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戦いに敗れて散った男たちの辞世の句を集めてみた

歴史関係の書物によく現れる、敗軍の将が死に際に詠む「辞世の句」。

戦いの場に出て敗れ、「もう死ぬ」「殺される」こんな場面で一句そらんじようと考える心持ちは、現代人にはなかなか理解できないものかもしれません。

現代人にとって何よりも大切なのは「命」。この考えは「現代」では当たり前です。しかし、これは今だからこそ当たり前と感じるだけで、人間たちが長い年月をかけ、さんざん痛い思いをしながらやっとのことで手に入る発酵物なのかもしれません。

至上の価値感というのは時代によって変わります。その昔、命より重い価値観の時代がありました。昔の人が何にもまして守ろうとしていたものは何なのか。敗者の辞世の句から読み取ってみましょう。

大津皇子(天武天皇の第三皇子)

大津皇子の非業の死は古代史の悲劇として語られます。自身の子である草壁皇子の皇位擁立を目論んだ持統天皇に、謀反の罪を着せられ自決したのでした。

その大津皇子が、磐余(いわれ)の池(香具山の北にあった古代の池沼)の堤で死を賜ったとき、涙を流しながら作ったとされるのが次の歌です。

ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

源頼政(平家打倒を掲げた以仁王の参謀)

源頼政は平治の乱で平清盛に味方し、平家隆盛の世にあって源氏としては唯一勝ち組となれた人です。平清盛の推薦で三位を与えられたことから「源三位(げんさんみ)」と呼ばれました。

そんな源頼政も平家の専横に堪忍袋の緒が切れ、以仁王に平家討伐の令旨を出させて自らも挙兵します。このときすでに齢七十を超えていました。老体に鞭を打って出馬した頼政でしたが、宇治川を挟んでぶつかった平家軍に完敗、宇治の平等院にこもって自刃しました。歌人としてもすぐれていた頼政、次のような辞世の歌を遺しています。

埋れ木の 花咲く事も 無かりしに 身のなるはてぞ 悲しかりける

楠木正行(楠木正成の嫡男)

鎌倉幕府の倒壊が引き金となって起こった南北朝争乱。後醍醐天皇や後村上天皇を頂く南朝方の武将として足利軍と戦ったのが、楠木正成の遺子・正行(まさつら)です。

正行の軍勢寡兵ながらもよく戦い、足利軍をことごとく破る活躍を見せます。しかし、吉野に攻め込んだ高師直・師泰の大軍の前には衆寡敵せず戦いに敗れ、弟の正時とともに自決しました(四条畷の戦い)。次に示すのは、正行が後村上天皇に面会後、死の出陣を覚悟して詠んだ歌。

返らじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞ留むる

清水宗治(毛利家の忠臣)

武士にとって名誉ある死に方の「切腹」。これを芸術の域に高めたとされるのが、毛利家の忠臣であり、備中高松城の城主だった清水宗治です。

毛利攻めの豊臣秀吉の大軍に敗れた宗治は、毛利軍と織田軍の和議の条件として、秀吉に切腹を迫られました。意を決した宗治、城内の小川に浮かぶ小舟に白無垢姿で乗り込み、誓願寺の曲舞を一さし舞った後、静かに短刀の前に端座して腹を切りました。

切腹の前の辞世の句がこちら。

浮世をば 今こそわたれ もののふの 名を高松の 苔に残して

石田三成(豊臣家の忠臣)

関ケ原の戦いで徳川家康に敗れた石田三成は、琵琶湖付近の葦深い筑摩江(つくまえ)出身。典型的な官僚肌の戦国武将として知られ、度重なる戦乱で荒廃した博多を復興させるなど、その行政手腕は高く評価されます。

関ケ原決戦で敗れ京都六条河原で処刑された石田三成の辞世の句として伝えられるのが、こちら。

筑摩江や 葦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

平野国臣(勤皇派の福岡藩士)

平野国臣は佐幕派がひしめく福岡藩にあって早くに勤皇に目覚め、九州や下関、京都で勤皇活動に奔走しました。西郷隆盛が月照と入水自殺を図ったとき、川に飛び込んでふたりを船上に担ぎあげたのがこの平野国臣でした。

中山忠光の天誅組挙兵に参加して生野の代官所を襲撃(生野の変)。しかし総大将の沢宜嘉が不可解な脱走を遂げたことから軍は総崩れとなって敗走。国臣は豊岡藩兵に捕縛され幽囚の身となります。翌年発生した禁門の変に際して在獄の志士とともに斬首されました。

詩人でもあった国臣、絶命の間際にこのような歌を遺しています。

見よや人 あらしの庭の もみじ葉は いづれ一葉も 散らずやはある

吉田松陰(長州の思想家)

激烈な思想と行動で幕末を疾駆した吉田松陰。彼が萩につくった松下村塾から高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一といった尊王攘夷派のスターたちが育っていきました。また新国家建設の中心となった伊藤博文や山縣有朋も門下生です。倒幕維新は吉田松陰の炎のような教育が母胎となったと言っても言い過ぎじゃないでしょう。

吉田松陰は安政の大獄に連座して小伝馬町の牢獄に入れられ、刑死の運命をたどるわけですが、獄中で門下生たちに宛てた遺書ともいうべき『留魂録』を書きました。その巻頭に寄せられた句は松陰辞世の句として今に伝わります。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂

栗林忠道(陸軍大将)

日米戦争最大の激戦地となった硫黄島。硫黄島防衛の指揮官を拝命したのが栗林忠道大将(赴任時は中将)です。

六万の米軍戦力に対し、日本の守備隊は約二万。すでに制空・制海権は敵の手中にあり、補給路も断たれる状況で、上陸前の米軍は硫黄島制圧に五日あればよいとの算段でした。が、予想に反して日本軍の抵抗は激しく、激戦は1ヵ月以上続きました。その勇戦奮闘した姿は、アメリカに「硫黄島」「栗林忠道」の印象を強く焼きつけました。

その栗林兵団長が昭和20年3月17日(16日)、最後の総攻撃を知らせる電報を大本営に送ります。この十日後に硫黄島は陥落。以下は、兵士らとともに壮烈な死を遂げた栗林忠道大将が電報の末文に寄せた辞世の句です。

国のため 重きつとめを 果たし得て 矢弾つきはて 散るぞ悲しき

敗れし者の辞世の句は、「精神の死化粧」

新渡戸稲造は『武士道』の中で、「戦場に赴く武士が立ち上がり、腰の矢立を取り出して歌を詠むことはごく普通のことであった。だから、戦場で鎧兜をはぐと、中から辞世の句が見つかることもまれではなかった」と書いています。

日本の武士が、強くありたいと思う以上に美しくありたいと願ったのは、歌道や茶道に打ち込む姿勢からも伝わります。

「虎は死して皮をとどめ、人は死して名をとどむ」と言いますが、武士たちの死を恐れぬ姿はまさに名をとどめるためだったといえます。名を汚し後世の人々に笑われるのは最大の屈辱であり、死よりも恐ろしいことでした。

最後は決然と潔く、さっぱりとした振る舞いを見せて逝きたい。敗者の辞世の句には、そんな美しい背伸び、精神の死に化粧ともいうべき気高さが見え隠れします。



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