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【短編小説】大日本帝国憲法公布、とあるその日その後

「明治22年2月11日の憲法公布日。私が尋常小学校の五年生のときでした。忘れもしませんよ。あの日は前夜から大雪で、朝目を覚ますと一面の銀世界だったのを覚えています。父は下界を洗う清めの雪だなんて喜んでいました。いや、忘れないというのは雪のことじゃありません。目の前で見た悲惨な死亡事故のことです。国民総出で千古不磨の大典を祝す中、尊い命が犠牲になる痛ましい事故が起きました。場所は丸の内通りから和田倉門にさしかかる小さな橋のたもとで、一人の若い青年が倒れた山車に押しつぶされて圧死したんです。現場は神田明神の本祭礼の山車やら壮麗な行進を見せる儀仗兵やらを見ようと大勢の人がごった返して身動きも取れない状況でしたから、そばでそんな大事故が起きてもろくに気づかず誰もが前へ前へと通り過ぎる。でも私はちゃんと見ました。見たからと言ってどうすることもできず、後ろから押してくる力にただ流されるしかありませんでした。後で聞くところによると、他にも婦人や子ども、警官らが同じように折り重なった群衆や倒れた山車の下敷きになって死亡したとのことです。しかもそれで終わらない、文部大臣森有礼が暴漢に刺し殺される事件の一報まで届いたものだから、清めの雪なんてとんでもない、天が制裁を下したの血の式典じゃないかと。少なくとも私は子ども心にそう思ったりしたものです……」
(三遊亭小遊「私と帝国憲法公布日ー憲法発布30年記念に寄せてー」大正7年2月11日山海新聞)

 

ぐわああ、という声に、お花は目を覚ました。確かにそれは悲鳴のようだった。
お花は布団の上から身を起こすと、肌襦袢の上からフランネルのシャツを羽織り、身なりを整えて階段を下りていく。

泣き叫ぶような声が聞こえる。母の声だ。何か物騒なことでも起きたのか。お花の胸中はざわついた。

今日は明治22年2月11日。政府が十年前から国民に憲法の公布を約束していた日が訪れたということで、東京は街を上げてお祝いの式典が開かれている。兄の俊之もこの日を楽しみにしていて、和田倉門へ入城する山車行列見物に出かけているところだ。もっとも、憲法式典のため勤務する製紙工場が休みで、昼間から自室にこもり午睡していたお花にとって今日の式典など他人事だった。

居間の敷居に立ったお花は、兄の俊之が骸になって横たわっているのを見た。
枕元で母のおみつが獣のような呻き声をもらしている。
兄の遺骸は損傷が激しく、右肩から下腹部にかけての洋服が大きく引き裂かれ、裂け目からつぶれた肉が赤くにじんで飛び出している。右足は膝から下が不自然に折れ曲がり、固まったばかりの赤黒い血が肌からズボンの表面にかけこびりついていた。それでいて死に顔は仏のように穏やかだった。

お花は呆然とし、敷居の上に立ったまま動けなかった。

お祝いの山車の入城を見物しようと和田倉門まで出かけた兄は、群衆の雪崩で倒れた山車の下敷きになって死んだ。

―日本が欧米並みの近代国家になる足がかりを得た。

―これからの日本は、お前のような女子にも政治参加を認める立派な国になるぞ。

―お前はまだ若いからこれからいくらでもやり直しはきくさ。次の相手も、私がちゃんと取り計らってやる。だから、母さんや叔父さんとはなるべく上手くやるんだぞ。

憲法の制定を子どものように無邪気に喜ぶ姿や、嫁ぎ先を離縁されて出戻った自分を慰めてくれたときのことなど、いつも陽気で優しかった兄の像が次々に脳裏に浮かぶ。それでも頬は一向に乾いたままで、流れるものもこみ上げるものも自分の中になかったのがお花には不思議だった。


その日の夜は、俊之の親友や勤め先である中央官庁の関係者、高等学校時代の友人らが訪問して故人を悼んだ。俊之には来月婚儀を上げる予定の恋人がいた。彼女は訪問するなり泣きじゃくりながら俊之の遺体にむしゃぶりついた。白い布で顔を覆われた俊之の周りは嗚咽と慟哭、嘆き、無念や痛恨の情を込めた言葉が絶えず飛び交った。

夜も更け、俊之の周りは母のおみつ、叔父の雄次、妹のお花のみが残った。

お花は先ほどから何時間も兄の遺体にぼんやり視線を落としている。それでもその死の実感はわいてこない。

「信介君には電報を送っておいた。近々帰国する予定だったが、早く帰ってくるかもしれない」

おみつの弟でお花の叔父にあたる原島雄次が言った。おみつは軽くうなずくだけで、打ちしおれている。

おみつは俊之がここに運び込めれたときからずっと枕元から離れようとしない。さんざん畳の上でのたうち回ったせいで品の良い和服は派手に着崩れし、髪はそそけ立ち、顔は真っ青で頬が深く落ちくぼんでいる。生気も水気も抜けて枯れ落ち葉のようだ。

お花は、兄の遺体を見るより、今まで見たこともない弱々しい母の姿を通すほうが、その死を現実として体感できた。

「文部大臣の森有礼が書生らしき男に包丁で刺されたらしい」
原島の言葉を聞くと、おみつは少しだけ驚いた表情になった。

「ここに来る途中の上野で号外が出ていたんだよ。他にも事故死にあった人がいるというから、今日はとんだ災厄の日になったな」

原島はおみつの気を少しでも逸らそうとしてしゃべっているように見えた。おみつのほうはそれ以上その話題に食い入る気はないのか、そんな気力も残されていないのか、白布のほうへ顔を向けうなだれる姿勢に戻った。

「確か、この間法成寺の住職にもらった昆布茶があったな。お花、母さんに温かいお茶を出してやれ」

「……」

「おいお花、聞こえたか」

「え」

「母さんにお茶を出してやれと言ってるんだ」

「……あ、はい」

お花は立ち上がり、台所に向かう。

立ち上がりしな、ちらっと母のほうに視線を移す。

険しい目でこちらを睨んでいる。

お花は、ぞっとした。

―母は、大事な跡取りの兄に死なれ、かわいくもない娘の私が残って恨めしく思っているに違いない。

母のこちらへ向ける感情を察すると、台所のほうへ向かう足取りも重くなる。

お花は母の隣に座り、「母さん、これ飲んで」とお茶を注いだ湯飲みを差し出す。

「……」

母は相変わらず、石のように動かない。

「何か口に入れたほうがいいよ」

「……いりません。頼むからあっちに行ってくれ」

母に険の立つ言葉をぶつけられ、お花は思わず見返した。

「俊之の大事なお客さんが来てもぼーと突っ立ったままで何してる。まったく使えやしないんだから」

俯いていたお花はおみつのほうに鋭い一瞥をくれる。

「なんですか、その目つきは」

「……」

「なんで、なんで……」

「なんでお前が生きて俊之が死ななきゃいけないのかって?」

お花の口は震えていた。

おみつは目を吊り上げ、お花が持っていた湯飲みを払い落とした。
畳には大きな黒い影のような跡が広がる。

「出て行きなさい」

おみつの肩は上下に大きく震えている。傍によった原島の手を払いのけ、「お前の顔など見たくもない。今すぐどこへでも行ってちょうだい」と金切り声で叫んだ。

「まあ、この家のためになるか」

お花は無表情でそう言い放つと、立ち上がり、おみつに背を向けて表口の引き戸に向かった。

五間おきに等間隔で設置されたガス灯が、薄闇に点々とした光を投じている。

「お嬢さん」

お花が振り向くと、黒の二重回しを羽織った青年が闇を背負って立っている。

お花をお嬢さんと呼ぶこの男は、以前香田家に武家奉公していた矢島信介だった。

「お嬢さん、お兄さんが……俊之くんが……無念です」

信介は嗚咽を必死にこらえながら言葉を絞り出した。

「……私はもうお嬢さんでも何でもないから」

「え?」

「……帰ってきてたんだね、ぼんちゃん」

「……実は先月に英国を立ち、本日の夜に戻ってまいりました。急の帰国だったので手紙を出す暇もなくお伝えしなかったのですが」

「いいから、早く兄さんに会ってあげて。中にいるのは母と叔父だけだから」

そう言うとお花は信介に背を向け歩き出した。

「どこに行くんです、こんな夜更けに」

「……ちょっと、夜風にあたってくる……」

お花は白い息を後ろにたなびかせ、頼りないガス灯の光を踏みながら、闇の向こうに消えていった。


お花が勤務する製紙工場は北豊島郡の農地が広がる石神井川沿いに建っていた。製紙工場の南側には石塀に囲まれた木造家屋の貸家群があり、お花は一棟を借りて住むことになった。

お花に金はなかった。元旗本三千石の実家といえ、飛び出した手前金銭の協力は頼めない。製紙工場にも最近勤めだしたばかりで手元の資金も貯まるほどではない。お花は大家に対し、窮状を理由に賃料の後払いを懇願した。そんな規則はないと大家は断るも、そこをなんとかとお花は頭を下げる。他の借人の手前あなただけを別格扱いするわけにはいかない、しかしどうしても言うなら考えないこともない、何かこっちに旨味のある話があればといいながら、大家は手にした煙管をお花の肩から胸、腰にかけて流す。うぶじゃないお花は大家のいわんとすることをくみ取り、その場でモンペの腰紐を緩めた。

「勘定奉行も務めた大身の旗本のお嬢さんだ。事情は知らないが、特別に三月ツケにしてやろう」

 大家が、お花のような女性がなぜ貸家住みを希望するのか、埃と汗にまみれる工場勤めに甘んじるのか奇妙に思うのも無理はない。大家のような町人出身のなり上がり者にとってお花の出自は、世が世なら恐れ多くて口も聞けない高貴な身分なのだ。

お花は1861年、旧幕時代の元号を用いるなら文久元年に旗本三千石の香田家の長女として生まれた。三年前に亡くなった父信武は幕臣として安房代官、勘定吟味役、勘定奉行を歴任。維新後は大蔵省主計局総務掛に勤務した。母の出身は禄高1000石の徒士頭で、天草の乱平定に功を挙げた原島三蔵を祖先に持つ。そんな申し分ない武家の血筋を引いたお花には物心ついたころから身の回りの世話をする下女やお付きの世話役がいて、「お嬢様、お嬢様」とそれこそ花を愛でるように大事に育てられた。

何でも高い場所から見下ろせる生活は、明治の御一新で様変わりした。お花がぶら下がっていた武家の身分は消滅し、これまで自分を見上げていた者たちが立つ場所にまで下りていかなければならなくなった。まだ分別がつくかつかぬかの7歳のときの出来事である。

そこから日本は新しい法律ができて社会制度も大きく変わった。建物のつくりも人々の服装も洋式のものに取って代えられ、食事や商売の方法なども新しくなった。社会の装いが変貌する中で、人々の意識も変えていく必要があった。その打撃をもっとも強く受けたのが最上位の階級にあった武家である。長年にわたって染みついた特権意識を外して生きていくのは容易ではない。その点、兄俊之の順応は早かった。文明国として身分制度の解体はもちろん不可欠で、議会制度の導入も急がなければならないとする自由民権思想もいち早く取り入れていた。これには叔父原島の思想的な影響もある。原島は幕末に平田篤胤流の国学を学び、勤皇活動に奔走した。近くにいた俊之はこれに感化を受けて近代思想の土壌をつくった。

お花は幼少期に母おみつによる武家の子女教育をみっちり受けて育った。そこでは身分意識や忠孝の精神もたたき込まれた。師匠について稽古した三味線、生け花、茶の湯、音曲、舞踊などはすべて嫁ぎ先で家業をそつなくこなすために教わったものである。封建時代の武家の子女は、夫を支える婦人として恥ずかしくないような振る舞いをすることが生き方のすべてといってよかった。維新の変革を経てこの精神に変更が加えられたかといえば、何も変わらない。学校教育など制度的なものの変更があったくらいで、女性は夫を支え、子を産み育てるために存在するという従来の価値観は残された。あれほど因循姑息を忌み嫌いながら、不思議と子女教育の現場にそのかけ声が持ち込まれることはなかったのである。

お花にその事実を完膚なきまでに教え込ませたのが、嫁ぎ先で受けた仕打ちと、出戻った自分への母の態度だった。お花は24の年に結婚した。今から4年前の明治18年のことだ。相手は財閥傘下国立銀行の融資管理局長で、誰もが成り上がりを目指す世の中において成功の勲章を手にした実業人といってよい。そんな世の女性がうらやむ家におさまりながら、お花の結婚生活は三年と続かなかった。芸者通いに狂い、愛妾を四人も囲い込む夫の放蕩に我慢ならなくなったのだ。お花が放蕩三昧の夫に苦情を申し入れると、外で稼ぐ夫の夜遊びも我慢できない妻など要らぬと一方的に離縁状を叩きつけられた。お花はそこで頭を下げるどころか憤懣のたけを相手にぶつけてしまい、嫁ぎ先を追い出される仕儀になったのだった。

惨めにも離縁され、実家に救いを求めるように戻ったお花に対し、母は冷たい態度で応えた。

「武家の娘ともあろうものが、添い遂げなくてどうする。香田家の家名を汚すんじゃないよ。一度嫁いだ先に骨を埋める覚悟がなきゃだめじゃないか」

人様の家に嫁いだ娘が、夫の女遊びくらい辛抱できなくてどうする、そんなふうにお前を育てたつもりはない、と突き放されてしまった。武家の娘が嫁ぎ先で離縁されて家に戻るなどという事態はおみつからすれば考えられないことで、相手の男がどんなに非道な振る舞いをしても関係ない。離縁されて家名を汚す以上の悪はないのである。香田家の家名を背負って嫁ぎ、そこで離縁騒動を起こせばお花だけの問題じゃなく、不名誉は香田家全体に及ぶ。お花のせいで香田家の家名は地に落ちる。そう母は主張したのだった。

母とは対照的にお花を擁護する側に回ったのが兄の俊之である。俊之はお花と一つしか違わず、謹厳実直で思いやりが深く、妹思いのところがあった。離縁され戻ってきたお花をかばい、むしろ旧時代的な価値観を振りかざす母を諭したほどだ。

お花にとって兄の親切は素直に喜べるものではなかった。己の惨めさとふがいなさ、この家でのもろくはかない立場を思い知る負の効果として心を痛めつけた。香田家で大事にされている兄と異なり、自分は厄介物扱いされている。母も叔父も、香田家の跡取りである俊之には大きな期待をかけているのがわかる。その反対に娘の自分には目もかけない。兄に優しくされるのは情けなく辛いだけなのだ。

家にいるだけで息が詰まるのを感じたお花は、士族の娘を中心に募集している北豊島の製紙工場に応募し、勤務することになった。その矢先に、あの不慮の事故が起きたのだった。

製紙工場でお花は、他の女工らと一緒に紙の原料になる稲わらの仕分け作業を任された。窯いっぱいに詰め込まれた藁を一本一本細かく調べ、湿ったものや黒ずみのあるものを取り除いて隣の窯に移していく。綿の白いシャツにモンペという格好で、この単調な作業を朝から夕方まで延々とこなした。

貸家住まいのお花は家付きの他の女工らより金を稼ぐ必要に迫られていた。製紙工場の安賃金だけではしのげない。元旗本の家柄であっても給与は他の女工たちと同列なのだ。

ある日の作業終わり、分厚い唇をした野暮ったい職工に、茶屋で酒を一杯どうかと誘われた。旧幕時代は醤油問屋の番頭をやっていたという男である。お花はこの男の本意がどこにあるか見抜いたうえで承諾した。彼もまた貸家溜まりの一角に居住していて、以前からちょくちょく誘いをかけてきていた。帰り、男はお花の貸家に上がり込んできた。計算ずくのお花は荒ぶる男の手を払いのけ、金銭授受を条件に出した。すでに大家に身を任せた経験がある。お花にとって一人も二人も同じであった。

高級旗本出身のお花の存在は、以前に卑賤だった身分の者の多い工場内では高嶺の花そのものだった。時代が時代なら口も聞けない相手が自分たちと同じ条件と環境で労働し、しかも、金銭の条件さえ合えば欲望を満たしてくれる。お花の貸家にはなけなしの紙幣を懐に訪れる職工たちがちらほら出入りするようになった。その出入りした男が別の職工に伝えると、さらに客は増えた。

相手は勘定奉行まで勤めた大身旗本の娘。しかも器量は並みの娘以上ときている。町人上がりや百姓出の職工たちにとって、とうてい手の届かない代物をこの手で抱ける喜びはひとかたならぬものがあった。

お花からすれば、卑賤な男たちの喜びようはおもしろかった。おそらく、遊女や平民の娘を抱くのとは違った興奮と感動があるのだろう。お花は気分がよかった。自分に代わってこの男たちが憎らしい香田家を貶めてくれていると思うとせいせいしたのである。母に対する復讐にもなった。 

ある日、お花の客の男が貸家の戸口から出るところへ、二重廻しに袴姿の信介が現れた。

「さすが旗本のお嬢さんだ、こんな開花先生も抱え込んでたとはおそれいる」

すれ違う男の皮肉をよそに、信介は戸口から屋内に目を向けた。

お花が慌てふためいて乱れた服を整えている。
信介は、愕然となった。

「……ここにいるとの噂を聞いてきたのですが……いったい、あの男は何です?」

信介は中には入らず、戸口のところで立ったまま聞いた。

「……」

「お嬢さん、いったい、あなたは何を……」

お花のはだけた格好を見て、信介の顔は急激にこわばった。恥ずかしさと怒りと屈辱を押し隠すようにうつむき、暴れ出す憤悶を寸手のところで抑えているかのようだ。

「私は香田家の恥さらしだよ。今さら何をしようと割引くものもないし、驚くこともない」

お花は布団の上に尻餅をついた状態で、戸口に突っ立つ信介に冷めた目線を送る。

しばらくお花から目を逸らし、よそ見をしていた信介は、ゆっくり体を傾けお花と向かい合った。

「そう自分を貶めてどうするのですか。そんなことではいけません」

信介の強い口調に、お花はややたじろぐも、しらけた笑みを浮かべて「あら、私生まれてはじめてぼんちゃんに上から物を言われたわ」と言った。

「……私に、上から物を言わせるようなことを、あなたはしたのです」
信介の両拳は固く握りしめられている。

「ぼんちゃん何しにきたのよ。まさか叔父さんに言われて連れ戻しにきたとか?私はもう帰らないよ。だってそのほうがあの家のためなんだし」

「そうじゃありません……兄さんから、聞いていないのですか?」

「何を?」

「本当に聞いていないのか」

信介は天を仰いだ。

「私は、俊之君と手紙上で話し合って決めたのです。私は、あなたのことを……」

お花は怪訝な表情になる。

「花さん、私と一緒になってください」

「……そんな、そんな話、聞いちゃいないわよ」

「もしかしたら、その話をする前にあの事故があって……」

「……そんなの勝手だわ」

お花は首を振った。

「お花さん、どうして私に相談しなかったんです。お母様とぶつかって行き所がないのなら、私に言ってくれれば」

「調子に乗ってんじゃないよ。あんたなんかに頼まなくても私一人でどうにかしていけるわよ」

「どうにかって、できないからあんな男にぶらさがってるんでしょう」

「うるさいわねえ、疲れてるんだから帰ってちょうだい」

お花は布団の上に寝そべり、信介に背中を見せる。

「お花さん、私は俊之君に約束したんです。あなたの面倒を見ると」

「面倒?ふん、偉くなったもんだね足軽の子が」

「なんですって」

信介の顔色が変わった。

「だってそうじゃないか。私をもらうだの面倒みるだの、誰が本気にするっていうのよ。兄と香田家に対する忠義のつもりでしょ、ははは、もう忘れなよ、香田家への恩を私に返すことはない。もうそんな忠義だのご恩だの、一銭にもならない時代なんだから」

「私は決してそんな……そんなつもりで言っているのでは……」

「じゃあなんだい、私の体が目当てかい? いいよ、月20円で妾になってやるよ」

「ばかな、いくらあなたでも、そんな侮辱は許さない」

信介の顔は火のように赤くなっている。

「悪い話じゃないでしょ、小さいときからお嬢様お嬢様とかしずいてきた高嶺の娘を抱けるんだよ。ほら、その顔に今すぐ抱きたいって書いてるじゃないか」

「……あなたはどうかしている。お兄さんが亡くなってまだ立ち直っていないのだろう。今はお互い正気ではないから、また日を改めて来ます」

信介はそう言うと背中を見せて立ち去った。

お花は信介が去った方角からしばらく目を離させず、じっと見つめていた。

「ぼんちゃん、あんた、馬鹿だよ、どうしてこんなどぶに墜ちた猫なんかを」

誰もいない部屋でお花はつぶやいた。物心つくころにはいつも傍にいて、身の回りの世話をしていた信介のことを名前で呼んだことは一度もない。兄がいつも信介のことを「信坊」と呼んでいて、幼かった頃のお花はその下の文字をとって「ぼうちゃん」と呼んだが、それがなまっていつしか「ぼんちゃん」と呼ぶようになっていた。

矢島信介は兄俊之と同年生まれだった。お花より一つ上で、今年29になる。足軽の家に生まれ、5歳のとき香田家に武家奉公に入り、小姓として俊之やお花の身の回りの世話役を務めた。足軽だった父は彰義隊士として上野戦争に参戦し、華々しく散った。母はその前年に病で没していた。

明治の世に移り変わり、信介の香田家での武家奉公も終わった。が、香田家当主信武に真面目な性格と賢さを愛された信介は、そのまま香田家の一員として育てられた。香田家の同年代の兄妹とも一つ屋根の下で仲良く暮らし、こと俊之との関係は家格の違いを超え、竹馬の友としての交際を許された。経済的なゆとりある家のみ許された義務教育も香田家の支援で受け、卒業後の英国留学の面倒まで見てもらった。帰国後は留学中に知り合った旧幕臣の紹介を受け東京市小石川区土木局に勤務している。士族出身でも容易にありつけない官吏になったのは信介自身の努力と勤勉な性格があったからだが、香田家の支援を受けられたことも大きかった。

かつて小姓として自分に服従した信介が、多くの者の羨望の的である官途についている。地道に地歩を固める信介の行路のまぶしさは、お花自身のふがいない立場をあぶり出す光熱になった。その後何度も信介の訪問を受けたが、最初のときと同様、悪態をついて追い出すことを繰り返し、信介の親切を拒否し続けた。お花は信介に冷たくあたることで屈辱的な心情を覆い隠そうとした。

信介の心配をよそに、お花の生活は持ち直すどころかどんどん崩れるほうへ傾いた。貸家への男の出入りはやんだが、その代わり製紙工場と取引する近藤稲わらの社長に囲われることになった。近藤から月15円で愛妾になることを申し込まれたお花は、二つ返事で承諾した。

お花の私生活がどんなに乱れても、信介は様子をうかがうための訪問をやめなかった。

「花さん、これ覚えていますか」

いつものように姿を見せた信介は、竹の木で編まれた一尺ほどの人形を差し出した。

「何それ、拾いもの?」

「ひどいなあ花さん、覚えていないんですか。まだ私が武家奉公をはじめたばかりの頃、花さんにあげた菊人形ですよ」

お花は難しい顔つきになって、古くて茶色っぽくくすんだ竹細工をじっと見つめた。

「花さんこんな物要らないといって突き返したものだから、仕方なく私が持っていたんです」

「そんなもの、今まで大事に持っていたの、あきれた」

お花は信介と人形から顔をそむけた。

「だいいち、菊人形と言いながら菊の飾り付けがないよ」

「当たり前ですよ、当時の菊の花が残っているわけないじゃないですか」

「だったら菊の花が咲いたときに持ってこないと。こんな不細工な竹細工見せられてもねえ、そんな気がきかないでよく東京の官吏さんが務まるもんだね」

「わかりました。それでは今年の菊見の時分になったら、団子坂に菊人形見物に行きましょう。約束ですよ。もちろんこの人形もそのとき完成させますね」

あきれるお花をよそに、信介は明るく笑っている。

信介にいくら親切にされても、その行動の源泉は香田家への忠義と俊之への友情であり、決して自分への愛情ではないというお花の見立ては変わらなかった。
一瞬だけ、もしかしたらあの人は本当に自分のことが好きで足繁く通っているのかと思いもしたが、すぐに打ち消した。

「そんなわけない。お互いいい大人になって、しかもこっちはこんな無様な生き恥さらしてるんだ。好きなんて感情とっくに冷めてるだろう」

お花は、香田家に居候していたときの信介が自分に好意を抱いていたことを思い出していた。

信介の好意は幼い頃より感じられ、年齢を重ねるにつれ確信に変わった。信介の感情について家族の中で話すことはなかったが、おそらく兄はこのことを知っていたのだろう。ただいくら身分制度のない新しい社会に変わったとはいえ、三千石の旗本の家の娘が足軽の息子に嫁ぐなどという発想は生まれ得なかった。やがてお花の婚儀が決まると、信介は突然洋行したいと言い出した。「自分は甘えすぎている。世界に出て大きくなって帰ってきます」そう父に嘆願したときの信介の必死な様子をお花は今でもよく覚えている。

旗本の家に生まれたお嬢様が、モンペをはいて女工になっている評判は近所中に知れ渡っている。そのうえ耳を疑うような素行の悪さを振りまくものだから、悪評は香田家にも響いていた。お花が貸家住まいをはじめて二か月ほど後、叔父の雄次が鬼の形相をして怒鳴り込んできた。

「女郎のような前をして、一体何を考えているんだ。母さんが今大変なことになっているんだぞ」

叔父の口から聞かされた母の近況は思いもよらないものだった。息子と娘をめぐる立て続けの不幸に遭った母は、迷走のあまり得体のしれない怪しい民間宗教にはまってしまったというのである。

母はうち続く忌まわしい出来事に家運の凶兆を疑い、民間宗教や古呪術の類いを頼り始めたという。おみつが運勢や家相を見てもらったのは山伏や巫女、陰陽師崩れなどで、彼らの中には家屋の西の柱に取り憑いた霊が悪さをしていて、除霊が必要といって100円を要求した者がある。藁にもすがりたいおみつは、財産を取り崩して除霊をお願いした。自分が必死に止めても言うことを聞かなかったと雄次は泣きそうな顔でお花に説明した。

直接的な言葉はないが、雄次は母がこうなったのは明らかに不行跡を重ねるお花のせいと言いたげな調子を含んでいた。

雄次はこれは母の言付けであると断ったうえで、お花に絶縁を言い渡した。

お花は、顔色一つ変えず叔父の宣告を黙って受け止めた。

香田家のくびきから解放されたからといって、お花の素行がおさまるということはなく、むしろ開き直り、ますます目に余るようになった。工場では、お花が近藤と仲睦まじく会話する姿が目撃され、その振る舞いは大胆になっていた。工場長から呼び出され、少しは謹んでほしいと小言を言われることも一度や二度ではなかった。

石神井川の土手や農道の道端が花盛りの夏草に匂う時期になった。お花が住む貸家の居住環境は劣悪で、開け放した窓から蚊が容赦なく入ってくる。ここにはすだれや蚊帳といった気の利いたものは何一つない。ただそんなことは慣れてくるとどうでもよく、今はこうして窓近くのもたれかかれる柱と、足を投げ出せる古びた畳があるだけでよかった。窓から運ばれる風は湿り気と砂粒を帯びてはいるが、汗ばむ頬や首筋にかかるときは気持ちがよい。

開け放した窓から、信介が顔を覗かせた。

「俊之君のお墓ができました。花さん、一緒にお墓参りをしましょう」

信介の表情は相変わらず屈託がない。

「私は香田家を絶縁された人間だよ。どんな顔してお参りすればいいのよ」

お花のあきれ顔にも、信介の明るい表情は崩れない。

「そんなことは気にしなくていいんです。俊之君もきっと花さんが来るのを待っています」

信介の態度には自分を引っ張ろうとする意図が見える。香田家に居候していた頃とは見違えるほど堂々としていた。信介が大きくなったのか、簡単に引っ張られる自分が小さくなったのか。どちらにしても落ち着けない気分がお花にとってもどかしい。

二人は人力車に乗り、俊之が眠る北豊島区の国立墓地に向かった。

墓地は百坪ほどの広さで、区割りにそって五十基ほどの墓が整然と林立している。敷地の中央には大きな松の木があり、まっすぐ天に向かって伸びる姿は昇天する魂を鎮魂する慰霊塔のようにも見えた。

俊之の墓は、北東の隅の隣接地の茂った籔を背にして建っていた。

三尺はある大きな御影石の墓石には雄渾な書体で「香田俊之之墓」と彫られている。

お花はここに来る途中買ってきたお菓子や花を添え、信介と並び静かに手を合わせた。

兄が不慮の事故で亡くなったあの日の晩、母と言い争いになり、我を忘れて家を出た。今思えば兄の死を悲しむことも、悼むこともしっかりできていなかった。それどころか、今でも兄が死んだという実感は乏しい。兄もまた、隣の信介のように明るく、物事を何でも前向きに考える調子の高い人だったことを今さらのように思い出した。

もし兄が生きていたら、母とも何とか折り合いをつけて香田家に踏みとどまっていれたかもしれない。母と自分との間に立ってくれた兄が死んだことで、香田家における自分も死んだという実感がお花の中にある。

「花さん、東京時事の記事、読みましたか」

「新聞記事ですか、読みませんよ」

突然何を聞くのかといった様子でお花は信介の顔を見る。

「……そうですか、じゃあまだご存じないのですね。あの日、俊之君がなぜ、事故に遭って死ななければならなかったのか、その経緯を」

お花は驚いた顔になった。大日本帝国憲法公布の式典に出かけた兄は、群衆が殺到する和田倉門前で倒れた山車に押しつぶされて亡くなった。事故で亡くなったとの説明だったが、詳細については聞かされていない。単に倒れた山車の下敷きになって圧死した程度に捉えていたが、この説明だけでは足りない何かが隠されているとでもいうのか。

「……あの日、俊之君が倒れかかった山車に押しつぶされたのは、女の子を助けるためだったんです」

信介は沈鬱な表情で語り出した。

「俊之君は傾いて倒れそうになった山車の傍に少女がいたことに気づいたのでしょう、すかさずその間に飛び込み、身を挺して少女を山車から遠ざけた。けれど自分が下敷きになるのは避けられなかった。彼は我が身を犠牲に少女の命を守ったのです」

信介は俊之の墓石をまっすぐ見つめている。

お花はただ呆然となった。

「事故当時は人が多く騒然としていたこともあり、詳細について誰が知っているか確認がとれず、しっかりとした調査も難しかったそうです。つい最近、現場近くにいた目撃者に新聞記者がたまたま話を聞く機会を得て、詳細がわかったということです。その記者が取材を重ねるうちに少女のところにたどり着いて、話を聞くと証言者の話とつじつまがあい、俊之君が少女のために命を投げ出したのは事実ということが判明したわけです」

少女を救うために犠牲となった兄の事故の真相を聞いて、お花は悲しみより、胸のあたりがうずくのを覚えた。

お花の頬から、涙が流れた。当日に流れなかった涙が、なぜかこのとき流れ出した。

「……立派だねえ、兄さん、本当あなたは立派だよ」

お花は泣きながら、目の前の墓石に語りかける。

「兄さんみたいな立派な人が死んで、私みたいな醜い人間が生き残るなんて、この国もおしまいだね」

「花さん、そんなことを言うもんじゃない」

信介は強い口調で言った。

お花はキッと信介を睨み返し、「偉そうに言うんじゃないよ」と言い返した。

「兄さんは美しくて立派で……本当に惜しい人を亡くした。耶蘇教の神様もあったもんじゃないね。こんなむごい仕打ち、いい人の兄さんがどうして死ななきゃいけないんのよ、どうしてこんなみじめでふがいない私が生き残っているのよ、ぼんちゃん、お前もそう思うだろう?」

「花さん……いい加減にしなさい」

「いいじゃないか、兄さんは優しい人だったからどうせ怒っちゃいないよ。ねえ、言っていいんだよ正直に。どうせあんたも心の中では私を侮辱しているんだろ、わかっているよ」

「何を言うんですか」

「いいんだよ、あんたは自分で自分のことわかっていないんだ。わざわざお墓にまで連れてきて、私の前で兄さんの美談なんか持ち出しちゃってさ、それで私が感激するとでも思ったの? 感動して涙流すと思ったの? 確かに泣いてるよ、でもこれはそんなきれいな涙じゃないよ、悔しいんだよ、兄さんがどこまでも立派で、私がどこまでも醜く生きる価値もないみたいに言われているみたいで」

「バカな……どうしてそんなふうに受け取るんですか」

「さあね、ばかだからじゃないの」

「お花さん……誤解を招いたのなら申し訳ない。ただ私は決してそんなつもりで言ったんじゃないんです。俊之君がなぜ死ななければならなかったのか、その当時の状況をお花さん、妹であるあなたも知るべきでだと思ってお伝えしたまでです」

「こんなばかな人間のために余計なお世話だよ。あなたも兄さんも本当に徳が高いねえ。私とは釣り合わないよ。それにしてもあなたみたいな立派な人を宛がおうとした兄さんはばかだね」

「お花さん、本当にやめなさい」

「いや、ばかじゃない、間抜けだね。人のために死んじゃってさ」

「な……なんてことを」

信介の顔色が変わった。

「それ以上言うな、俊之君の侮辱は許さない」

「お、いい調子だね、その勢いで今度は私を押し倒すかい?兄さんに対していい供養になるよ」

「……あなたという人は……もういい、さすがの私もあきれた。勝手にするがいい」

信介はそう吐き捨てると、足早にその場から姿を消した。

日が傾き、西の空は朱色に染まりかかっている。

墓石から顔をそむけてたたずむお花の影が、墓の出口へ向かうように伸びている。

 

兄の事故死の背景にあった事実を聞かされたお花は、胸の奥に抱えるヒリヒリとした痛みの感情がなぜ渦巻くのかわからなかった。そんな自分を持て余し、ますます自己嫌悪に陥った。
少女を救うために我が身を犠牲にした兄。美しい死に方をして新聞記事に取り上げられ、世間から称賛を浴びる兄。偉大な兄とは対照的に、嫁ぎ先を離縁されて名のある家に泥を塗った挙げ句絶縁され、体を元手に男の財力で糊口をしのぐ自分という存在は、いかに醜く惨めな姿と映ることだろう。兄の幻影から放たれる光があまりにも大きいゆえに、己の姿の翳が深くなることをお花は痛感しなければならなかった。

人として女として、理性も品位も誇りもかなぐり捨てた堕落人間と思うからこそ、信介のような優しい人物の情愛が苦痛に感じられた。悪魔や吸血鬼といった類いの化け物が光を嫌うような居心地の悪さを感じるのである。汚れきった底辺に引きこもるほうが落ち着いて呼吸ができる。

信介は、あの一件以来、すっかり姿を見せなくなった。目に痛いほどまぶしい光が遠ざかり、お花はあるべきはずのないものに侵されない場の安堵を得たような気がした。信介の愛情はやはり自分に不適合らしい。器の大きさ以上のものを無理に入れようとすれば壊れるように、信介の愛情を受け止めれば自分の心が張り裂けそうな怖さがお花にはあった。
お花はそんなふうに信介の隔絶を良いほうへ理解しようと思っても、戸口を叩く音を聞けばまっさきに信介の顔を思い浮かべるのだった。
戸を開けて顔を見せたのは信介ではなく大家だった。

「先月の支払いが済んでいませんよ。旦那忘れちゃいませんか?」
「そうですか……おかしいですね、先日会ったときは清算を済ませると言っていたのですが」

不満げな大家にお花は戸惑いながらそう答えた。
近藤稲わら社長との愛妾関係は続いていたが、面倒を見る方法が月15円の金銭支払いから家賃の支払いに変わっていた。家賃はお花を囲っている近藤が支払うことを大家も承知済みであった。

「今度あの人に会ったとき伝えておきます」
工場出勤したお花は早速近藤に詰め寄った。
「先月の家賃の支払いがまだだって大家さんが言ってるけど」
「わかってるさ。こっちにはこっちの都合があるんだ。逃げも隠れもしないと言っておけ」

近藤はぞんざいに言い放つと、お花に背を向けて別の女工たちのいる場所へ移動した。

女工たちは、お花の姿を見て何やらささやき合い、中には含み笑いを向ける者もいる。
お花は不快になり、近藤や女工たちに背を向けてその場を離れた。

ここ最近、女工たちの陰口が聞こえるようで工場内の居心地は悪かった。気まずさに耐えられず、途中で抜け出し勝手に一服しては憂さを晴らすのが日課になった。不遜な勤務態度は当然のごとく上層部の悪評を招く。お花は己の立場を自ら悪くする悪循環にはまっていた。

周りから向けられる白い目にへそを曲げて抵抗するお花を外に出したほうがよいと思ったか、工場長が役所への使いを命じてきた。この製紙工場は来年西側の隣接地に増設を予定し、工事にあたり管轄区役所に提出する計画書に必要な関係資料を取り寄せに来いとの通達を受けていた。その資料の取り寄せにお花が指名されたのだった。

お花が管轄の部局である小石川区役所土木局に足を運ぶと、木製の長机で設けられた窓口には信介が相談に来る人の対応にあたっていた。

信介の姿を認めたお花は、一瞬立ちすくんだ。背中を向けて離れたい気持ちを抑え、順番を待つ。待っている間何度も下を向いて顔を隠した。
前の人の対応が終わり、お花に順番が回ってきた。
信介が一瞥して「どうぞ」と言った。無表情で、すぐに確認中の書類に視線を落とす。

信介の態度に、自分の存在を無視されたように感じたお花は、言い知れぬ恥と怒りの衝動を覚えた。

「北豊島の製紙工場から来ました。来年の増設工事について、ここで土地の資料を取り寄せるように言われて来たのですが」

お花の声は震えていた。

「それは隣の窓口ですね。右手の角を曲がってまっすぐお進みください」

あっさりそう答えると、信介は再び書類のほうに視線を移した。

お花は、強烈な羞恥と恥辱がこみ上げてくるのを覚えた。

「あの、建物の中よくわからないので、案内してくれませんか」

お花のこの嘆願に対しても信介は無表情に、「中西君、この女性を4番窓口に案内してくれたまえ」と隣に座る後輩らしき男性に引き継ぐと、自分は席を立ってその場を離れていく。

「……私が案内します。こちらへ……こちらへ……あの、どうかされましたか?」

職員の言葉に一切耳を貸さず、お花はただ呆然と遠ざかる信介の背中を見つめていた。

お花は役所の用を済ますと、体調不良を口実に早退を申し出、貸家に引きこもった。信介の冷淡な態度がいつまでも脳裏にこびりついて離れず、お花の心をかき乱した。

お花は怒りにまかせて煙草盆を壁に投げつける。鉄の部分が砕けてかけらが飛び散った。

信介のあの態度はお花にとって侮辱だった。思い出すたび言いようのない怒りがこみ上げてくる。信介のためになぜこうも心を乱されなければならないのか、それを考えるだけでも腹が立った。

苛立ちと虚無感、無力感に襲われているところへ、またも大家が家賃の催促にやってきた。前回の穏やかな態度は消え、今すぐ払えとばかりの強硬さを出してきた。

「わかりましたよ、工場にいるかもしれないので、ちょっと行ってきます」

お花は工場に戻り、近藤が使用する取引先専用の客室に向かった。
そこには若い女工と楽しそうに密談する近藤の姿があった。

近藤の手は女工の腰に回り、女工が何度払いのけても手は同じ場所に伸びる。女工は嫌がるどころか近藤との戯れを楽しんでいるように見える。

「やだ、旗本のお嬢さんに悪いでしょ」
「旗本? あははは、あいつか、言われておおそうだったかと思い出すな」
「でもきれいでしょ、あの人」
「顔がきれいは七難隠すというぞ」
「色が白い、でしょそれは」
「どっちも同じさ。今はもう七難しか見えないな、あれは」

中から浮ついた声がはっきりもれてくる。
お花は、そっと客室の前を離れた。

工場の敷地を出て、貸家のある方向へ歩いていたお花の足が途中で止まった。振り返り、その足は工場のほうへ向けられた。顔は憤怒の色に染まっている。
工場の門に差し掛かると、近藤を載せた人力車が開けた農道を市街方面へ向けて進んでいくのが見えた。
後ろからお花が食らいついていく。
追いついたお花は横っ面から飛びかかると、近藤の体に組み付いた。
「おいお前、何をする、よせ、放さんか……おい、誰か! 誰か!」
お花は抵抗する近藤の馬乗りになり、容赦なく殴りかかる。
「殺してやる、お前なんか、殺してやる」
人力車は右に左に大きく振れ動き、ついに支えられず傾くと車夫ごと転げて横倒しになった。
「こっちはどうなってもいいんだ、ええいちくしょう、殺してやる、殺してやる、そして死んでやるさ」
お花の両拳は近藤の乱れた頭髪に激しく降りかかる。近藤の目蓋の上あたりが切れて、返り血が勢いよく白のシャツに飛び散った。お花は泣いていた。周囲はいつの間にか騒ぎを聞きつけた野次馬たちで取り巻かれている。複数の巡査がかけつけ、お花の体を押さえ込んだところで、なりふり構わない乱打はようやく止まった。

署に連行されたお花は簡単な取り調べを受けただけで釈放を許された。往来で人力車を横転させ、情夫の頭部に裂傷を負わせる騒ぎを起こしたとはいえ、いわゆる痴情のもつれに過ぎない。妻子のある男のほうも大事にしたくない思惑から被害届を見送ったため、穏便な措置になった。

「工場の人が外で待っているそうだ」
取り調べを担当した巡査が言った。外に出てみると、工場関係者らしい人は誰もいない。
待っていたのは信介だった。
「旗本のお嬢様が愛人相手に大立ち回りを演じている話は役所にも届きましてね。まったく噂の足は早いというか、市民の口に戸は立てられませんね」
屈託のない信介の笑顔をお花は久しぶりに見た思いがした。
「役場の名前はさすがに名乗れなかったので、工場の上役ということにさせてもらいました。まあ、彼らからすればどっちでもいいことでしょう」
「あなたが来ても、私に行くところなんかありませんよ」
お花が伏し目がちにそう言うと、「ありますよ。菊見に行く約束、忘れたんですか」と、信介の明るい声が戻ってきた。
「荒川の土手でも歩きますか。あのへんに行けば菊どころかいろんな草花が見頃ですよ」

 

信介とお花は川伝いに連綿と草花が生い茂る荒川の土手にやってきた。向こう側にはまばゆい光を散らす川面が波を立てず眠ったように静謐をたたえている。本流との合流地点に近い船着き場では2,3人の人夫が接岸した運搬船を取り巻き、荷物の積み下ろしに忙しく動き回っていた。
信介とお花は土手を下り、風に揺れる草の群生を踏み分けながら川岸に向かって歩いていく。

「菊見って、団子坂の菊人形展のことじゃなかったの」

お花の愚痴に、信介は「人形展をやっている時間じゃありません。ここでいいんですよ」と返すと、懐に手を突っ込み竹人形を取り出した。

「約束通り、ここで菊人形をつくりましょう」

信介は腰を下ろした。
お花も隣に座る。

信介は傍らの菊をちぎり、茎を巻き付け、挟み込みながら花飾りの竹細工に仕立てていく。
手つきはいかにも不器用で、自己流のめちゃくちゃな技法だが、何とか菊の花一枚は取り付けることができた。

「どうせなら、派手な色がいいよ」

「他の花を混ぜるんですか。駄目ですよ、これは菊人形なのだから」

「いいのよ、これ、私がもらうんでしょ? だったら私の好きなようにさせてよ、他の花の部分は私が飾り付けるから」

そう言ってお花は、傍らに咲いていたコスモスの花をちぎり、取り付けていく。

しばらくお花の手つきを眺めていた信介は、自分も傍の赤い萩の花に手を伸ばし、北からの風に注意しながら丁寧な手つきで花を飾る。

「……あの話は、お兄さんのほうからじゃないんですよ」

信介は独り言のようにつぶやいた。お花は手を止めて信介の横顔を見つめる。

「手紙で花さんをもらいたいと私のほうから申し出たんです。俊之君は最初、私の申し出に難色を示しました。お花には大蔵省に勤める学生時代の友人を紹介するつもりでいるから、お前はあきらめてくれ、と」

「……」

「お前には別の女性を紹介してやるから、この話には手を引いてくれとも言われました。それでも私が曲げなかったものだから、とうとうお兄さんも折れて、そこまで言うのなら、帰国したときお花をまじえ3人で話し合おうと言ってくれたんです」

お花には言葉がなかった。それは自分がまったく知らない兄の一面のように聞こえた。

「これは何も俊之君を責めるつもりじゃありませんが、彼も愛する妹の嫁ぎ先のことだから、よくよく真剣に考えなければならないと思ったのでしょう、私と中央で華々しく活躍する官吏を天秤にかければ、当然後者のほうが安心なわけです。俊之君はああ見えて情に流されず抜け目ない部分もありましたから。そういうウソをつけない正直なところも私は好きで、信用できると思っていました。俊之君だって、すべてにおいて完全だったわけじゃない。私に対してはよく手紙で弱音を吐いていましたから、彼の弱さもよく知っているつもりです」

「……」

「開明的で固陋な制度にとらわれるはずのない彼ですが、あなたの再婚相手のことになると、やっぱり出自や職業にこだわりたくなるんですよ。でもそれは花さん、お兄さんがそれだけあなたを愛していたことの裏返しでもある。それだけはわかってやってください」

信介の俊之を評する言葉には力があり、優しさがこもっていた。お花の脳裏には、信介の口を通して語られる兄の姿が浮かび上がる。その顔はなぜか少し哀しそうに見えた。自然と涙がこぼれた。ひきつったような嗚咽が喉から漏れる。兄が亡くなった日に流れるはずだった涙が、とめどなく流れてお花の頬や膝を濡らした。

「花さん……大丈夫ですか」
「ううう……兄さん、ごめん、ごめんよ……あたしったら自分のことばっかりで……ごめん……」
「あなたのことは、俊之君ならちゃんと分かっていますから、大丈夫ですよ……さあ、完成しましたよ」

信介の手には、色も形も不統一な花の塊が抱かれている。

「菊人形ではありませんが、受け取ってくれますか」

「……」

「大きくなって新たに花をこしらえて、そのときは絶対受け取ってもらおうと思って今まで大事に残しておいたんです。年月は経ちましたが、そのときの思いは何も変わっていません。いいじゃないですか、こんなご時世でも、変わらないものが一つくらいあったって」

お花は不格好な花人形を見つめながら、「……こういうのも、悪くないね」とつぶやく。
微笑みが静かに浮かんだ。
信介はもう一押しお花のほうに花人形を突き出す。
風が吹き、人形からコスモスの花びらが一枚離れて舞い上がる。
お花と信介が同時に手を伸ばすと、花びらは絡まる二人の指の中におさまった。


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