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科目の名称が「歴史」ではなく「物語」だったら

この世に存在するモノ・コトには、何でも「歴史」が紐づいてくる。織田信長やナポレオン、ローマ帝国といったメインストリームなやつじゃなくても、名もない人や会社、パソコンにマウス、その辺のボールペンにだって、何でも。

たとえば、今日は成人の日。成人式は降って沸いたものじゃない。誰かが、どこかで、何かしらの思いをもとに動き、かたちになったというスタート地点がある。これを「由来」ともいうし、「歴史のはじまり」ともいう。

試しに「成人式 由来」と検索すると、こんな情報が出てくる。「1946年に埼玉県蕨市が実施した『青年祭り』が最初の成人式とされる。そこから全国へと広まり、1949年1月15日に『成人の日』が制定され、ほとんどの自治体でこの日に成人式が開催されるようになった」

これだけだと味気ない記号としての歴史に過ぎないが、そこにはもちろん、敗戦に打ちひしがれる日本の若者たちを鼓舞したい思いで立ち上がった有志たちの、その時でないと分からない感情や悲喜交々の人間ドラマがある。

常日頃から歴史好きを公言している私だが、「どうして歴史が好きなんだろう」と立ち止まって考えることもある。そしていろいろ考えてみて、「歴史というより、フツーに物語が好きなんだよな」という結論にたどり着く。

昨年からコロナが猛威を振るい続けている。コロナに関する情報が錯そう乱舞する中、「感染症の歴史」なる情報にも人々の関心は向き始める。ヒトウイルスはホモサピエンスが誕生するはるか以前に生まれた動物ウイルスを由来とし人類が家畜と共存する中でヒトの体に適応するようになった云々、といったアカデミックな知識も、なるほど知れば面白い。が、私が興味を覚えるのはむしろ、その由来を突き止めた学者たちの功績にまつわるドラマのほうだし、また、パンデミック撲滅のため、使命感をもって研究やワクチンの開発に労力を費やした偉人たちの秘話に惹かれたりする。別に大きな話でなくてもいい。市井に生きる人々の中にも固有の物語がある。「ウイルスの歴史に紐づく人間ドラマ」こそ、私が手を伸ばして心に入れておきたいと思う歴史なのだ。

歴史は誰かの物語ー。学校で教えるときも、科目の名称が歴史でなく物語だったら、選択する子どもたちは増えるんじゃないだろうかと夢想したりもする。もちろん、教え方や教科書の中身が一番大事なのは言うまでもないけど、興味のきっかけにはなると思う。

成人式に話を戻す。私にも「成人式の物語」がある。それは、「成人式に出席しなかった」という物語。地元に心を通わせる友達がいなく、高校時代に大きな挫折を味わった私にとって、ふがいない自分を知る人たちにその姿をさらすのは何よりつらかった。できれば回避したかった。一方で、成人を迎え晴れの儀式に出席する息子や孫の姿を家族は目を細めて見てくれている。本当のことは言えなかった。余計な心配をかけるのも嫌だった。あの日会場へ向かいながら実は出席しなかったという話は、後日母にだけ打ち明けた。母は笑って何も言わなかった。スーツを買ってくれた祖母にはもちろん黙っていた。

幼稚だったと我ながら思う。そんな幼稚な心を抱えながら私は私の人生ドラマを生きている。みなさんにはどんな成人式の物語がありますか。まだ未成年の方は、どんな物語にしたいと思いますか。








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