四大長編に挑む前のウォーミングアップ、基礎体力作りに〜ドストエフスキー 『死の家の記録』
ドストエフスキーはじめ、ロシア文学は名前がどうしてもおぼえにくくて(しかも長かったりして)敬遠しがちなのだけれど、ナボコフきっかけで(とはいえ、彼は自分をロシア文学の作家とはみなしていない)また挑戦している。
好きなひとはいるし(原文で読むことも厭わないひとだって少なくない)シンプルに趣味、楽しみとして読むひともこれまた少なくないのだから、単純に自分の素養のなさ、相性なのかなとは思うのだけれど。
とはいえ、最近、多少は読んできたかなぁ。
そういえば、なんだかんだ言ってドストエフスキーも読んでた。
ドストエフスキーといえば、やはり四大長編(五大とする場合もあり)。
せめて
『カラマーゾフの兄弟』
『白痴』
『悪霊』
『罪と罰』
は読んでおきたいもの。
まんがで読破シリーズもあるけれど、やっぱりオリジナルとは似て非なるものだし。
苦手意識も薄れてきて、続けて読めるようにもなってきたけれど、それでも長編はとにかく長いので(数冊にわたる)いまだに積読(というか、リストに入れているだけ)。
そこで、いまは『賭博者』のような、短編ではないけれど、そこそこのボリュームの(一冊ですむ)ものを渉猟している。
今回は『死の家の記録』を。
例によって例のごとく、愛読している光文社古典新訳文庫シリーズで。
本作は、ドストエフスキーが四年間を過ごしたシベリアの要塞監獄での体験にもとづいたもの。
書かれていることをイコール、ドストエフスキーの体験として安易に読むことは避けなければいけないけれど、それでも濃密にその体験によって裏打ちされていることは、読む価値に直結している。
一冊で完結しているとはいえ、これまた長編ではあるのだけれど、複数巻にわたるものに比べれば、かなりハードルは低い(それに、トーマス・マンやフォークナー、フローベールに比べれば格段に読みやすい)。
乱暴な物言いであることをあえて承知でいえば(シンプルに、わかりやすくいえば)『塀の中の懲りない面々』の超シリアス版といえる(かも)。
宗教芸術的なものも感じられるところが救いだったりもする。
冗長だと思うところも少なくないけれど(もっとコンパクトに、ギュッと圧縮もできた)逆にそれこそが、明日、未来、希望を見出すことが絶望的に困難な刑務所暮らしという、作品の(登場人物たちの)根幹を強固にするものだと思えば、やはり必要だったのだろうとも。
ドストエフスキーといえば、政治犯として死刑判決をくだされ、処刑執行直前に恩赦によってそれを免れたということが知られるけれど
じつのところは、あくまでも「こらしめる」ためであり、実際には処刑の執行がなされることはなかったとかいうことも聞く。
まぁ、そんなことは当人が(少なくとも当時)知るはずもなく、その意味では死刑はまぎれもない事実として、ドストエフスキーに襲いかかっていたのであるし、そこからの解放、そこからの第二の人生もまたまぎれもない事実。
解説や訳者あとがきも、いつものように(光文社古典新訳文庫シリーズの特色のひとつでもある)充実していて、この一冊を読むだけでも、けっこうなドストエフスキー「知ってる」ひと、にはなれる。
わたしのように、ドストエフスキー読みたいけど、なかなか長編(複数巻にわたるような)にはいけないなぁという場合は、まずは『賭博者』や『死の家の記録』あたりで基礎体力をつけるというか、耐性、いや、親和性を育ててからいくといいかもしれない。
ナボコフやマン、フローベールあたりを読んでからというのもいい。
なんて読みやすいんだ、ありがとう、ドストエフスキー!
となることは間違いない。
「意識の流れ」系のジョイス、プルースト、ウルフ、フォークナーを読んでからもいい。
まるでパワーリスト、パワーアンクル、はたまた「大リーグボール養成ギブス」をはずしたかのような身軽さを感じる読書体験となるはず。
大リーグボール養成ギブスは、さすがにいまの二十代とか三十代には通じないか。
とはいえ、ロシア文学と親和性の高いひとがふつうに、当たり前にいるのと同じように「意識の流れ」で書かれた作品をむしろ読みやすいと、楽しむひとたちも少なくないから、ただわたしが苦手なだけなのかもしれないけれど。
あ、でも、フォークナーは最近かなりはまっている。
ストーリーを、映画をみるときのように具体的にイメージ、情景を浮かべようとして読むものではないと許せれば(自分を)。