滑り込みで帰ってくるなんてのもざらだ。夏休みなんてほぼないに等しい。

「透くんは仕事? レッスン?」

「仕事。会議室でショート動画撮ってた」

「配信用ですか?」

「そう。まあ、個人のだけど。俺だけ更新頻度少ないって、マネージャーに怒られて、急遽」

「うわー! ファンの人よろこびますよ。透くんがソロで出てくれるの、貴重だもん。おれも後で見ますね!」

 遥歌が完璧なアイドルスマイルを浮かべてみせた。

 浄化、という単語が頭に浮かぶ。正直、アイドルを見て元気が出るというファンの気持ちにピンとこないままこの仕事をしてきたが、今、ちょっとわかったかもしれない。あやうく合掌しかけた。

 感心しながら見ていると、遥歌が少しだけ口角を下げた。なにか言いたげな目で、周りを確認している。そのくせ、いっこうに口火を切らない。

 変な沈黙が続く。「じゃあ」と言おうとしたときだった。

「あの、おれ、見ちゃったんですけど」

 声を落とした遥歌が、一歩近寄ってきた。

「さっき、そこの応接室から、大地さんとチーマネと常務が出てきたんですよ。ちょっとシリアスな雰囲気で。どーしたんですか、って一応声かけたんですけど、ごまかされちゃって。大地さん、あんなふうに笑うことあんまりないから、気になって」

 笑顔を引っ込め、顔を曇らせている。

 まただ。

 また大地さんだ。

「蓮司くんも謹慎前ああいう感じで呼び出しくらってたし……。何かあったのかな、大地さん」

「……さあ。大地さんにかぎって、その手の不祥事は起こさないだろ」

「そうだけど……あ! じゃあもしかして、大地さんなのかな。ラスオズ入りするの」

 一転、どことなく、嬉しそうに言う。反射的に、わからないだろ、と強く否定してしまう。遥歌がびくりと肩を跳ねさせた。

「ごめんなさい! そうですよね、透くん、大地さんとシンメですもんね。おれ、無神経なこと……」

「や、違う。ごめん、今のは俺が悪い。ちょっと強く言いすぎた。大地さん、サマジが始まる前にも呼ばれてたみたいだし。別件だよ、きっと」

 口調に気をつけて補足する。遥歌は人の心の機微に敏く、繊細だ。些細なことで傷ついて、心身ともにやられやすい。この忙しいときに、余計なことでストレスを与えてはいけない。

「そうなんですか?」

「ああ。この間、蓮司が言ってた」

「え? 透くん、蓮司くんと連絡取ってるんですか?」

 遥歌が顔を輝かせた。

「おれ、蓮司くんに連絡したいんですけど、三田さんから接触禁止令が出てて……。蓮司くん元気でした?」

 三田さん、そんな禁止令出してたのか。

 マネージャーの立場としては秘蔵っ子に悪影響を与えたくないんだろうが、プライベートでも連絡を取るななんて、いくら蓮司が謹慎中とはいえ横暴だ。言わなければバレないものを、律儀に言いつけを守っているのが遥歌らしいが。

「変わりなかったよ。偶然会っただけだから、近況までは聞けてないけど」

「そっかあ、よかった」

 ほっとしたように、遥歌が胸に手を当てた。

「でも、蓮司くんの謹慎、きっと夏いっぱいは解けないんですよね?」

「まあ、無理だろうな」

「残念。おれ、この謹慎さえなければ、蓮司くんがラスオズ入りでデビューだと思ってたのに」

「へえ。なんで蓮司?」

 蓮司は遥歌だと言い、遥歌は蓮司だと言う。そういう意味じゃここは相思相愛だ。

「なんでって、蓮司くん飛び抜けてるじゃないですか。一人だけ歌もダンスもレベル違うっていうか。ミュージカルだって何本も出てるし、アイドルオーラみたいなのもすごいし! この前のソロの表紙見ました? 色気ヤバすぎておれもう三冊も買っちゃって」

 興奮で頰がピンクになっている。まるでファンだ。

 なるほど、蓮司は遥歌のビジュアルを買っていて、遥歌は蓮司の実力を買っているのか。

 じゃあ、大地さんは?

 大地さんがラスオズ入りって、正直想像がつかない。

 遥歌の顔。蓮司の声。大地さんのよさは、そういう派手でわかりやすい、表面的なものではない。でも、ラスオズはどちらかと言えば、そういう派手なスキルを持ち合わせた王道アイドルグループだ。そこに大地さんが入るのは違和感しかない。

「ちなみに、透くんは誰だと思います?」

 正直に遥歌だと伝えると、遥歌は「えー!」と驚き首をぶんぶんと振った。

「ぜったいおれじゃないですよ! なにもかも足りてないですもん。おれ、こないだも顔だけ野郎とか言われちゃって。まあ、実際そうなんですけどね」

「誰がそんなこと言ったんだ」

 遥歌は目立つ。仕事も多い。事務所からもあきらかに大切にされていて、その分、やっかみの対象になりやすい。

 何かフォローを、と思ったが、遥歌は誰の名前も出さず、にこにこ笑うだけだった。

「えー、でも、うれしいなあ。透くんにそう思ってもらえてたなんて」

 へへ、とはにかむ。両頰にえくぼが出来る。いったい、どこの筋肉をどう動かせばそんなに愛嬌のある顔で笑えるんだ。爪の垢でも煎じて飲んでくれ、と頭の中でマネージャーが嘆いている。

「まあ、万が一そんな話きても、おれはぜったい受けないですけどね」

「へえ」

 意外だ。遥歌はユニバース好きが高じて、自分で履歴書を送ったタイプだ。当然、デビュー意欲も高いと思っていた。

「おれ、UNiTEのメンバーでぜったいデビューしたくて。だから、おれだけ引っこ抜かれてデビューとかやだし、ソロなんてもうありえないっていうか」

「ソロの話来たんだ?」

 拾うと、遥歌は、しまった、という顔をした。

「そんな、本気のやつじゃないですよ。考えてみたら~ぐらいの、ライトなやつ。でも、あの、誰にも言わないでくださいね。とくに、その、もっちーには……」

「持田? なんで?」

「前に、もっちーにも同じ事訊かれて。その、誰がデビューするか、みたいなの。おれはちゃんと蓮司くんって言ったんですけど、もっちーからは、遥歌じゃねーの、って探りっぽいのを入れられて。おれ、そのとき、何も隠し事なんてしてないよ、って言っちゃって。でも、おれ、ソロの話きたって、もっちーには言ってなかったから、うそついたことになっちゃう……」

 遥歌がしゅん、とうなだれた。気遣う意味がよくわからず、はあ、とお粗末な相づちを打ってしまう。

 持田と遥歌、同じUNiTEのメンバーのはずなのに、どうも遥歌が一方的に気を遣っているようにも見える。話を聞くかぎり、遥歌、ソロのほうが気楽にやれるような気もするが。

「透くんは、もしソロデビューの話がきたら受けますか?」

 遥歌がうかがうような上目遣いを向けてきた。

 どうだろう。グループでデビューと言われても首を捻るぐらいだ。ましてやソロなんて。

 受けないと思う、と答えると、遥歌は、ですよね、と力強く頷いた。「やっぱりデビューはグループで、ですよね」と。

 それもそれで違う気がするのだが、黙って合わせておいた。


6.

 千穐楽の空気は独特だ。これで最後だという安堵と名残惜しさ、切れそうな糸をギリギリのところで保とうとする緊張感。熱気と興奮と緊張がピークに達する。

 サマーマジックは、夏の盛りにほぼぶっ続けの一ヶ月公演ということもあって、毎年、千穐楽の頃には何人かはバテていなくなる。そこを、歴が長く慣れているメンバーがフォローするというのが恒例だったが、今年の千穐楽はとくに酷かった。

 連日の真夏日で倒れたリトルが多かった上、年長のリトルも仕事で抜け、限られたメンバーでしかフォローに回れない。自分の出番以外も代役とフォローで駆け回り、息つく暇もない。メドレーの途中で抜け、曲と曲の合間にステージ間を移動し、先輩グループのバックで踊る。捌けた後は大急ぎで衣装を替え、後輩の代役をこなす。フライングをした直後に、歌いながらホールを一周する。何が何やら、もうめちゃくちゃだ。合っているのかもわからないまま、ただ、穴をあけるのだけは回避すべく、ホールの端から端まで走り回る。

 一幕をどうにか乗り切り、二幕の初め、袖で後輩グループのメドレーを見ながら待機する。これが終われば大地さんと二人で出番だ。暗転直後、ナレーションが入り、大地さんがステージへと出る。森へとやってきた、疲れ果てた旅人として。それを踊り誘う森の精が、自分に割り振られた役だ。ほとんどコンテンポラリーに近い踊りで、いつものダンス以上に、指先まで気を配らなくてはいけない。かろやかであればあろうとするほど、筋肉が物を言う。自分の出番の中では見せ場といっていいシーンだが、かなりの体力を要する。用意された衣装は重ね着につぐ重ね着で、その後の早替えのためとはいえ、鎧のように重い。これでかろやかに踊れ、なんて本当に無茶を言う。まあ、ジタバタ苦労しているところなんて見せてもしょうがないが。アイドルの仕事なんて、楽そうに、かるくこなしているように見えるぐらいでちょうどいい。

 それにしても暑い。光が熱い。眩しい。ライトが目に突き刺さって痛い。体には力が入らないし、頭がやけに重い。

 額の汗をぬぐって、ぎょっとする。汗の量が尋常じゃない。これ、メイク落ちてるんじゃないか。手の甲を頰に当てる。熱い。火照っている。駄目だ。森の精は人間味の薄さが肝心の役なのに。

「大丈夫か」

 振り返った大地さんに声をかけられ、反射で「はい」と答えたが、出たのは蚊の鳴くような声だった。顔をのぞきこまれ、目が合う。大地さんの顔が険しくなった。

「大丈夫じゃないだろ。おまえ、顔真っ赤だぞ」

「らいじょうぶです。緊張してて」

 ろれつがあやしい。水、と大地さんが袖水を渡してきた。一口飲んで、ハッとする。そうだ、水。最後に摂ったの、いつだ。思い出せない。

「透、それ熱中症じゃないのか」

 ふらつきそうになるのを、すんでのところで堪える。

 最悪だ。水分と塩分なんて、こんな初歩の初歩。

 ステージではアウトロが流れている。もうすぐ暗転だ。スタッフに声をかけようとした大地さんの裾を引っ張る。

「駄目です。間に合いません」

「でも、それじゃ踊れないだろ」

「やります。俺のミスです」

「無理だって」

「三分半。三分半踊りきれば、あとはソロの出番ないんで、すぐ救護室いきます」

 大地さんが言い募ろうとした瞬間、照明が落ちた。録音のナレーションが流れ出す。これが終われば、大地さんはすぐ出て行かなくてはいけない。大地さんと二人、無言で顔を見合わせる。

「脱げ」

「え?」

 返事をする前に、問答無用でひんむかれた。あっという間に上半身裸になる。

「役を交代しよう。おれが森の精として踊る。透は旅人として立っててくれればいいから」

 はあ? と、場所を忘れて大声を出しかける。

「無理ですよ。動き、全然違うでしょ」

「なんで? 透、どうせ覚えてるだろ、おれの動き」

「わかりますよ、俺はできます。でも大地さんは無理でしょ」

 言葉も選べずまくし立ててしまう。ナレーションが半分終わった。早く衣装を取り戻さなければ。奪い返そうとしたが、大地さんは自分の衣装を脱ぎ捨て、かなり無理やりに森の精の衣装を着てしまった。暗闇にも、ピチピチでところどころ破けているのがわかる。間違いなく後で衣装さんにぶっ叩かれる。

「大丈夫。覚えてるから」

「覚えてるって、何を」

「透の振りだよ。細かいところまでは怪しいけど、大体の動きはわかる。代わるぞ」

 大地さんが俺の振りを覚えてる? 見てて覚えたってことか?

 いや、悪いが大地さんはそんな器用なタイプじゃない。振り入れも遅く、いつも最後まで残って確認している。なら、普段から練習していたのか? 純粋にダンスが好きで、勝手に他人の分まで振り入れして踊っているやつはいる。でも、でも、大地さんはそうじゃない。じゃあ、今回だけ練習していたのか? そんなこと、今までしてなかったじゃないか。なんで、今回、今年だけ。

「そんなに、目立ちたいんですか」

 こんなときに何言ってんだと頭のどこかではわかっているが、口が言うことをきかなかった。

「アピールできるからですか? 臨機応変にやれるって。俺に何かあったとき、取って代われるように練習してたんでしょ。点数稼げますもんね。あと余命二年だからって、必死こいてバカみてえ」

 思いきりコケにしてやったのに、大地さんは何も言わない。

 どうして何も言わないんだ。

 言ってくれないんだ。

 そんなわけないとか、バカじゃないかとか、吐き捨ててでも否定してほしいのに、どうして。

「そんなに、そんなにデビューしたいんですか」

 絞り出した声が、無様に震えた。

 大地さんは、透がいい、といつも言っていた。

 雑誌でも、ライブでも、俺がいるときでも、いないときでも、透のとなりがいちばん踊りやすい、と言っていた。

 わかりやすいおべっか、ファンへのサービス、これが褒めて育てるってやつか、と斜に構えていた俺に、大地さんは飽きることなく、言い続けてくれた。

 本当だと思っていたのに。それなのに、ラスオズに入るほうが、デビューのほうが、俺と踊るより大事なのか。

 どうしてみんな、デビューをめざすんだろう。

 いいじゃないか。習い事で。誰が秀でているとか才能だとか気にするんじゃなく。好きな人と、好きなだけ、愉しくやればいい。

 人生を賭けて、若さを費やして、余命と戦って、傷ついて、傷つけて。そこまでしてなりたいもの、見たいものってなんなんだ。わからない。俺には、俺には一生――。

 透、というささやきに、はっと顔を上げる。暗闇の中、大地さんの大きな両手に頰を挟まれた。

「かわいいなあ、おまえ」

「はあ?」

 大地さんが、がまんできない、というように笑った。頰がゆるゆるになっているときの笑い声だ。

「やばいな、ちょっとツンデレに目覚めそう」

「こんなときに何言ってんすか!」

 手を摑んで引き剝がす。大地さんの手が熱を奪い、火照りが少し引いた。

 大丈夫だから、と大地さんが静かに言った。

 何に対してなのかはわからなかった。これからの出番についてなのか、今の俺の言葉に対してなのか。

 キッカケのスポットライトがついて、大地さんの顔が見える。正面から、俺を見ていた。心の奥底まで見抜く目。言葉にできない、俺の本心を見てくれているだろう、目で。

 袖水をもう一度飲む。さっきよりは少しマシになったが、それでも頭は痛いし、足にも上手く力が入らない。これなら演技なしでいけそうだ。

「似合ってんぞ。〝疲れ果てた旅人〟」

 にやりと笑って、大地さんが背中を押してくれた。


7.

 大地さんの見立て通り、俺は熱中症になっていた。

 あの後、捌けた直後に倒れ込み、すぐに救護室送りになった。念のため病院にも搬送され、家に戻されてからも、三日ほど寝込んだ。

 ラスオズは四人でデビューした。

 サマーマジックの最後、サプライズ発表があったそうだ。

 自宅療養中、マネージャーやメンバー、多くのリトルたちから沢山のメッセージが届いていた。体調の心配、ラスオズのこと、そして、大地さんの退所について。

 巷にはラスオズのデビュー決定の報があふれ、大地さんの退所はネットニュースにもなっていなかった。当たり前だ。大地さんは、遥歌や蓮司ほど目立つリトルでもない。数多いるリトルのうちの一人。退所の事実すら、きちんと公表されない。退所後、ホームページの紹介欄から速やかに写真が消されるだけ。そのうちファンが気づき、少しはSNSを騒がせるかもしれないが、すぐに忘れ去られる。

 大地さんは、就職活動に専念するそうだ。

 療養後、事務所に行き、大地さんから退所の理由とメンバーへの謝辞を聞いた。みんな、泣いていた。沈痛な面持ちで、悔しそうに、苦しそうに。泣いていないのは、俺と大地さんだけだった。

 俺は、よくわからなかった。だって、大地さんはそこにいる。目の前にいる。今後、いなくなると言われても、ピンとこない。今までも、そうだった。辞めていくリトルたちを、実感もないまま見送り、いつのまにかいないことに慣れていった。

 大地さんの不在にも、きっと慣れる。蓮司の言う通り、俺は血も涙もないサイボーグなんだろう。

 最後の日、大地さんは事務所の共有ソファーに座って、荷物の整理をしていた。

 隣に腰を下ろしてみたが、することもない。名前も知らない観葉植物をただ眺める。照明を浴びて、葉がつやつやと光っている。

「なんで、今なんですか」

「んー?」

「大学卒業まで、やればいいじゃないですか。こんな中途半端なときに、辞めなくても」

「せっかくなら天寿をまっとう、って?」

「そういうわけじゃ、ないですけど……」

 大地さんがダンスシューズを鞄にしまった。

「リトルっつってもさ、知ってる人間は知ってるし。社会人になる前に、忘れてもらう期間が必要なんだよ。それに、おれ自身がもう限界なんだ」

「限界って、なにが」

「リトル、というかアイドルって職業。マルチタスクの鬼だよ、この仕事。ステージも撮影もラジオも舞台も取材もアクロバットもやって。次から次へと曲入れて、常に引き出し作ってエピソード用意して個性とキャラ立てて。プライベート潰して日々気絶するみたいに寝て」

「でも、今までやってこられたでしょ」

 八年。俺よりずっと長く、この人はリトルとして活動している。今さら、そんな、そんな理由で辞めるっていうのか。

「透さ、振り入れってどのくらいで出来る?」

 大地さんが立ち上がり、鞄を肩にかけた。そのまま、こちらを見ず歩き出した。慌てて追いかける。

「振り入れは、一、二回見たら、大体は……」

 すげえなあ、と大地さんが笑う。目尻に細い皺が入った。

「すごいって、そんなの俺からしたら当たり前のことで……。それに、遅い早いはどうでもいいでしょう。本番までに入れればいいだけのことなんだから。みんな、普通にこなしてることですよ」

「それ、全然普通じゃないから。透が十覚える間に、おれは必死こいて一しか入れらんねえの」

「でも、」

「当たり前のことなんて、ないんだよ、透」

 エレベーターの前で、ようやく大地さんが止まった。

「透さ、自分のこと、平凡な人間だと思ってるだろ。違うよ。要領って意味では、天才だよおまえ。一度見たら覚える、忘れない。どんな振りにも無茶にも忠実に確実に応える。しかも、それに甘えず、毎日走り込みして、欠かさず自主練して。努力を努力だとも思ってない。みんな、普通はデビューやステージングの楽しさをモチベーションに、苦しくても悔しくても耐えて堪えてどうにかやってんだ。でも、透は違うだろ。心も体も摩耗せずやっていけてる。タフさって、基本だけど、一番大事な才能だよ」

 上がってきたエレベーターに乗り込み、ためらいなく一階のボタンを押す。

「おれも、今までごまかしごまかしやってきたけど、ここいらが限界。どれだけ練習しても、努力しても、足元にも及ばない連中がゴロゴロいるんだもんな。泣けてくるよ、ほんと。もうそろそろ、自分の器が割れない生き方に切り替えたいんだ」

 大地さんは淀みなく喋った。今思ったことではなく、きっと、ずっと思っていたことで、マネージャーにも応接室で同じように説明したんだろう。

 いつからそう思っていたんだろう。俺は、大地さんに面倒を見てもらうのが当たり前で、大地さんを助けようなんて思わなかった。大地さんの要領がそれほどよくないことに気づきながらも、人それぞれ、という言葉を都合よく使って、踏み込もうとしなかった。大地さんの奥を見ようともしなかった。感謝や美点を言葉にしようともしていなかった。言わなくても、大地さんは、わかっていると思っていた。

 エレベーターを降りたところで、違う、と大地さんの前に立ちはだかる。

「大地さんのよさは、そういう、見えやすいところにあるんじゃない。大地さんだって気づいてないです。大地さんのよさに」

「おれのよさ?」

「大地さんは、誰のことも悪く言わない。誰のことも否定しない。どんな場面でも、人の欠点を茶化したり、いじったりしない。アイドルに本当に求められるものって、そういう、ひとしいやさしさなんじゃないですか」

 その人がどんな人間であろうと、普段どんな生活を送っていようと、アイドルの前ではただのファンだ。だからこそ、アイドルも、平等な質を、愛を、供するべきだ。大地さんや遥歌のような人間こそが、アイドルとして、ふさわしい。

 そう言うと、大地さんが困ったように眉を下げた。

「サマジの出来次第でラスオズに加入って噂あっただろ。あれ、おれが流したデマなんだよ」

 え、と間抜けな声が出る。その隙に、大地さんが脇をそっとすり抜けていった。

「意外か? おれだって、そういうことやるんだよ」

「なんで、そんな、デマ」

「最後だから。〝サマーマジック〟じゃないけど、それでみんなの本気を引き出せたら、って。透も、それで百パー出してくれたら、って思ったんだけど」

 俺は、出さなかった。

 いつものように、引いて、俯瞰して、公演に臨んだ。明日もあるからと。

「……そんなの、言ってくれたら俺だって」

 そこまで言って、口をつぐんだ。大地さんも、苦笑いを浮かべている。そ
んな不誠実な話はない。

 誰に対しても何に対しても一線を引き続けてきたツケがいっぺんに回ってきたようで身動きが取れない。

 事務所のエントランスを抜け、大地さんは「じゃあな」とあっさり去っていった。


 帰宅すると、母親がテレビで千穐楽の配信動画を観ていた。ラスオズのデビューが発表された瞬間は何度観ても泣ける、と言いながら。

「よかったな、泣けて」

 嘲るような声が出たことに驚く。母親も、なあに、と目を丸くした。が、それも一瞬のことで、曲が切り替わるとまたすぐに画面に目を戻した。

 サッカーが好きな父親は俺にサッカーを。アイドルが好きな母親は俺をユニバースに。

 今までなんとも思っていなかったのに。苛立ちと気持ち悪さとで胸の辺りが息苦しい。画面を見つめるその背に何か言い募りたいのに、何も出てこない。これもまた、ツケなんだろうか。

 暗転直後、スクリーンにデビューの文言が映し出された。振り返り、それを見たラスオズの四人が泣き崩れた。顔を真っ赤にし、肩を抱き、互いを支え合うようにしてなんとか立ち上がる。周りにいるリトルたちが駆け寄り、拍手と祝いの言葉を贈る。もらい泣きしているリトルも、悔し泣きをこらえているリトルも映っている。夢が叶った瞬間の少年たち。夢やぶれた瞬間の少年たち。美しい映像だ。

 光は絶えない。誰かがいなくなっても、つねに、新しい誰かが輝くから。

 これで、いいんだろうか。

 誰も彼も、俺たちに夢を追わせる。仲間と切磋琢磨し、もがき、若さを見せろ、才能を見せろと要求してくる。デビューを目の前にぶらさげて。すべてを捧げさせて。

 みんな、恋愛も、学校生活も、自分の身体すらも当たり前のように犠牲にして、応えようとする。大人たちが設けた制約に従い、懸命に努力する。そして、それに耐えきれない、こなせない人間から去っていく。

 そんなひとつのかたちしか、ないのか。そういうかたちでしか、かがやけないのか。

 もっと、もっとどうにか、できるんじゃないのか。

 しなくちゃいけないんじゃないのか、俺は。

 I'm-ageのメンバーは、ラスオズの真後ろで、拍手していた。

「エバーグリーン」が流れる。

 銀テープと紙吹雪が舞う。

 ラスオズが泣きながら歌う。

 リトルが合唱し、カメラがひとりひとりの表情を追い始める。

 あふれる光。割れんばかりの拍手と歓声の中、大地さんは目をほそめて笑っていた。

(了)



終わりに

「サマーマジック」、皆様お楽しみいただけましたでしょうか。2編目以降は、持田や蓮司、遥歌などのキャラクターが主人公の物語も登場します。4編目「楽園の魔法使い」からは、あなたが予想もしなかった方向に物語が進んでいくことでしょう。

今作を含む6つの物語が収録された『スターゲイザー』は9月26日(木)の発売です。既に予約販売が始まっておりますので、確実にご購入されたいという方は、書店店頭や各ECサイトでご予約をお勧めいたします。各ECサイトへのリンクは、以下のページからご覧になれます。


また、今作の刊行を記念して渋谷の大盛堂書店さんで佐原さんのトークイベントが開催されます。日時は10月2日(木)の18時30分からの予定です。定員は40名ですが、この記事を執筆した時点では残り15名になっていました。参加を希望される方は、ぜひ早めのお申し込みをお願いいたします。

イベントの参加には、以下のリンクより事前の予約が必要ですが、当日、大盛堂書店さんで『スターゲイザー』をご購入いただくだけで参加可能ですので、お時間のある方はぜひご参加ください。今作の執筆裏話を聞く貴重なチャンスです!


リトルたちが歩む、長いようであっという間に過ぎていく1年間の物語。ぜひ最後まで追いかけていただけますと幸いです。


◉書誌情報
『スターゲイザー』
著者:佐原ひかり
2024年9月26日発売/1,925円(税込)
336ページ/四六判ソフトカバー
装画:うごんば 装丁:円と球
ISBN:978-4-08-771878-2

◉収録作
サマーマジック
夢のようには踊れない
愛は不可逆
楽園の魔法使い
掌中の星
スターゲイザー

◉著者略歴
佐原ひかり(さはら・ひかり)
1992年兵庫県生まれ。大阪大学文学部卒業。2017年「ままならないきみに」で第190回コバルト短編小説新人賞受賞。2019年「きみのゆくえに愛を手を」で第2回氷室冴子青春文学賞大賞を受賞し、2021年、同作を改題、加筆した『ブラザーズ・ブラジャー』で本格デビュー。他の著書に『ペーパー・リリイ』『人間みたいに生きている』『鳥と港』、共著に『スカートのアンソロジー』『嘘があふれた世界で』がある。



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