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短編小説『香港国家安全維持法』

昼休み明けは一日の中で一番受電の頻度が落ちる。気が緩み頭の回転も鈍くなる時間帯だ。そんな脇が甘くなる状況でクレーム電話が入った。港区50代男性自営業からのもので、朝来た鑑定士の態度が気に喰わないとのことだった。

品のない言葉がヘッドセットのイヤホンから鼓膜に突き刺さり、脳みそをきしませる。何か言えと言われても、こちらに相槌も打たせないほどキツキツに詰め込んでこられては、言葉の挟みようがない。鑑定士のボサボサ頭のことや、ネクタイの色、ぽっこり腹のしまりのない体型のことなど、これでもかというくらい難癖を付けてくる。でも一番悔しかったのは、長年可愛がってきた利休御用達(本人談)の急須を思いの外安値で評価されたことだろう。そんなとばっちりでもこっちは仕事だから傾聴してログを残す。この怒号と泣き言めいた愚痴はいつまで続くのか。いよいよ脳天がキンキンしてきて、さっき食堂で食べたアジフライを戻しそうになった。

ぼくが勤務する骨董品買取専門店のコールセンターに電話をかけてくる主たちは、妙に落ち着きぶった口調の中高年層がほとんどだが、一人暮らしの男性がワイシャツをクリーニングに出すくらいの頻度でこのような頭に血の上った客が現れる。この50代(おそらく)男性の口吻から放たれ続けるクレームは着地点が一向に定まらず、常に話が行ったり戻ったりする時間泥棒に過ぎなかった。このままではラチがあかないので、ぼくは適当に収束させて現場監督役のSVに後を託そうと周囲を見わたした。けれどそこにはディスクトップパソコンとオペレーターが密集するいつもの白い空間があるだけで、肝心の人の姿は確認できない。とりあえず保留にして上の指示を仰ごうとしたところ、このクレーマーから「香港国家特別維持法についてどう思うんだ」と唐突に切り出された。その瞬間、保留ボタンを押そうとしたぼくの指が自然と止まった。バグったかのようなまさかの話題転換に、ぼくは面食らった。政治関係の話題をぶつけてくる客は一人暮らしの男性が布団のクリーニングを出すくらいの頻度で現れる。ただワイシャツと布団の同時クリーニングに出くわすのははじめてだった。

ここでひとつ告白しておかねばならない。ぼくの中で、ただのクレーマーにしか見えなかった男の像に、特別な色彩が加わった。この人はただ話し相手が欲しいだけかもしれない。日頃のうっぷんをぶつけたいだけかもしれない。ただ彼が唐突に持ちだした異色めいた話題をのせるには、それなりの形状をした器でなければならない。ぼくという人間は、それにちょうどよい器の形をしていた。もっと端的に言えば、嫌いじゃなかった。いや正直に言おう、血が騒ぐほうだ。さっきもアジフライを食べながら、わが国の領土である尖閣諸島海域に武装船を送って無礼を働く中国に対し抗議のツイートをしたところなのだ。

ぼくは相槌を打つ変わりに「香港国家安全維持法のことですね」とやんわり言い間違いを訂正し、先方の話に耳を傾けた。

中国の独裁体制を批判しただけで、罪に問われる。香港や台湾の独立を叫ぶ言動も、許さない。これらを影で支援する行為もご法度だ。中国はチベットやウイグルといった辺境の地域に激しい弾圧を加えているが、これら異民族に対する独立運動の支援や政治的な動きも一切許されず、違反すれば無期懲役ないし終身刑に処せられる。しかもこれは香港人や中国人に限らず、全世界の人間に適用されるということだ。日本人が日本で香港の独立を支援する動きをしても、ツイッターなどで香港民主主義万歳などと書き込んでも、中国に連行されて厳しく罰せられるというのだからあきれ返るしかない。こんな非常識極まりない法律があろうか。一体何を考えているんだ中国は。この横暴に対して日本政府な何をしている。何を黙って知らんぷりしている。「遺憾です」「懸念を表明します」と言うのは何もしていないのと一緒だ。国民の身が危険にさらされるかもしれないのに、民主主義国家として大事にしてきた価値観が破壊される瀬戸際だというのに、この危機感のなさに寒気がする。君たち若い連中が動かないからこの国はいつまでたってもしっかりしないのだ。そのような趣旨のことをまくし立てた。

男性客の激烈な訴えに注意を傾けている間、現場を取り仕切るSVがいつの間にか戻ってきていた。ほっそりと長身型の彼は顎をやや上に向け、威圧を加えるようにぼくたちの仕事ぶりに目を光らせている。特徴的な細長の目はいつにも増して細く切れ上がっているように見えた。この細長の目といい、頬骨の張った四角い顔つきといい、どこかで見覚えがあると思っていたら、中学時代の苦手な社会科の教師に似ていた。どおりでぼくはこのSVに苦手意識があると感じていたのだ。その教師の名前は真と書いてシンと言った。顔つきが中国人に似ていたことから、シンを中国風の名前にもじって「チン先生」とあだ名が付けられた。チン先生は普段の声は小さいが怒ると泰山に穴が開くかと思うくらい大きな声で怒鳴るのだ。ぼくは授業中の居眠りで何度かチン先生の逆鱗に触れた体験がトラウマとなったせいか、細く切れ上がった目つきの人に自然と畏怖の念を感じるようになっていた。もう二十年くらい前の話なのに、その影は気づかないところでぼくの意識を縛っていたのだ。

幸いSVはぼくの席からまだ遠い位置に立って見張っている。ぼくはここで男性客の電話を切り上げたくなかった。彼が持ちだしてきた政治的テーマに対して、とことん議論したい気持ちになっていた。いかに政治の話題に関心があるぼくでも、公私の区別をつけるくらいの社会人的資質は備えている。場違いなことを場違いと思わず感情に任せて口を動かすことはしない。それが、どういうわけかぼくの政治的議論に向かう野心は熱く燃えさかっていた。テーマの中心が言論の自由にあったことも関係したかもしれない。今監視の目を向けているSVが、中国風の相貌をしていたチン先生に似ていることも何かの因縁だろう。この状況に何となく「試されている」ような直感もないではない。ぼくは火中の栗を拾う道を選択した。

「中国の横暴を許せば暗黒社会の到来ですよ。まったくもってけしからんです。もちろん日本人はこんなものに屈してはなりません。今回ばかりは普段中国に対して大人しい新聞テレビも非を鳴らしていますね。日本政府も形式的とはいえ抗議声明を出しています。欧米諸国もたまりかねて反発し、アメリカやイギリスなどは早速対抗措置を取って牽制しています。今世界中が中国の覇権主義に対して異を唱えている動きは歓迎しますが、ちょっとぼくはうーんと考え込んでしまうんですよね。なぜかって? だって、今回がはじめてじゃないんですよ? 中国の傍若無人ぶりは。この国はこれまでも覇権主義むき出しで周辺諸国に圧力をかけ続けてきたわけじゃないですか。チベットやウイグルに対する弾圧なんてひどいもんですよ。もっとひどいのは、世界も日本も中国の行為を見て見ぬふりをしてきたんです。ビジネスが大事だとか日中友好が大事だとか、目先の利益やその場の雰囲気を取り繕うのを優先して。アメリカやヨーロッパだってこれまで中国のお陰で甘い汁が吸えたものだから強く言えなかった。最近中国への批判がエスカレートしてきたのは、目に余るほどこの国が力をつけてきて、自分たちの地位が脅かされるようになったからでしょう。それとコロナのせいでひどい目にあったというのもあります。それって結局自分たちにとって都合が悪くなったから、今さら中国の頭を抑えつけようとしているだけなんですよ。日本なんて、はー、もうこの国は情けない限りなんですが、BBCとかアメリカの新聞とかがチベットウイグル問題を口に出すようになってようやく、歩調を合わせるようにこれらの問題をちょびっとばかり取り上げ始めた。みんな拳を振り上げているから俺も合わせようなんてどこまで自分の意思がないんです? まったく。この赤い大国とどう向き合うかはどこより日本が真剣に考えなくちゃならない問題なんですよ。だって隣国なんですから。台湾とか香港とかチベットウイグルを除いては、目に見える実害を一番被っているのは日本でしょう。尖閣諸島や海洋資源だって狙われているじゃないですか。沖縄の人たちは自分たちの海で漁ができないんですよ。こんな理不尽をどうして許せますか? でもそれだけじゃありません。『反スパイ法』って知っています? これは中国が2014年に成立させた法律です。これが施行されるようになって、日本人が何人も中国当局に逮捕されています。5年間で15人以上にも上る数です。中国はスパイ行為があったと説明していますが、一体どんなことをすれば違反になるのかまったくわからない。すべては中国官憲の意のままです。だからほら、今中国に行ったら危ない、中国を批判していた人間は香港のトランジットに立った瞬間逮捕されるなんてささやかれていますけど、そんな状況はもう何年も前からあったんですよ。日本人がただ知らなかったというだけです。知らないでいるのって、とっても怖いことなんですよ」

ここまでしゃべって、SVとの距離を確認した。彼はまだ遠い位置に立っているが、体をこちらに向けてぼくのほうを見ているような気がした。そろそろ切り上げ時かもしれなかったが、まだ言いたいことが中途半端に残っている。ここで終わらせるのは何だか目に見えない圧力に屈するようでやり切れない。ぼくはペットボトルをそっと口に近づけて、遠くの気配に注意しながら再度口を開いた。

「たとえば『国防総動員法』って知っています? これは端的に言うと“中国共産党が世界中に散らばる中国人を使っていつでもどこでもスパイ行為やテロ活動を行えるようにする法律”です。中国人たちは共産党政権に忠誠を誓い、どこにいても国家のために働くことを義務付けられているんです。中国共産党が右を向けといえば瞬時にそれができるような態勢が整っています。盗聴もやれば企業官公庁の重要情報も盗む。ええ、日本に来ている留学生たちもいざとなれば中国共産党の指令で動くんです。もし歯向かうものなら故郷に置いてきた家族がどうなるか分からないですからね。これって何を意味すると思います? つまり中国は戦時体制なんですよ。どこかといつ戦争になっても有利に展開できるよう準備をしているわけです。戦争のために準備していると堂々と宣言している国から、やれ留学生だの観光客だのを大歓迎しますとか言っているわけですよ日本は? まったくもって正気の沙汰じゃない。まあだからといって中国人を追い出せとか、まったく入れるなとまではぼくも言いませんよ? でもせめて中国という国の実態、その本質を知って、もう少し警戒心を持ちましょう、危機意識を持ちましょうよ、と言いたいわけです。だってそうでしょ? 尖閣諸島だって盗られかねませんよ、いや尖閣どころか沖縄も盗られかねませんよ。このままだと。それでいいんですか日本人、と思うわけです、え……ぼくが捕まるって? 香港や中国に行ったら……香港と犯人引き渡し条約を結んでいる国への旅行もマズいですね。ええ、知っていますよ……怖くないかといえば……だってだからといって口を閉ざすわけには……」

男性客との問答に夢中になるあまり、SVが前方三メートルの位置に立ってこちらを凝視している姿に気づかなかった。彼は明らかにぼくのオペレーションに不信感を持っているような眼差しを向けていた。細長く切れ上がった目の瞳は石のように冷たそうだ。彼は一歩ずつ前へ進みこちらとの距離を縮めてきてた。「実はさっき食堂で思いっきり尖閣諸島の侵略許すなとツイートしてやりますたよ。ええ、当然ですよ」SVが近づくほどに空気が重くなろうとも、ぼくの舌は勝手に回る。「トランジットで、いきなり黒い布袋被せられて連行されてとか……日本にいても安心じゃないですからね。さっきも言ったとおり、どこに中国人のスパイがいるかわからないから……」自分でも明らかに声が震え小さくなっているのがわかった。「だからって黙っていられるもんですか」ぼくの言葉はSVの耳に入っただろう。彼は目を怒らし口を固く引き結んで岩のようないかめしい顔つきになっていた。そのときぼくの脳裏に、黒い布袋を被せられ目の前が真っ暗になるシーンがよぎった。どうしてこんな光景が頭に浮かぶのだろう。それは映画でよくやる演出上の工夫みたいなもので、そのように拘束される姿というのはあまり現実的じゃない気がする。そのときどんな感情になるのかまで考えてみたけど、まあやっぱり怖いんだろうなあ。口が激しくかわいた。とりあえずペットボトルに手を伸ばす。けれどヘッドセットをつかみ取ったSVの腕が邪魔して届かなかった。

揚げ物の匂いが喉元にこみ上げ、むかつきながらも押さえて飲み込んだ。切り離されたヘッドセットのイヤホンから「あんた中国に行ってもそんなこと言えるか」との言葉がかすかに漏れ聞こえた。



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