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小説 ケア・ドリフト⑤

「それで、この施設がヤバいというのは、他にも要因があるんだ。施設長が言うには『私には決裁する権利がない』ってことなんだ。これってどういうことか分かるか?」
 岡田の顔が急に凄みを増した。声も地の底から出すような物に変質している。その声色に、丹野の表情もいよいよ曇っていく。
「つまり理事長が給料出すのを渋ったら、給料がストップするってことだよ。あの理事長の性格からしたら、儲けが少ないとなったら、やりかねないね」
 理事長の性格は噂程度にしか聞かないが、その噂を総合すると利己主義者で、独裁者的気質があるということだった。元々理事長は東京で薬の卸会社を営んでいた。今でもその会社は関連会社として残っている。介護の社会化が叫ばれ、さまざまな民間企業がこぞって福祉産業に参入した二〇〇〇年代前半、理事長も介護事業に参入したというのは本人が職員を前にした訓示で語っていたことだ。実際、経営危機に陥っていた社会福祉法人を買収し、規模を拡大して特養やまびこを建てたのは事実だった。しかし、スクラップアンドビルドも激しく、特養やまびこの前身となる施設を閉鎖する際に、職員が反発して、全員を解雇したという”伝説”を残している。

「給料出すのを渋るって、そんなシチュエーション考えられません。いくら理事長の性格があんな感じだからといって、給料を出さなかったら、労基に訴えられるし、職員だって黙っていませんよ」
 疑問の声を上げる丹野に対し、
「そこなんだよ、あの施設長は職員のことなんか、どうでもいいと思っているんだ。自分が慈善事業をやっているみたいな感じでよく見せたいというのが本音だよ。採算が取れなくなったら、ポイ捨てされるよ」
 と岡田は冷淡に話した。困惑の表情を浮かべる丹野に対して、さらに岡田は続ける。
「嘘だと思いたいだろう。しかし、残念ながら俺が直接この耳で聞いてしまっているから、覆しようがないことだ」
 そこまで言われてしまうと、最早何も言えなくなった。呆然自失を絵にしたような状態で、丹野は思考停止に陥った。
「もし何か、相談したいことがあったら、その名刺のところに電話してくれ。できるだけ力になりたいと思っている」
 岡田はそう付け加え、「じゃ」と言い残して喫煙室を去っていった。

      *

 気が付くと、太陽が昇っていた。時計を見ると、六時を回っていた。結衣は今日も仕事のはずだった。慌てて、結衣を起こすと、家に電話をかけるよう促した。
「放任主義だからいいの。それに今日は始業遅いから」と言う結衣を無理やり説得し、電話をかけさせた。そして、結衣を車に乗せると、彼女の家まで送っていった。

 次の勤務日は一二時からの遅番勤務だった。丹野は出勤すると、いつものように喫煙所で電子タバコを吸い始めた。すると、早番勤務で休憩中の今村が喫煙所にやってきた。
「お疲れっす」
 と丹野が挨拶すると、今村は
「お疲れ、あんたんとこのユニット大変なことになってるわよ」
 と神妙な面持ちで話し始めた。
「大変なことって、どうかした?うちは派遣社員もいないし、人手は足りてるとは思うけど」
 丹野がそのように言うと、今村はさらに顔をしかめて、口を開いた。
「人手の問題じゃなくて、資質の問題よ。ほらあの、青嶋っているでしょ。あいつが入居者に暴力を振るったって、大きな問題になってる」
「青嶋さんが?誰に暴力を振るったって・・・?」
「どうやら葛西さんらしいよ。言うこと聞かなかったから、顔を殴ったみたい……」
 今村の話を終わりまで聞くことなく、丹野は荷物を持って建物の中へ駆けていった。


 息を切らせた丹野がユニットの中に入った時には、施設長と介護主任が何やら話をしているところだった。時間的に昼食前ということもあり、入居者はエプロンを首に巻いている状態で食事を待っていた。ただ一人、葛西だけが不在だった。葛西はリクライニング型の大きい車椅子を使用していたから、ぽっかり空いたスペースはその分だけ大きく感じられた。ユニットでは君子が一人で、昼食の準備をしたり、食事前に行う体操に取り組んだりしていた。丹野は君子に挨拶するとすぐに、
「ごめん、申し送りのノートを見てくれる?」
 と言われた。恐らく気持ちの余裕がないのだろう、口伝えでの申し送りは後回しになるだろうと予感した。申し送りノートを見てみる。入居者の病院受診の予定、食事形態の変化などといった情報の中に、嫌な知らせは黄色い蛍光ペンで囲われていた。
「七月二五日の一九時より、緊急のユニットミーティングを行います。また、必要に応じて、個別に事情を聴かれることがあるかもしれません」
 青嶋については何も言及がなかった。しかし、この「事情を聴かれること」というのは恐らく、青嶋の一件についてだろう。それにしても、緊急のミーティングで何が話し合われ、何が報告されるのだろうか?丹野の一抹の不安をよそに、昼食が到着した。食事を配膳していくが、ただ一人、葛西のいない食堂の風景に寂しさを感じずにはいられなかった。


 食事介助を行わなければならない入居者がいないので、丹野と君子は情報を共有しようと、見守りをしながら、話し始めた。
「休んでる間に、何があったの?大まかな話は聞いているんだけど」
 丹野がひそひそと聞くと、君子も
「私も直接、見聞きした訳じゃないから、確実なことは言えないけど、青嶋君が夜勤中に苛立って、葛西さんを殴ってしまったらしいの」
と小声で返した。食堂で聞こえてくるのは、入居者の咀嚼音とテレビから流れてくるニュースを伝える声だけだ。テレビのニュースに、この施設での虐待のことが載りはしないかと丹野は不安に思った。もしそうなったら、入居者だけではなく、その家族や職員にも不安が広がってくるだろう。施設の崩壊。そういった言葉が頭をよぎる。


「ちょっと、丹野君来てくれない?」
 丹野の思考を遮ったのは、介護主任の東野だった。今まで、施設長と話をしていたが、話を終えて、丹野を呼んだのだった。
「中西さん、ちょっと見守りしてもらってていい?」
 東野主任はそう君子に念を押すと、丹野をユニットの外へ連れ出した。そこには施設長や国本看護主任が立っていた。
「今度のことでは、とても動揺しているかもしれないけど、できるだけ入居者さんの前では、落ち着いて仕事してほしいんです」
 東野介護主任が重い口を開くと、続けて施設長も
「そうですよ、こういう困難な時ほど、施設のチーム力が試されるんです。力を合わせて盛り立ててほしい。そこでなんだけど・・・」
 と言ったが、続く「そこでなんだけど」というフレーズに何か不穏な空気が見え隠れしている。
「あの、青嶋君の日頃の様子について、いろいろ教えてほしいんだ。些細なことでもいい。虐待に至る動機みたいなものが解明できればと思っているんだ」
 やはり、何やら引っ掻き回して、禍根でも残そうとしているのか。そう丹野は思わずにいられなかった。国本看護主任は
「青嶋君ねえ、正直言って変わった人だとは思っていたけど、まさか暴行するとはね。丹野君、あなたももしかしたら責任問われるかもよ」
と皮肉っぽく話した。
「国本さん、何を言ってるんですか?彼は責任者ではないし、責任を負わなくてもいい立場だ。それはいいとして、また時間を作りますから、知っていることを正直に話してください」
 施設長も苛立っているようであった。皆が殺気立っている中で、正直に話していいのかを、丹野は逡巡していた。巡り巡って、国本の言うように、責任を現場に押し付けるような結論を出すことになるかもしれない。
「仕事中に申し訳ないね。それでは、戻ってください。ありがとうございました」
 施設長がそう言うと、東野も国本も元の持ち場に戻っていった。勿論、丹野も元のユニットに戻り、入居者の昼食後のケアを行った。君子が慌てながら仕事をしているのを見て、(やはり、知っていることを話すべきか。でも、大して知っていることなどないな)
などと考えを巡らしていた。

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