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丹波焼のこと(~近世まで)

丹波焼の歴史についてまとめます。
とりあえずは、丹波焼のはじまりから、近世まで。

いままで丹波焼について書籍をめくったことはあるけれど。
ばらばらとだったし、そういえば体系的にまとめたことは無かったなと。

良い機会なんで、文字に起こしてここで発信します。
すこしでも多くの人に丹波焼のことを知ってもらいたいので。

窯の興りと背景

丹波焼の興りは平安時代末期とされてます。
これは元久四年(1207年)と記された大甕からの推察です。

平安時代末期。。。
だいたい平家物語の源義経の時代。

以来800年以上におよんで、丹波焼は脈々と受け継がれてきました。

丹波焼がある兵庫県丹波篠山市今田町の立杭地域は、虚空蔵山と和田寺山に挟まれ、あいだを四斗谷川が流れます。
いまでは立杭地域に窯場が集中していますが、むかしは北側の小野原付近から、南側の三本峠にいたる一帯で古窯跡が発見されており、いまよりも広範囲で窯が焚かれていたことがわかります。

ちなみにですが、丹波の国内の他窯として、氷上郡春日の大路窯、氷上郡柏原の大部谷窯などがあったようです。
知らんかった、こんなに近くにも窯場ってあったんですね。。

穴窯時代

丹波焼の創成期(およそ1200年)から、慶長年間(およそ1600年)まで。
穴窯は山腹の斜面を掘って、焼成のために細長いひとつの部屋をつくった窯。

この窯焚き、大変な苦労だったようで。
山中にあるため、湧水や熱の発散によって高温を維持するのが難しく。
半月以上の焼成日数が必要とのこと。
しかし、この長い焼成日数があってこそ、丹波焼の自然釉が生み出されたのでした。
焼成の過程で薪の灰が降りかかり、それが熱で融けて緑色の釉薬となったのでした。

意図したものではなく、必要悪のような存在とも考えられますが、美しい緑の流れが丹波焼のこの時代の最大の見どころと言われています。

登り窯時代

慶長末年(およそ1600年)から現在もつづく。

初期の登り窯は、現在のものと比べても大きく。
60m以上あったと考えられています。

現在のものが30mほどでしょうか。
倍以上の長さですね。

これは、共同窯から個人窯へと経営がかわったことに起因します。

焼成日数についても大幅に短くなりましたが、初期の登り窯はその長さのあまり、一週間程度の日数を要したと考えられています。

登り窯の煙だし部分。
形状から蜂の巣と呼ばれています。

が、もうあまり見ないですね。
最近作られた窯は、ほとんどが煙突を有してますので。

登り窯時代後期、全時代を通して最も華やかと呼ばれる時代にはいります。
中丹波と呼ばれるこの時代。
1700年ごろのお話し。

良質な陶土、釉薬、装飾技術のほか、陶工の作家意識の芽生えが生まれたことによります。

上手物には、直作、一此、一房、花遊、市作、稲右衛門、宇右門の印がありました。
直作窯さん(15代目)、稲右衛門窯さん(11代目)は、いまでもありますね。

なかでも徳利はほかの窯の追随を許さぬものがあり。
蝋燭徳利、浮徳利、海老徳利、エヘン徳利などが生まれました。
いまなお、受け継がれる徳利です。

おわりに

穴窯時代の自然釉、登り窯前期の灰釉・赤土部釉、後期の白釉と。
丹波焼は時代とともに姿を変えて発展してきました。

これは、丹波七化けと表現されています。
時代の進歩にともなう自由な前進、大衆とともに歩いた軌跡です。

このような流れを受けて、いまを生きる我々の課題は。
先人の仕事をいかに理解し、より優れた現在の丹波焼をつくりだすか、ということ。
先人の仕事を受け継ぎながら、自らの世界をつくっていくということ。

重い。。

自分がつくりたいだけじゃなくて。
わたしたちが表現しなければいけないものはメイドin丹波。

丹波焼だからできること、丹波焼じゃないとできないことを、つねに考えながら。

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営業時間:9時~18時(年中無休)

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