社会運動をするおまえらへ。社会運動に傷つけられた君へ。そして私へ。

▼「怒り」や「不寛容」それ自体は悪ではないと思っている。

 自分が許すことができない何かがそこにあるのに、自分の心を圧し込めてまで許さなければならないなんてこともない。「怒り」や「不寛容」も自由だ。
 私もそれなりに不寛容な人間で、絶対に許す気のない人間は数名いる。正直に言うと、隙あらばそれらの人間を破滅させてやろうと思っているし、誰にたしなめられようがそれを止める気はない。
 また、何か目的を果たす原動力になることもあるのが「怒り」や「不寛容」で、その目的が悪辣なものでないのならば、それらを体内に抱えて生きるのもまた良いではないか。そうも思っている。

 ただ、困ったことに、これらはガン化することが往々にしてあるのだ。

▼近年、反差別を掲げる社会運動やその支持者の間で「不寛容」が目につく。社会運動のツールとしてSNS等が利用されることが増えて可視化されやすくなっただけで、以前から社会運動というものは「不寛容」を内包していたのだろうけど、ともかくも、目につくことが増えた。

 在日差別反対を掲げて、在特会等の行動界隈に対してカウンターをかけていたしばき隊界隈では、在日男性2名が無抵抗な日本人男性1名を暴行して、傷害を負わせる事件が大阪で起きた。彼等は反差別を掲げる社会運動の仲間であった。

参考:10・19M君リンチ事件高裁判決、賠償金アップも苦い勝訴! しかし判決内容の稚拙さに上告決定! 鹿砦社特別取材班

 新潮45に寄稿された杉田水脈の文章への批判がLGBT活動家やそのシンパの間で高まり、杉田への批判にとどまらず、自分たちと意見が異なるゲイに対して「ホモウヨ」「ネトウヨホモ」などのレッテルが貼る者があらわれた。同じセクシャルマイノリティの人たちに対しても、LGBTの運動の邪魔だとみなせば、いとも簡単に「不寛容」の刃が向けられる。

 参考:障害者やLGBT巡る論争における「当事者性」のねじれ現象

 カミングアウトせずに「静かに暮らしているのだからそっとしておいてほしい」人に対して、「学習性無気力症」ではないかとレッテルが貼られた件なども、ガン化した「不寛容」が可視化されたものだと言えるだろう。

 女性や子供の人権等を盾にして二次元コンテンツの性的消費許すまじと金切声をあげるフェミニスト臭い連中が、自分たちと意見が合わない未成年女性であるタレント春名風香さんに対して罵声や嘲笑が浴びせ続けている。自分たちにとって守るべき対象であるはずの女性・子供に対してさえも、社会運動や思想信条の邪魔ならば、歪んだ「怒り」や「不寛容」をむき出しにするのだ(もっとも春名風香さん本人はタフに応戦していて頼もしいかぎりだが)。

 このような、反差別を掲げる社会運動やその支持者たちのガン化した「怒り」「不寛容」は、例を挙げるとキリがない。

▼社会運動、特に反差別を掲げる社会運動は、抱えた「怒り」が原動力になる。その「怒り」は「差別という不寛容」への怒りであり、それゆえ自身で差別に対する「不寛容」を抱えてゆくことになる。

 また、社会運動は、集団性を帯びやすく、それゆえ集団の狂気という因子により「怒り」「不寛容」が悪性化しやすい。

 ガン化したそれらは、肥大化にとどまらず、浸潤や転移さえ起きることがめずらしくない。
 今まで仲間だった人たちや本来なら守るべき対象の人たちにまで、何かをきっかけにして、強く歪んだ「怒り」や「不寛容」が向かってゆく。本人らの意識としては理由がある正当な「怒り」や「不寛容」であるため、自覚症状がないことが多いのが怖いところだ。

 そして。

 ある人はある日。あたりを見回すと自分の周りの敵が増えていることに気が付く。正当な「怒り」や「不寛容」であったはずなのに味方が減っている。

 ある人はある日。強い倦怠に襲われる。「怒り」や「不寛容」の不愉快や苦痛だけはたんまりと体内に残存しているのに、もはや原動力にできなくなっている。

 さてどうしよう。自覚症状のないままの人たちはさておき、何か具合が悪くなっていると気が付いてしまった人たちはどうしたらいいのだろう。

▼私たちは、たいていが小さな器に入った複雑な魂だ。何かに気が付いたところで、ほいほいと「怒り」や「不寛容」を打ち消せるほど大きく単純なものではない。時間という薬だけで治すのが困難となったこのガンをどうしたらいいのだろう。

 まずは「放置する/治療する」の二択で、治療するのならば、大きな決断は手術で「切ってしまう」かどうかになるのだ。

 とりあえず切って、一端離れる。

 社会運動やその支持をしていて、何か具合が悪いと思うようになったら、この選択肢も頭に浮かべて欲しい。楽しいことで栄養たっぷりとって理解者から薬もらって症状を抑え続けるのも悪くはない。でも切除という手もあるのかもしれない、と。

 そして社会運動に傷つけられた君も、社会運動への「怒り」「不寛容」をセルフチェックして、最早それが何かの原動力や支えとして機能しなくなっていってるのであれば、時期を見極めて、治療を視野にいれないといけないかもしれない。

▼社会運動に限らず「怒り」や「不寛容」のガン化は私にも起きる得る。もう起きてるのかもしれないけど私には自覚症状がない。はあああ怖い。

 自分のことはわかりにくいからこそ、気が付いた人がそっと声をかけてあげるのがいいのかもしれんね…という凡庸な話で締めくくりたいと思う。