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隠り世

「おやいや、何だか肌寒いですね」
「なんだい。みない顔だ……ここにくるのは初めてかい」
「ええ、まあ」
「そうか。そうか。あ、女将。熱燗くれ」

 そこは古くからある旅館でしたが、あまり名の知れたところではなかったと思います。
 私がここへ辿り着いたのは、越後までの旅路、脚を休めるための休憩にすぎませんでした。
 表は小さな古民家のようでしたが、内へ入ってみるとそれはそれは、中庭を囲む見事な回廊というものを初めて目にしました。総檜造りで、木の匂いが濃ゆく香りました。まるで香を焚き染めたかのように。

 しかし私は源平の荒らし尽くした後世を生きる、旅芸人でした。こんな良いところのお屋敷に泊まり、飲み食いする金はありゃしません。
 慌てて女将を引き留めようとしますが、「よいのです」と言って聞かないのです。
 そしてそのまま、竹の襖絵の襖を開け、どの身分の御一行かも知らぬまま、そこの宴会に放り出されたのでございました。
 ここで冒頭に戻ります。

「すみません。私はあにはからんや、ここに紛れちまいまして、そうそうここを支払える金は持っちゃあいません。とてもじゃないですが、旦那にご馳走には……」
「なあに、どうせ明日には酒でみなまで忘れるのさ。いいから。いいから」

 士郎と名乗るその男は気前の言い方でした。恰幅のいい男で貧相な私とは、ただの着物でも似合いの差が出るほどです。
 それからずっと、私はほど大きい宴会場のすみで、ちびちびと士郎の旦那の熱燗を頂いていました。
 その間も寒さはどんどん増す一方です。酒で暖まろうと、私と士郎の旦那、宴会場の酒はどんどん進んでいきました。

 ほろ酔ってきた頃でしたでしょうか。中庭の回廊を歩く足音がしました。室内なのに、下駄で歩くような足音が遠くから聞こえます。
 ゆっくり、ゆっくり。カタン、カタン、カタン。
 するとあちこちで襖を開ける音がし始めました。私の横で酒臭い息で士郎の旦那は私に言います。

「襖、開けてくれや」

 すうと襖を開けると中庭には雪が降っているのです。暦は水無月、夏です。私を含め、皆が薄い着物を着ています。
 何事かと焦りを隠せない私は、あわあわと口を開けて感嘆の息をもらす周りとは別に、呆けた有様を曝け出していました。

「何、雪月か? これは運のいい!」
「そうなのですか? いや、今は夏にございます。何ゆえ、かように雪が……」
「そう慌てるな。ほうら、お出ましだ」

 男のさす指の方向には、白地に松の模様のお引きずりを羽織り、黒髪を簪ひとつで結い上げている女が歩いていました。下駄の音の主でした。
 中庭の真ん中の舞台へ向かって歩いているようで、中庭を囲むようにしてある私たちの部屋の前の回廊をゆっくりと時間をかけてカタン、カタンと一周していました。
 下駄の音が鳴る度に、しゅる、とお引きずりの音が少し遅れて聞こえます。
 その姿を、襖を開け放って皆が静かに注目しておりました。

 何刻過ぎた頃でしょうか。雪は薄く積もっていました。
 女将は熱燗と一緒に「旦那、それではお寒いでしょう。これを」と綿の入った羽織を士郎の旦那や、鼻の先や指先の赤くなった皆に分けており、私もいくらか暖かくなりました。

 雪月と呼ばれた彼女が舞台へ到着すると、舞台にはいつのまにか箏弾きが一人おり、やがて間も無く、箏弾きが強く一弦を弾きました。

 彼女は簪を勢いよく引き抜いて、その長く高級な絹のような黒髪を雪景色の中に舞わせました。その一瞬はまるで、水の中でものを見るように時がゆっくりと流れたように見えました。
 はらりと落ちる髪の中に白い雪と白い肌。わずかに挿された紅と、寒さに悴んだ体の朱はこの世のものとは思えぬ美しさにございました。

 彼女はちりりとなる細かい細工の施された簪を帯に挟み、重いはずのお引きずりをまるで羽衣のように扱って舞を見せました。

「こりゃあ……いったい」
「あそこはうつし世じゃねえのさ。俺たちはここから覗くことしかできねえ。あの中庭には行けねえし、雪月……踊り子と話すこともできねえ」
「は?」
「俺もそう詳しくねえんだが、異能を持つあやかしの踊り子が踊るときに、この中庭にあらわれて異能と踊りを魅せるんだ」
「ではあの舞台はなんでしょう? この世のものではないと言うのなら、私たちは極楽浄土を見ているのでしょうか」
「馬鹿言っちゃあいけねえ。ああは美しいがな、あれは何度も言うがあやかしだ。実際は何かっていやあ、今日の雪月はどっかで恐れられてる雪女の類だ。俺たちの命なんざ吹かずとも飛んでいく」
「そう……なのか」

 雪の中舞う彼女はピクリとも笑うことはありませんでした。伏目がちに半分開いた瞳は、長い簾まつげから垣間見えました。
 それはまるで、底の見えない黒い闇を写したような、夜半に覗き見る井戸のようで、寒さとは異なる身の寒さを感じました。
 私は男の甲斐もなく、商売道具を胸に抱き、惹きつけられるというより、誘われると言う方がいささか正しいでしょうか。そのようにして舞台を見つめておりました。

 彼女は終始白い息を吐きながら一曲踊り終えると、髪を結い直すことはなく、羽織ったお引きずりの上に流しました。彼女の一挙手一投足は今思い出しても、とても美しいものでした。
 やがて回廊を今度は先ほどとは反対周りにカタン、カタンと歩き始めました。
 当然、私たちの前を通ります。私は最初の時とは違って、好奇心から彼女をまじまじ見つめるようなことはできず、未だに商売道具を抱いておりました。
 しかし、彼女は私の前を通り過ぎることなく、ピタリと止まって、動きません。

 おそるおそる彼女を見上げると、切れ長の目が私を見下ろしていました。
 ごくりと唾を飲み込むと、彼女は身を屈めて帯に挟んだかんざしを俺の半幅帯に挿し、柔らかくふっと笑ったのです。
 そして耳打ちをしました。

「琵琶。見つけた」

「雪月の簪を……! こりゃあすごいことだ。よかったじゃないか、これでお前さんも……おい、芸人さんよ。おい、おい! こ、こりゃあ……」


 おっと、思い出話が長うなりました。私は琵琶法師、琵琶弾きにございました。今はこの旅館で踊り子の地方をしております。

 お代? ああ良いのです。良いのですよ。心配されずにおいでください。「神楽笛の旦那」お部屋はこちらにございます。ごゆっくり。私はこれで。

 迷い込んだ雅楽師は、何方でしょうか。
 あなたは何番目にございましょうか。

 異形にみそめられしはどこへやら
 連れていかれしうつし世の魂

 残るは篳篥、笙、和琴、三の鼓、太鼓、鉦鼓。

 おや、貴方まだいらしたのですか? ええ、勿論。私は簪を帯に挿された瞬間にうつし世の者ではなくなりました。
 神楽笛の旦那には内密にお願いしますよ? これから引き抜くのですから。この隠り世に。

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