地球建築家vol.4 村野藤吾 II
様式を取り入れながらも様式から自由になり続けた
村野藤吾の建築は、一見様式的に見える。確かに様式には従っている。
しかし、村野は様式には従いながらも意識的に様式から自由になっていた。
よく見ると、全く様式的ではない。
村野が建築の実務を始めたのは、1929年だった。早稲田大学建築学科を卒業し、渡辺節建築設計事務所に就職した。
渡辺節は1884年生まれだから、村野と7歳しか年が離れていない。少しだけ離れた先輩といった感じだろう。
渡辺は古典主義をベースとした様式建築を自在に設計した建築家だ。時代は昭和初期。明治時代から大正時代にかけて”西洋建築”が世間一般に浸透していた。
ル・コルビジェと村野は同年代である。丁度、”西洋建築”と近代建築の間の過渡期である。”西洋建築”が世間一般に浸透して、それが若い者には昔の古臭い建築と映っていたのだろう。
そんな時代背景もあり、村野は大学時代、様式建築に抵抗していた。そのことがよくわかる言葉がある。
「私は、学生時代はなかなか反抗的で(中略)様式的な問題は少しもやらないで、当時日本へも伝わってきた新しい思潮のドイツのセセッションに非常に共鳴し、そればかりやっていて、先生からにらまれていたのですが、学校を出まして渡辺節先生のところへきて(中略)様式風なものでないと世の中には通らないからそれをやれということで、初めはいやいやながらやっていましたけれども、やっていくうちに興味が出てきたのです」
セセッションとは、分離派と訳され、19世紀の歴史絵画や、伝統芸術からの分離を目指したドイツ語圏の芸術の動きである。
要は流行を追っていたのである。
この気持ちはよくわかる。私も専門学生の頃は、当時建築界のスターであった安藤忠雄や、伊東豊雄、レム・コールハース、ジャン・ヌーベルなどに傾倒した。
今も昔も若者はまず流行を追うのである。
様式は学校の教科書には登場したが、それはどこか遠い過去のものでしかなく、自分には関係ないものと勘違いしていた。私も様式の重要性や美しさが本当にわかり始めたのは、実務をやり始めてからである。
村野の様式に対する考えがよくわかる言葉がある。
「様式の中に隠されていた陰影だとか、線だとか、それからプロポーションだとか、そういうものの美しさに興味を持ち始めたのです。様式だけから出発した人は、今はほとんど枯れてしまいましたけどね。やはり、学生時代に反抗し、その後様式を学び、また現代に帰ってきたということが、私には非常にプラスになっていると思います」。
様式建築は過去の産物ではない。
ロマネスク建築も、ゴシック建築も、奈良時代の仏閣も、そこに美があるから長く愛され現在も残っているのだ。
その「美の法則」は現在もそう簡単に変化するものではなく、人間の本質的な部分に深く関わっている。だから1000年以上の時が流れた今もなお、我々に示唆を与えてくれるのである。
しかし、注目すべきはその後である。
村野は様式に学ぶことは大切だが、それだけではだめだという。様式を学びながらも、そこから離れたり、また戻ったりを繰り返さなくてはいけないといっているのだ。
だから「様式だけ」から出発した人は枯れてしまうのだ。当たり前だが、様式はその当時のものでしかなく、今現在に求められているものは決して様式ではない。
それは設計者の頭で、ウンウン唸って考えるしかないのである。
重要なことは様式から虚心坦懐に学び、美のエッセンスを抽出し、今現在の自分の表現に応用することである。
「村野様式」という言葉が生まれるほど、村野の建築は独特である。
それは様式の相対化の上に生まれている。
村野藤吾は様式を取り込み、そのエッセンスを十分に咀嚼し、消化し、血肉化することで、唯一無二のアウトプットを生み出すことが出来たのである。
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