憧れの京都 Ⅳ 京都駅物語
京都駅は難しい
JR京都駅は、1990年(平成2年)、設計競技(コンペ)によって設計者が選出された。
設計競技とは、発注者が予算や建築条件を設定した上で、設計者を募り、設計案を作成させて設計者を選ぶという方式である。
このコンペは当時、建築業界の注目の的となった。
コンペには国内と国外から7名の建築家が指名された。国内からは、現在、日本で一番目か二番目に有名な建築家の安藤忠雄を筆頭に、原広司、黒川記章、池原義郎といった錚々たる顔ぶれが出そろった。
1回目の審査の結果、安藤忠雄、原広司、ジェームス・スターリングの3案に絞り込まれ、さらなる協議を経て、原広司案が最終案として採用された。
しかし、このJR京都駅のコンペは、設計者が決定してからも様々な論争を巻き起こした。
「安藤忠雄案の方が優秀な案だったのではないか」
「東大卒の原広司が一等となったのは、安藤が高卒の独学建築家だからだ。学歴を比較されたんだ」
などなど。
そして、駅が完成してからも、様々な批判を浴びた。
「京都という世界に誇る古都にふさわしくない」
「でっかい箱を積み上げて、建築家の自己満足」
などなど。
しかし、でっかい箱を要求したのは、実はJR側である。コンペの条件を満たそうとすると、どうしても高く大きなボリュームにならざるを得なかったのだ。
その巨大なボリュームをどのようにして小さく見せるかというところに、どの参加者も苦心したようだ。
コンペ時の原広司案はこちら。
当然であるが、現在の京都駅とほとんど同じである。
黒川紀章案、ジェームス・スターリング案がこちら
わかりづらいと思うが、右のジェームス・スターリング案は、ボリュームを小さく見せるためにいくつかの棟に分かれている。
そして、こちらが安藤忠雄案。
私は建築専門学校生時代、安藤忠雄に傾倒していた。
事実の断片しか見えておらず、えこひいきも手伝って、「安藤案の方が優れていたのに大学を出ていないために落とされたのだ」と勝手に思い込んでいた。
しかし、真相は定かではないが、安藤が落選したのはコンペの条件から逸脱していたのが大きな要因であったようだ。
そして、今、冷静にこのコンペを振り返ってみると、安藤案も模型ではカッコよく見えるが、実際に立ち上がったらそこまででもなかったのではと感じる。
安藤忠雄の代名詞とも言えるコンクリート打ち放し。当然、この案もコンクリート打ち放しで設計されている。安藤はコンクリートの箱の圧迫感をやわらげるように細長い長方形としている。
しかし、実際にこの規模のコンクリート打ち放しの箱が出来上がったら、その圧迫感たるや、凄まじいものになっていたのではないだろうか。筋交いだと思うが、外壁にX型の構造物も見える。あまり美しいとは言えない。
それに、コンクリート打ち放しは時間が経てば経つほど汚れてみすぼらしくなってしまう。それを人々が「味」と捉えることが出来ればよいが、駅という不特定多数が利用する施設ということもあり、やはりそこまで楽観視することは出来なかったのではないだろうか。
結局は、安藤忠雄案も原広司案も、どちらが建っても激しい批判を浴びたのは間違いないだろう。
しかし、これはコンペ要項を考えたJR側にも問題があるのではないだろうか。実際に、デパートなどの付属施設は不要だったとの議論もあり、もっとボリュームを抑えることも出来たようだ。駅に人を集める手段が必要だったのだとは思うが。
長々と書いてしまった。
建築は難しい。そして京都駅は難しい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?