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気がついたらひとりぼっち

車を運転していたら、カーラジオから旦那が好きだった曲が流れてきた。

結婚する前に教えてもらって、一緒に何度も聴いた曲だった。

ちょっと胸が締め付けられるような、なんだか切ない気持ちになりかけた。もう何年も前にこんな気持ちは封印した、というか感情が鈍感になったのか、全然感じなくなっていたのに。

幼かった息子も大きくなって成人した。旦那は年上でちょっと年の差があったが、旦那が亡くなった年をとっくに超えて、私はあと何年かしたら老齢期に入ろうとしている。

何度も何度も、猛烈な寂しさと苦しさに襲われてきて、そのたびに必死で歯を食いしばって平気な振りをしてきた。途中で宗教まがいなところに引き寄せられそうになったこともある。思い切り依存しそうになって、バッサリと相手から切り捨てられたこともある。

仕方がない、一人で頑張らなくちゃと、肩肘張って自分で自分自身の心身を硬い鎧で覆ってきた。

辛い気持ちや苦しい気持ち、寂しい気持ちも平気な振りをして強がってきたら、いつしかそんな気持ちも感じなくなっていた。時薬が癒してくれたのか、ただ単に私が鈍感になっただけなのか……

人間関係がだんだんと煩わしくなり、どんどんと切り捨てていった。友達からの連絡を絶ち、メアドを変更したときには最低限伝えるべき人にしか伝えず、電話番号だけは変えていなかったからLINEを探り当てて友達申請くれた人はブロックし……

一人ぼっちでもいいや、一人ぼっちがいいんだ、そう思っていたら、いつの間にか家族もいなくなっていた。

子どもは進学で家を出て、これから本格化する介護をどうしようか考えていた義母は、ちょっと前に体調を崩して寝たきりになり、介護施設に入ってしまった。

義母はリハビリ次第で家に戻れる可能性もあるが、高齢だしどうだろうか?全くわからない。

気がついたら完全な一人ぼっちで、お店や病院以外で誰とも会話をしない日が珍しくなくなった。

大丈夫かな?という不安はあるが、気楽でいいという気持ちもある。

もともと、大勢の中にいても寂しい気持ちに襲われることばかりだった。本当の気持ちや意見を言えば変な目で見られることが多く、正論を言えば嫌われる、テレビや雑誌はあまり見ないから話にもついていけない、話し下手だから女友達の会話のテンポにはついていけない……

人の中にいるのに感じる寂しさっていうのほど、辛いものはないと私は子どもの頃から感じてきた。周りにこれだけの人がいるのに、誰も私のことを理解しようとしてくれない、相手の話を聞くばかりで疲れる。

だから私は自分のうちに閉じこもることにした。引きこもることにした。

今は便利でいいよね。クラウドソーシングが発達しているから、引きこもっていてもある程度の仕事はできる。贅沢は全くできないが生活に困るわけでもない。

おそらく、大人の発達障害の検査を受ければ、私も何らかの診断名が付くのだろう。今さら検査する気もないけど。でも、子どもの頃から普通ではないと思っていた。普通ではないから、親や学校の先生、仕事の同僚や上司からは嫌がられて疎まれることが多かった。

子どもの頃や若い頃、私も言葉遣いの手加減がなかったから、とにかく相手の気に障るような言動しかできなかった。そこも理解してくれるのが旦那だったはずだが、旦那は早くして亡くなってしまった。

少しマイルドになったのは、子どもを育てる中でどうしてもママ友付き合いをせざるを得なかったからだ。PTAやスポーツ少年団なんかで、とにかく自分を小さくして周りと合わせることを学んだ。

でも、そんな付き合い、子どもが大きくなって学校が終わったら終わりでいいじゃん。

人間関係をバッサバッサ切っていたら、気づいたら家族以外の誰とも会話をしなくなっていた。仕事はチャットで済んでしまう。

なんか寂しいとは感じるが、もういい、もういい、もう諦めて残された日々を命が尽きるまでただただ呼吸していこう、人の中にいるときの強烈な孤独感と比べてどっちがいい?

そう思っているのだが、どうやらたちの悪い承認欲求とやらが騒ぎ出す。

それがno+eを始めた理由かな?とも感じている。

兎にも角にも、自分自身の生きるエンジン、自分自身の本体のはずなのに、自分自身でどうにもできない身体と心。こいつらを抱えて、今日も私は生きていくんだな。


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