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好きな人には好きであろう「考察」がわからない

漫画やアニメ、映画や小説、ゲームなどにおいて「考察」を好む方々がいる。
もちろん、私も何かしらの作品を浴びた後に「あれってどういうことだったんだろう」「この人物の心象はどこで影響を受けて、何故この言動を取ったのだろう」みたいな事は考える。

しかし、中には「作者はこう考えてたのでは?」みたいなものをネットで見かけたりする。
作者の頭の仲間で考え始めるのは野暮ってもんでは?
という思いが私の中で常にある。

作中の人物や出来事について所謂余白や行間を考えるのは確かに私も好みだ。好みというか、そうせざるを得ない展開について考えたりする事が多い。
例えば、どうしても展開に無理があった場合、私は私の頭の中で「この展開からこの展開の中でこういう出来事があって、なのでこの展開に繋がっているのでは?」みたいな考えを行い、作品としての整合性を保てるように解釈している。だって折角なら作品を楽しみたいし。

思えば、私は昔からテレビゲームが好きで、特にRPGを好んでいる。
一番好きなハードはスーファミなのだが、昔のRPGほど、演出の都合上戦闘場面が記号化されている。
ドラクエやFFなどの戦闘は、パーティメンバーが横一列に並んで律儀に自分のターンを待ったり敵の攻撃まで待機したりするが、ゲームの戦闘システム上そうなのであって、実際は激しい戦闘が行われている筈だ。
なのでRPGで戦闘をする度に仲間や敵がどういう位置にいてどんな動きをしているか、みたいな状況を脳内で補完しながら楽しんでいた。

そういう癖があるから、例え自分が納得いかない展開を見ても展開が自然に繋がるように脳内で補完して作品を楽しむようにしている。

「考察」ってそういう自身の脳内で完結するから楽しいものであって、自身の知り得ない作者の脳内まで考え出したら作品自体の否定にも繋がるのでは?

要は作品の中で考察を行うのは物語の深みを得る為、自身がよりその世界に浸れる行為だが、メタ的な目線で作者の考えも含めて物語を俯瞰で見始めると神にでもなったつもりか?みたいな気持ちになってしまう。

別にそういう考えや楽しみを持つ方を否定する気はさらさらないが、個人的にはなんだかなぁ、モヤモヤするなぁ、という気持ちが強いという話。


余談。
私はドラクエの中で5が一番好きなのだが、某ユアストーリーを公開初日に観に行った際、中盤の時点で展開に耐えられず劇場を後にしようと考えていた。しかし「これはユアストーリーなのであって5ではないのだから、別物と思って最後まで観てみよう」と自分で自分の機嫌を取りつつ最後まで見終わった後、不思議と嫌な気持ちはせず、なんなら良い映画では?という感想すら湧いてきた。

その後の評判は言わずもがな。そりゃ5好きからしたらブチ切れるよなと思った反面、「とりあえず嫌と思うものでも否定せず、自分が楽しめるように脳内で補完しながら作品を楽しもう」みたいな癖を持っていて良かったな、と我ながら思った。

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