会田誠さんのアノ発言について

■『日本は二流国家に落ちちゃったな』

立憲民主党の憲法調査会でアーティストなどが招かれて、あいちトリエンナーレ『表現の不自由展』への補助金不交付問題や在オーストリア日本大使館が別の展覧会への公認を取り消した件について意見を述べた。

 その際になされた会田誠さんの次の発言がツイッターで話題になっている。

「(今回の展覧会の公認取消しがSNSなどをきっかけに)あっさり起きてしまうということは、『あぁ、日本は文化的な二流国家に落ちちゃったな』と外国にみられる。リアルに国益を損なうことだと思うんですよね。小さな穴ですが、何とかした方がいいと思います」https://www.huffingtonpost.jp/entry/kenpo-sho-sa-kay-freedom_jp_5de9d36de4b0d50f32b14085

 この件を眺めていて連想したいくつかの出来事について書こうと思うが、その前に。

 私は「あいちトリエンナーレ」とその作品群について、断固として表現の自由のもとにあると考えているのを明言しておきたい。(※補助金については別問題、手続で不適切があったのなら不交付も仕方なし)

 そうしてここでは法的な是非の問題では「ない」話を、まとまりなくツラツラと書こうと思う。上手くまとめる気がそもそもないので最後が尻つぼみになる悪寒しかないけど、気が向いたら最後まで読んでいただけるとありがたい。

■『うな子』と『とれたてイクラ丼』

 みなさんは2016年に起きた『うな子』の騒動を覚えいるだろうか。

 蝉の鳴く中でプールに黒いスクール水着の少女が浮かんでいる。男性の声で「彼女と出会ったのは1年前の夏だった」というナレーションが入り、少女が男性の目線であろうカメラに向かって近寄ってきて「養って」とすがるように言うシーンから始まる…鹿児島県志布志市のふるさと納税PR動画。

 早い話が「黒いスク水の少女」は「ウナギ」の擬人化であり「養って」は「養殖」なのだが、これが「気持ち悪い」「性的だ」などとSNSで大炎上して公式の動画が削除されてしまうという騒動になった。

 この動画と騒動に対する私の感想は次の通り。

①誰かが「気持悪い」「性的だ」という感想を持つのは自由だけど、この程度の動画で削除を求めるほど大騒ぎするのはヒステリックだ。
②しかし、食べ物を水着姿の未成年を使って擬人化するのは決して無難とはいえず、ネガティブな反応があるのは容易に予想できた。それにもかかわらず志布志市はこの動画にゴーサインを出した。批判を食らって削除するぐらいなら、最初からもっと無難な動画にしておけば良かったのではないか。
③CMの発想が凡庸で、しかも中途半端で物足りない。

 私としては、せっかくウナギを擬人化するのであれば、まな板に載せたうな子に目打ちして包丁を刺し込んでさばき、我々はまさに血を肉を命を食べているのだという賛歌へと昇華して欲しかったのだが、まあ、それは私の趣味。

 ともかくも、女性を食べ物に喩えるなんざ酒場でおっさんどもが「あのオネーチャン食った?」と表現する程度の発想なのだ。性的かどうか、創作性があるかどうかなんてどうでも良い。ともかくも発想まじ凡庸。

 ところで。この騒動のときに私は会田誠さんの作品について次のようなツイートをしている。

 会田誠さんの作品には「まな板の美味ちゃん『食用人造少女・美味ちゃん』」といったタイトルそのままのものや、『とれたてイクラ丼』のように女性の裸体を押すと女性器からイクラが大量に出てご飯に乗っけ盛りになるのが描かれたものがある。

 私はこれらの作品に対しても「発想が凡庸で、しかも中途半端で物足りない」という感想しか持たないのだが…

 もしも『とれたてイクラ丼』がイクラが名物の地方公共団体でふるさと納税PRに使われたならば、どうだろうか。

 おそらく、先に私が『うな子』について述べた感想①「この程度の動画で削除を求めるほど大騒ぎするのはヒステリックだ」は、『とれたてイクラ丼』が使われたのなら少し後退ただろう。そして感想②「ネガティブな反応があるのは容易に予想できた」ことを、より大きく捉えて地方公共団体に呆れてたであろう。

 『うな子』と『とれたてイクラ丼』、どちらについても作品そのものへの感想は同じなのに、なぜ、騒ぐ人々と地方公共団体に対する私の感想は変わるのか。

 不特定多数の公衆と公的機関のどちらも「公」の話であり、「公」に馴染む程度問題の話になるからだ。作品そのものへの私個人の感想とは別次元。

■「国旗でケツをふく男の写真」と「馬鹿な日本人の墓」

 会田誠さんが『あぁ、日本は文化的な二流国家に落ちちゃったな』と外国にみられる』と言ったとのことなので「ならば、お文化の一流国家様ってどこなのかしら?」という疑問も頭に浮かぶ。

 ここはひとつ、ベタにフランスに目をやってみよう。

 2010年、フランスで行われた写真コンテストにて、フランス国旗でケツをふく男の姿が写った作品が入賞した。これが大炎上。法務省報道官が「国旗に対するこのような目に余る行為を罰する法定の手段があるはずだ。現行の法律になければ法律を改正すべきだ」と述べ、写真を制作者の刑事訴追を求める方針を発表するまでの大騒動に。刑事訴追についてはニースの検察官が「創造性に基づく精神によって行われたもので違法行為には相当しない」との判断を下したが、コンテスト主催会社は直ちに問題の作品の入賞を取り消していた。

芸術?侮辱罪?「国旗でおしりをふく」写真で物議、フランス
2010年4月23日 12:39 発信地:パリ/フランス [ ヨーロッパ フランス ]


 私企業が主催したコンテストの写真であっても「国旗」という「公」の要素が絡めば、不特定多数の公衆の中から大きな非難の声はあがり、フランス政府が刑事訴追を検討し、コンテスト主催者は入賞を取り消すにまでいたったのだ。

 はたして会田誠さんは、そして世界の国々は、このような出来事が起きたフランスのことを文化的に何流の国家だと評価するのだろうか。

 さて、我らが日本では、あいちトリエンナーレ2019で「間抜けな日本人の墓」「馬鹿な日本人の墓」という名前で大きな批判を浴びた作品が展示された。作品名は「時代(とき)の肖像-絶滅危惧種 idiot JAPANICA 円墳」だが、作者本人が「これは『馬鹿な日本人の墓』なんですよ」と説明したことからその呼び名が広まったのだろう。

 IWJ 可視化された表現の自由の範疇 〜美術館に作品の撤去を求められた芸術家・中垣克久氏インタビュー ━原佑介記者 2014.3.4 

 このドーム状の作品は上には日本の国旗が乗せられ、下にはアメリカの国旗が敷かれ、「日本病気中」などと貼り付けられ、「idiot JAPANICA」と銘打った作者本人も『馬鹿な日本人の墓』だと趣旨を述べている。

 このような日本の国旗を使って日本人を馬鹿呼ばわりする作品に対して不特定多数の公衆の中から強い非難の声が起きたこと、フランスで”国旗でケツをふく男の写真”に対して不特定多数の公衆の中から非難の声が起きたこと。どちらもおかしくないだろう。

 そうして、フランスの件は私企業が主催した写真コンテストに端を発した炎上であるが、一方、日本の件は「公」で展示されたことに端を発した話だ。

 愛知県知事大村秀章が会長をつとめる「あいちトリエンナーレ実行委員会」が主催し、愛知県と名古屋市が公金をぶち込んで開催した公的なイベントで展示されて非難が巻き起こった。そして申請手続きにおける不適法な行為を理由に補助金の不交付が決定した。ここに大きく関わってくる要素はとにもかくにも「公」なのだ。

 もう一度会田誠さんに問いたい。このような出来事があったフランスと日本は海外の国々から文化的に何流の国家だと評価されると、会田誠さんは考えるのだろうか。

■ヤノベケンジ作品はどのような「公」に置かれたのか

 2018年、福島市の子育て支援施設「こむこむ館」前にヤノベケンジの巨大な立体作品『サン・チャイルド』が展示された。黄色い防護服を着た子供の胸部にはガイガーカウンターのようなもの、左手にヘルメット、右手に太陽。このパブリックアートに非難があつまり、市が「こむこむ館」でアンケートを実施したところ「移設を含む撤去希望」のほうが多かったという結果に。市長が「災害の教訓の継承、勇気や元気を与えるなどの観点から設置の継続を求める声がある一方で、風評への懸念、作品への違和感、設置する場所の問題など設置に反対する声も多く、このように賛否が分かれる作品を『復興の象徴』として、このまま市民の皆様の前に設置し続けることは困難と判断しました」とコメントして撤去となった。

 私はいくつかのヤノベケンジ作品を、大阪市で開催された「水都2009」で目にしたことがある。楽しげな見た目でさらりと警鐘を鳴らすポジティブな作品だと感じたのを覚えている。

 福島市に置かれた『サンチャイルド』だって、ヘルメットを脱いでガイガーカウンターが「000」を示していることからわかるようにネガティブなメッセージを発する意図の作品ではなく、むしろ安全な世界への希望を示したものだったのだろう。

 しかし作品を作った側の意図がどうであれ、見る側は自由で多様だ。

 原発に対して特段の不安を抱く状況を経てきた福島市で、子供を抱えた親たちが集まる子育て支援施設の前に、ガイガーカウンターのようなものが付いた防護服を着た子供の像が置かれる。それが否応なしに目に入ったらどう感じるか。

 福島の人々に思いを馳せた人たちがSNSで非難をすること、『サンチャイルド』に不安を抱いた地元の人々が撤去を求めること、市が撤去を決めたことはおかしなことだったのだろうか。

 ヤノベケンジ作品を(イベント期間中)公共の場所に展示した大阪市は文化的に一流で、公共の場所から撤去した福島市は文化的に二流だったのだろうか。これも会田誠さんに問いたい。

■「どうみられるか」は一つではない

 以上の出来事を会田誠さんの発言から連想したのだけど、別に、不特定多数の公衆のお気持ちにとにかく配慮しろと言いたいわけでもなく、批判を受けた公的機関が作品を削除・撤去したりするのを良しとしているわけでもない。

 不特定多数の公衆のお気持ちで表現が抑圧されること(特に表現物がSNSでの炎上を受けて削除・撤去されること)については憤りを感じるし、在オーストリア日本大使館が展覧会への公認を取り消した件だって取り消すぐらいなら最初から公認するなアホンダラと思っている。

 だから会田誠さんの「『あぁ、日本は文化的な二流国家に落ちちゃったな』と外国にみられる。リアルに国益を損なうことだと思うんですよね。小さな穴ですが、何とかした方がいいと思います」という発言については半ば共感してもいるのだけど、二つの点で耐え難く気持ちが悪いのだ。

 一点目は『文化的な二流国家』。すでに問いかけたように、何がどうであれば「○流」なのか。「公」は黙ってただひたすら芸術家の全ての望みをかなえるよう奉仕するのが文化的に一流などと、そんな傲慢なことを思っているわけでもなかろうに。

 二点目は、どのように『外国にみられる』かを重視して「国益」まで持ち出すのに、「国内の不特定多数の公衆にみられる」SNSにおける批判をまるっきりノイズのように捉えていそうなところ。

 芸術家やその創作、それらへの公的な支援だけでなく、国内の多様な声もまた国の「文化」紡ぎあげるパートナーだろうに。だいたい国外の声なんていうのも、国内の声のように、画一的でなく多様だと思わないのだろうか。

 よそ様の目を気にして国々のそれぞれの文化のあり方に「〇流国家」などとラベルを張るような不自由な人が、どうかどうかどうか我が国の著名なアーティストでありませんように。