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本当の自分は、どんな人間?

昔から、自分を分類することに違和感がありました。

活発な性格とか、飽き性とか、HSPとか、
そういう人の特性みたいなもの。
自分は本当にその言葉でくくられるのか、わからないんです。

自分の周囲の人たちからすると、私はお喋りかもしれない。でも、もっと世の中を広く見ると、静かな方かもしれない。
置かれた環境によって立ち振る舞いを変えるから、「私は〇〇です」って言い切れない。

でも、人は他人を括りたがります。
「この人はこういう人だ」って分類したほうが、接しやすいですもんね。
私自身、自分のことはわからないくせに他人のことはなんとなくこうだな〜って思ってることが多々あります。

それを考えると、私は自分がされて嫌なことを他人にしている、嫌なヤツなのかもしれません。

でも最近は、これでいいのかもって思ってます。自分の中で思ったことまで、世間の基準を気にして変えなくても…まぁいいかぁ、と。
まわりの気持ちや考えを汲み取ることは、私の生活の一部でもあるし、悪用しなければいいかなと。自分のイメージでその人の意識を縛りつけることだけ、しないようにしたいなと。

自分に関して言うと、「私は〇〇です」ってキャラ付けできたほうが楽だよな〜ブレないようにしないとな〜なんて思うこともあります。芸人でもなんでもないのに。
そのほうが、周りが私という人間を扱いやすくなるし、自分自身の身の振り方を考えるときも困らない。自分の特性がわかることで、人生を選択しやすくなるはず。

…みんなどうしているんでしょう?
「私ってサバサバしてるから」っていうマンガがありますが、あのタイトルってすごい典型例だと思います。
他人がどうこう思う以前に、自分はこうだって自分をキャラ付けしている人。
あくまでも私の予想ですが、そういう人は理想の自分を演じているんじゃないかなーと思うんです、無意識に。それって本当の自分じゃないんじゃない?って私は不安になりますが、それがほぼ自分になるほど確立できていて、本人が幸せなら、それも間違いではないんだと思います。

あと世間では、縛られたくない、多様性を認められたいってムードが強い反面、自分を知るために自分を分類したいって気持ちも高まってると感じます。

パーソナルカラー診断とか、骨格診断とか、エニアグラムとか。
見かけると必ずと言っていいほど、なんかやってしまいます。

みんな「私ってだれ?」とか、「私の個性って何?」って心の何処かで思っているのかもしれませんね。
SNSが当たり前になって、誰でもスポットライトが当たる時代だから。手が届きそうに見える憧れの前で、私らしさや最高の自分を探しているのかもしれません。
もしくは、周りに合わせすぎて自分が見えなくなって困っているとか、最善の人生選択をするために自分探しをしている可能性もあります。

多様性を認めてほしいのに、自ら分類されにいくのは、少し変な気もします。でも、社会は他人から理解を得られたほうが生きやすい。ちょっと悲しいですが、その理解を得るために必要なのが分類です。

だけどここで、生きやすくなるために自分をカテゴリーに合わせて調節するのは、なんかちょっと違う…と感じてます。本当の個性って、多分分類とかなにも考えてない状態の、そのままの自分のはずだから。

もちろん、カテゴリーに合わせていくのも一概に間違いではないです。むしろ周りとある程度馴染めたほうが社内的に生きやすいし、ナチュラルさとか個性にこだわりすぎず生きるのもすごくかっこいい。周りに合わせられる自分を誇りに思ってもいいと思うんです。

そんななかで、「私はどんな人間なの?」としつこく考える私は、めちゃくちゃ個性や素の自分にこだわってるんだと思います、多分。
自分を知りたいんです。もはや自分を知るために生きてるって言えそうなほど。
だからカテゴリーや社会に合わせられない…これが会社勤めに向いていない理由なのかもしれません。

結局最終的に答えなんて出なくて、ずーっと自分の考えや性格は変わっていくんです。
それに、分類しないのであれば、もうあるがままの自分でいるしかないんだから、「どんな人間なの?」という問いかけ自体が愚問です。

ひたすらに、思考を突き詰めていくだとか、自分は何が好きなのか、どんな時にどんな気持ちになって何を思ったのか、そんなことの積み重ねをするしかないんですよね。
それをわざわざ分類せず、ただ思ったことや感じたことを心に残す。
それを誰がどう評価するかはその人次第で、あとはお任せ。

「私はこういう人間です」だなんて、自分で言えなくて良いんだと思います。

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