【太平洋戦争の発火点】アメリカと「排日移民法」「オレンジ計画」/現代政治もちょこっと

「太平洋戦争は、真珠湾攻撃を仕掛けた日本軍の奇襲攻撃からはじまった」

これが、現代の私たちが学校で教わる「まっとうな歴史認識」であり、アカデミックの世界で主流の「正しい歴史の定説」になる。

日本人が喧嘩を売り、アメリカ人を怒らせたばかりに、あの戦争ははじまった。ざっくり言えばそうなるわけだ。

では、アメリカは、日本との友好関係を望み、平和を守りたかったのか?

何が何でも、日本との戦争を避けるために、外交努力に奔走したのだろうか?

そもそもアメリカ側に「世界平和」「東アジアの安定」を望む意思はあったのか?

太平洋戦争に至るまでのアメリカの動きと、日本に対する姿勢と感情を見ていくと、むしろ「日本と戦争したくてしたくてしょうがなかった」のが本音ではないだろうか。

そんなふうに勘繰りたくなるような材料は山ほど出てくる。自分が日本人だから色眼鏡で言っているのではない。アメリカにとって日本は友好国ではなく、崇高な使命“マニフェストデスティニー”を阻む障害であり、叩き潰すべき敵国であった。

そのための策を先手先手で実行し、対日戦争の計画も用意周到に練り上げ、数十年来の研究と準備の末に結実したのが、太平洋戦争だったのではないか。

そのような「アメリカの不都合な真実」も、歴史の側面に光を照らせば浮かび上がってくる。

アメリカの建国以来の歴史をひもとけば、この国は「無類の“戦争大好き国家”」だとわかる。

アメリカは他国から攻め込まれたり侵略されたりした歴史がない。それは、アメリカが常に他国へ攻め込み侵略する側に回ってきたからである。「攻撃は最大の防御」とはアメリカのためにあるような言葉で、常に先手必勝を期して戦争を仕掛け、領土拡張に邁進してきたかの国の歴史を象徴している。

そんなわけだから、「平和を守る唯一の手段は軍事力」「平和と安定のためにもまず戦争」という考えが骨の髄まで徹底している。ずっと戦争に明け暮れ、平和に過ごす安息の時代が少しもないものだから、おのずと軍需産業が勢力を伸ばしてこの国の伝統産業にもなった。アメリカは言わずとしれた民主主義の国。議員や政府高官に軍需産業の支援を受ける者が多ければ(実際多い)、国の方針・政策に色濃く反映される。十数年に一度くらいの頻度で戦争や紛争を起こさなければ国として成り立たない構造。日本人の知らない「アメリカの病」である。

どうしても主語が大きくなってしまうけど、もちろんすべてのアメリカ人が好戦的で戦争を望んでいるとは言わない。中央政府が打ち立てる戦略や方針も時代の要請を受けて移ろうものだ。が、政策決定にもっとも影響を与える中枢において「戦争推進派」が多数を占めれば、少数の意見は大きな流れに飲み込まれてしまう。これは民主主義の国が抱える大きな課題であり、向き合わなければならない欠陥ともいえる。

太平洋戦争が起きた当時のアメリカ政治の世界にも、戦争反対派はいたが、政権中枢が日本を敵視する好戦派・戦争肯定派で牛耳られていたため、防ぐことができなかった。

前置きが長くなってしまったが、この記事では、太平洋戦争を引き起こすまでに至った日米関係がどうした局面で悪化したのか、アメリカ側の動きに焦点を当てて考えてみる。

アメリカの対日敵視政策は、日露戦争後に発生した南満州鉄道利権をめぐる対立、日本人移民の大量流入が素因とする見解が、歴史家の間で定説となっている。

幕末に日米修好通商条約が結ばれて以来、良好だった日米関係は、日露戦争後の満州の鉄道利権をめぐる争いを機に変質したのだろうか。

日露戦争後からはじまった(?)対日敵視政策

日露戦争は、戦死者八万八千もの犠牲を生み出して勝ち抜いた国家存亡の戦いであった。薄氷を踏む勝利だったが、このとき和平の調停役を務めたのがアメリカである。この一点だけ見ればアメリカは日本の恩人と呼べなくもない。

日ロ和平を仲立ちしたアメリカは、実業家ハリマンを通じて南満州鉄道の共同経営を申し出る。が、外務大臣小村寿太郎がこの提案を拒絶。日ロ和平交渉の全権大使を務めた小村は、世論の反発を抑えて「賠償金ゼロ、領土の割譲なし」という和平案を主導し、受諾に持ち込んだことでも知られる。

小村がアメリカの提案をはねつけた言い分は「日本はこの戦争で大量の血を流した。一滴の血も流していないアメリカが満州の利権を握る道理はない」というものだった。やや感情論に傾いた感もなくはない。

結局、小村の案が日本の公式見解となり、日米による南満州鉄道の共同経営は白紙となった。

小村の意見は国家戦略なき視野狭窄の感情論か、それとも筋の通った全うな正論か、その評価は簡単ではない。いずれにしても、日本は戦争に勝ってロシアの脅威を取り除いたかと思ったら、今度は牙をむくアメリカと対峙しなければならなくなったのである。

「排日土地法」「排日移民法」アメリカの排日政策

アメリカの対日敵視政策とは、具体的にどのようなものだったか。

よく知られているのが、「排日土地法」ならびに「排日移民法」である。

アメリカにおける日本人移民の権利を著しく毀損し、あげくの果てには「人種」を理由にすべての日本人を締め出すという、今日では考えられないような迫害が国家の意思として行われた。

1920年(大正9年)に成立した排日土地法では、日本人移民や日系2世の土地取得や所有が禁止された。

その4年後の1924年(大正13年)には、日本から一切の移民を禁止する「排日移民法」が成立。この法案は、日本人移民に対する排斥運動が盛んだったカリフォルニア州選出の下院議員が中心となって推進し、成立にこぎつけたものである。

カリフォルニアは排日運動の震源地であった。日露戦争終結翌年の1906年(明治39年)に、カリフォルニア州北部のサンフランシスコ市が日本人学童を特別学校に隔離する措置を決定した。同市は措置の理由を「地震による校舎の破損」と公表。表向きはそうだとしても、サンフランシスコでは暴行や略奪、日本人商店の襲撃など、日本人に対する迫害が激化していた。排日感情を高ぶらせる地元民に配慮したのは想像に難くない。

アメリカの極端な排日政策に日本政府はただ狼狽した。外務省や在米日本領事などを通じて抗議するも、報復措置を講じるような強いリアクションに出ることはなかった。このまま関係悪化がエスカレートしてアメリカと全面衝突するのは何としても避けねばならないとの算段からだろう。日本はただ大人しく引き下がるしかなかった。ただ当然のごとく日本国民の多くは反発・失望し、対米感情の悪化は避けられなかった。あらゆる面で先を行くアメリカに憧れ、彼らのことを尊敬してやまない日本人は当時から多かったのである。

排日政策の根底には、日本人移民問題がある。明治初期より多くの日本人が移民としてアメリカにわたり、土着するようになった。もっとも移民が多かったのがハワイだ。

日本人移民はハワイの労働力不足問題の解決に大きく貢献する一方で、本土から渡ってきたアメリカ人移民から激しい反発と排撃を受けた。日本人移民に対する待遇はすこぶる悪く、現地住民よりはるかに少ない報酬しか与えられなかった。そんな劣悪な労働環境にもかかわらず日本人移民は勤勉で真面目に働き、高い生産力を発揮した。安い賃金でも真面目に働くものだから雇用主には重宝される。その結果仕事を奪われたのが先住のアメリカ人移民たちだ。日本人移民は彼らの恨みを買い、暴行や略奪などの迫害を受けた。

いつの時代・どの国や地域でも起こり得る外国人移民問題。まして人権意識に乏しく人種差別がはなはだしかった当時は今と比較にならないくらい激しい弾圧を受けたことだろう。

ハワイで起こった日系移民排斥問題はアメリカ本土にも飛び火した。もっとも激しかったのがカリフォルニア州で、日本人学童隔離や排日土地法、排日移民法に先鞭をつけたことは先に述べた通り。現地住民は確かに日本人の大量進出に反発し、追い出そうとした。それは利害が真っ向からぶつかる関係だったから致し方ない部分もある。では、この問題に対しマスコミはどのように反応したのか。民主主義の国において世論を形成する新聞の存在は絶大なものがある。新聞が右といえば政府は右を意識せざるを得ない。民主主義先進国のアメリカではなおさら新聞の権威性と影響力は大きかった。

アメリカでの当時の報道を見ると、残念ながら、新聞・雑誌は地元住民に日本人差別の自重を促すどころか、火に薪をくべるような扇動報道に走る傾向があったようだ。

1913年(大正2年)。アメリカの新聞・雑誌は「排日記事」であふれていた。
ウオーズ・ウオーク誌一九一三年六月号は、「我々は、肌の色・言語・道徳基準が異なる日本人が、近隣に住むことを嫌悪する」
と述べ、サンフランシスコ・ポスト紙一九一三年八月九日付は、
「日本人が善良なアメリカ市民になり得るか否かは、問題ではない。我々は血の混合を恐れるのだ。アメリカへの日本人移民の流入を阻止しない限り、問題は解決しない」
と吼え、ニューヨーク・タイムズ紙一九一三年五月三十一日付も同様の社説を表明した。
アメリカでは、『黄禍論の嵐』が吹き荒れたのである。

アメリカのオレンジ計画と大正天皇/鈴木荘一

「黄禍論」とは、西洋人の間で沸き起こった、東洋人を脅威とみなす論調や意見のことである。ロシアを下した日本の存在が「黄禍」で、「世界征服をもくろむ侵略者」というわけである。黄禍論は欧米でもとくにアメリカがひどく、マスコミがさかんに煽り立て、政治家や軍の高官には日本脅威論(ほとんどが妄想に等しい偏見と虚偽に満ちた論考)を唱え「対日戦争に備えよ」と過激な主張を展開する者もあらわれた。

日本人移民に激しく反発するアメリカ国民が排日運動を起こし、マスコミがこれを煽って、「排日土地法」「排日移民法」につながった。

アメリカ政府やマスコミは、世論を重視して排日法案につながる動きをしたのだろうか。

いや、対日敵視は国策としてすでに存在し、世論を利用しつつこれを冷淡に推し進めてたフシがある。

その傍証となるのが、アメリカが長年にわたり温めてきた対日戦争プラン「オレンジ計画」の存在である。

日露戦争前からあった「オレンジ計画」とは

日本との来るべき戦争に向けアメリカ海軍主導の下に策定された「オレンジ計画」。この対日戦争準備計画がスタートしたのは、1897年(明治30年)。

つまり日露戦争の7年前には動き出していたわけだ。

しかも、1897年プラン策定に主導的役割を果たしたのが、当時海軍次官だったセオドア・ルーズベルト。

セオドアといえば、日露戦争が起きたときのアメリカ大統領で、日ロ講和に仲介の労をとってくれた人物である。何とも皮肉な巡り合わせだ。

アメリカは何も日本のために日ロ和平に骨を折ったのではない。自らの国益のために調停役を買ってでたとみるのが自然である。当時はまだアメリカにとっての真の脅威は日本でなくロシアだった。そのロシアが勝利して日本を支配すれば、日本列島はロシアの巨大な軍事拠点となる。満州鉄道の利権うんぬんより、そちらのほうがアメリカにとって深刻かつ重大だったかもしれない。

それはさておき、対日戦争プランの「オレンジ計画」が日露戦争の7年前に策定されていたという事実。これについて日本はどう考えるべきか。

1897年に産声をあげたオレンジ計画は、時代情勢や軍事技術の更新を反映しながらバージョンアップを繰り返し、増補・改訂を加えるごとに充実度と精度を増していった。1924年頃には完成をみて、1941年の太平洋戦争開始とともに発動された。

何度も練り上げられたオレンジ計画だが、初期から一貫しているのは、「経済的に締め上げ、海軍力をもって商船航路を封鎖する“通商破壊作戦”」に重点を置く戦略思想である。

食料や原料、エネルギーを外国に依存する日本の攻略はすこぶるシンプルかつ明瞭。すなわち経済制裁と海上封鎖である。外から資源とモノを入ってこないようにするだけで日本は干上がる。これほどわかりやすく露出するアキレス腱はない(これは今も抱える日本の致命的弱点だが驚くことに政府は何ら対策を打たず、国民も問題意識を持てずぼやっと過ごして80年になる)。

日本の弱点をとうに見越していたアメリカは、オレンジプランを忠実に遂行して太平洋戦争の勝利をものにした。

日本の弱点を白日の下にさらしても、困難なのは日本との戦争にこぎつけるためのシナリオをどう描くか、だった。

米日戦争に持っていくには、大義名分が必要だ。民主主義の国なので、民意がついてこなければ戦争はできない。さすがに戦争の動機が「黄禍論」では民意は納得しないし、国際社会に対しても示しがつかない。日本と戦争するには、日本のほうから仕掛けてこなければこちらは動けないのだ。ところがどうだ、日本にはアメリカと戦争するなんて発想はこれっぽっちもない、それは当然で、エネルギー食料原料すべてを海外に頼る「持たざる国」日本にとって、広大な耕作地を有し石油も自前で所有できるエネルギー強国、そのうえ技術の進歩も素晴らしい「持てる国」アメリカは絶対に敵に回してはならない国。こんな国に戦争をふっかけるのはほとんど狂気じみた行為である。日本はいろんな意味で変わった国だが、さすがに100%敗けるとわかった戦争を好んでやるほど気は触れていない。日本自ら立ち上がらせるのは、日本に戦争で打ち勝つよりはるかに難しい課題だったろう。

しかし、オレンジプランの策定を通し徹底して日本を研究したアメリカである。日本がどのような動きを見せるか、ある程度予想はついていたのではないか。

「排日移民法」で日本人をアメリカから締め出した。が、日本は空前の人口爆発の問題に直面している。何せ農業国でありながら、耕作地は国土の3割にも満たない。急速な近代化により幕末3千万だった人口があっという間に8千万人にも膨れ上がった。国民は否応なしに外に出ていくしか食べていく方法はないし、国家としても移民を推奨していくだろう。アメリカ移民を禁止すれば、新天地を求める先はおのずと中国になる。

アメリカがどのような意図をもって排日移民法をつくり、日本人移民を締め出したか不明だが、この法律によって新天地を求める日本人の目指す先は、太平洋の向こう側から日本海を隔てた先の大陸国家・中国へ転じるしかなかった。

日露戦争の勝利で獲得した満州の地にたくさんの日本人が移住し住みつくようになった。ハワイで勤勉に働いて生産高を上げたように、ここでも日本人は汗を流し知恵を尽くして満州を発展させた。満州は日本人にとって第二の故郷になった。ところが、潤った満州を見た中国人たちが急に「満州はオレたちのものだ」と言い出した。清朝時代、満州は遅れた民族が住みつき、中華文化圏とは程遠い「化外の地」として、中国人からほとんど顧みられていなかった。だから「義和団事変」が起きた後、どさくさに紛れて満州に進出した強欲ロシアが我が物顔で蹂躙しても、清朝は別に何も言わなかった。というより相手はあの大国ロシア、落ちぶれたわが身で抗議するには力がなさすぎると思って言わなかっただけかもしれない。時を経て、小生意気に満州に出張って偉そうにふんぞり返っているのはあの小日本だ。辛亥革命をへて中華民国が成立、その後も絶えず軍閥の乱立が続いて混乱を極めた中国大陸では統一政府なるものが存在しない。馬賊とも言うべき秩序なき軍事集団がそこかしこで暴れまわっていた時代である。日本政府と満州に駐屯する関東軍は中国馬賊の暴行略奪殺人などの不法行為にたびたび手を焼いた。もう我慢できないとプッツンした関東軍がついに「満州事変」を起こして中国勢力(当時もっとも勢力の大きかった中国国民党)を排除した。日本政府は中国とはなるべく「仲良くして事を起こさないようにしよう」との平和外交に勤しんでいたが、もろくも関東軍の謀略の前にその目的は潰えてしまった。

満州事変を起こした挙げ句「満州国」を立ち上げた日本に対し、アメリカは激怒した。これは明確な「九か国条約」違反である、と。九か国条約とは、第一次世界大戦後に東アジアの安定と秩序を構築するために日本・中国・アメリカ・イギリス・フランス・イタリアなど世界主要国の間で取り決められた条約で、ざっくり言えば「中国大陸に権益を持つ国の商業的独占を許さず門戸開放を認める、さらに中国大陸をこれ以上領土侵犯しないこと」を約束したものである。

満州事変を起こし満州国をつくった日本の行為は「侵略」であり「九か国場条約違反」であると非難したのは、国際連盟の加盟国ならびにアメリカであった(アメリカは国際連盟の設立を提唱しながらいざ国際連盟が発足すると自らはそれに加盟しなかった不思議な国である)。

なかでもアメリカの反発は激しくさも自国の領土を侵されたような勢いで日本を責め立てた。が、内心アメリカは喜んでいたのではなかろうか。なぜなら、「オレンジ計画」にある通り、日本はみずから「侵略者」の道を歩み始めたのだから

日露戦争後にアメリカ国内で盛んに警鐘が鳴らされた「黄禍論」。これを地で行くような行動を日本は見事に演じてくれた。ヨーロッパの侵略者ドイツとの同盟、日中戦争、仏印進駐。オレンジ計画で狙いとした経済制裁の口実はこうしてできた。在米日本人の資産凍結と石油の全面禁輸、イギリスやオランダ、中国などを巻き込んだABCD包囲網。アメリカが念願とした対日戦争への道を舗装してくれたのは敵国日本だった。裏口でオレンジプランを策定し、表口で排日移民法を制定したとき、こうもあっさり獲物が籠の中に収まることまで想定していたとすれば、アメリカは相当な策士と言わねばならない。

国内政治よりも国際政治、特に「アメリカ」を見よ

日本人は、もっとアメリカという国を知らなければならない。アメリカを知るということは、ファッションとか音楽とかハリウッドやディズニーといった文化的な情報に酔いしれることじゃない。それはアメリカが「ホワイトプロパガンダ」として戦略的に広めている部分もあると冷めた目も持ち、もっと冷静かつ俯瞰的な視野を持つ必要がある。

それは、アメリカが建国以来何をしてきたかその歴史を知る、ということである。

日本は、封建体制を終わらせ鎖国を解き、世界との交易をはじめた。それは日本の意思ではなかった。アメリカの砲艦外交によって無理やり戸口の鍵をこじ開けられた結果で、教科書にあるペリーの黒船来襲だ。日本はアメリカによって弱肉強食の帝国主義世界に引きずり出された。こうなった以上は強くならねばならず、富国強兵に邁進し、朝鮮や台湾、中国大陸にも打ってでた。自分たちが生き残るには打って出ざるを得なかった。現代の私たちはこれらの行為を安易に「侵略」と片付けてしまいがちだが、それは歴史の大きな流れと細部の事象を丹念に検証したうえで言っているのだろうか。

海軍提督ペリーは琉球(沖縄)を石炭補給基地にするというアメリカ政府の意向を受けて派遣された。日本を軍事支配下に置く計画はアメリカ百年越しの夢だった。それを実行に移して今日に至っている。

日本は近代国家の道を歩みだしたときから、この横暴だが強大無比の超大国アメリカと正面から向き合わねばならない宿命に立たされた。アメリカと腰を据えて立ち向かうには、覚悟を持つ政治家を支えるだけでは足りず、国民もちゃんとアメリカという国を知らなければならないと思う。

アメリカを知る。それは、アメリカが日本に対して何をしてきたか、CIAや国務省、国防省にはびこる謀略に長けた面々が中東や中南米、アフリカで何をしてきたか。国際政治のすさまじい現実を直視することだ。これは別に難しいことではない。アメリカという国はああ見えて公明正大なところもあり、国家の機密情報でも75年経てば公開するルールをつくっている。例外はあるにせよ(日米戦争当時アメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトがイギリス首相チャーチルと「日米戦争の密約」を約束したとされる「大西洋会談」の内容は75年経過した今も非公表となっている)、ここで公表されている機密文書の公開情報に接するだけでもアメリカという国の実態を知る手がかりになるだろう。闇に包まれているケネディ暗殺。事件の影にCIAの存在が長年ささやかれてきたが、この事件の完全解明は不可能にしても、真相に迫る情報の一部は近い将来公にされることだろう。

NHKは受信料という名目で国民から金をむしり取るくらいなら、アメリカの公文書館を取材してCIA公開の機密文書を国民に知らせる放送を毎週やるべきである。それができないなら今すぐ公共放送の看板を下ろし、国民から金を巻き上げて溜め込んだ資産を国家国民に返上して解散したらどうか。民法と大差ない上っ面だけの政権批判や中国共産党の広報機関かと疑うばかりの国際報道では、存在価値がないどころか害悪でしかない。

日本人に言いたい。いつまでも政治や自国の歴史に無関心が通用すると思うなかれ。今が平和と思ったら大間違いで、すでに戦時中と思ったほうがいい。戦争とは何も軍事兵器を使うばかりじゃない。今の時代軍隊を使って攻め込まずとも相手国に優位に立てる時代である。戦争の目的は殺し合いではなく、自分たちが優位になるルールや協定、条約を相手に押し付け、富や資源、実権を奪うことである。軍事兵器を使わなくても済む方法があればそれを選ぶに決まっているのだ。戦争よりはるかにコスパな方法で目的を達せられるのだから。「平和ボケ」「スパイ天国」を長年許してきた日本は、土地や資源、水源地を奪われ、資産や技術を盗まれていることにも気づかず、政治の中枢を浸食されて日本がどんどん貧しくなり自殺者数も先進国トップの悲惨な現状を看過しながら、「日本はまだ平和だから」とか言うのいい加減やめなければならない。「日本人は国際政治の12歳児」とは終戦直後に来日したマッカーサーが日本人を見て言った言葉だが、80年の歳月を経て成長するどころか6歳児くらいになっていないだろうか。

来年以降何が起こるかわからず、どんどん状況は厳しくなるかもしれない。まずは世界で何が起きているか知るべき。あのアメリカは行き過ぎたポリコレや移民問題などで大混乱の状況にあり、分断が進み、内戦寸前のところまで切迫しているとの情報もある。アメリカが風邪を引けば日本はインフルエンザどころでは済まないのが悲しいかな我が国の現状だ。どうでもいいことばかりに大騒ぎして大事な情報は何一つ伝えないNHKや民間のテレビなど無視でいい。日本のマスコミにまともな報道を期待するのは無駄というより狂気である。閉ざされた言論空間を飛び出し、自ら情報を取っていこう。

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