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音楽について


以前、才能についてわたしが感じていることを綴りました。わたしは才能という言葉があまり好きではない、なぜならそれは他人が他人を判断するときに使う、便利で失礼なものだから。


その記事にも書きましたが、音楽と才能の関係というものは、わたしにとってはすごく曖昧で、総じて芸術というものも、誰かの評価が形作っているのものだなと感じます。


今回、そこから派生して音楽そのものについて感じた個人的な解釈を記します。

まず、音楽というものの歴史、根源を見てみると、紀元前1500年前などには、すでに全音階のある楽器が存在して、メロディとリズムという概念があったそう。

たとえば日本でも、昔から豊作を願って音楽とともに雨乞いや舞を踊ったり、神に祈りを捧げるための歌があったり。


わたしは、もともと音楽が好きで、聴くのも演奏するのも好きでした。トランペットを吹奏楽部で吹いていました。

シアトルに来て、趣味として作曲も始めました。映像を作りたい、MVを作りたい、だけど著作権のある音楽は使えない、ならば自分で作ろう、と順序というか動機は変わっていますがそこから音楽を作り始めました。

独学で音楽理論を勉強し、どんなコードがどんな風に機能するのかなどを学びました。

そして、いろいろ調べていく中で、何の本だったか忘れましたが、このような記述を見つけました。

「鐘の音や、金属の音は、時間を行き来するような不思議な感覚があるもので、それが俗世と上界を行き来するので、神秘的な音を奏でる。例えば、日本の寺の鐘や、西洋での教会の鐘やベル。そして仏壇の鈴や鐘の音。」

こういった解釈をみると、音楽や音そのものは生活に密接している面白さを感じます。

それと同時に気づいたのは、それらの行為を通して、私たち自身が音楽に意味をつけている、意味を感じている、ということ。


鐘の音や全音階のあった楽器などは、音楽理論やコードなど、現在ある複雑なものがなかったであろう時代にも存在していました。ではどうやってそういったものを作ったのでしょうか。

それは、単純に人間の耳や気持ちに作用してきたからだとわたしは思います。

全音階というのはドレミファソラシド、ピアノでいう白鍵の音。それらをどうやってまず決めたのかというと、人間が聴いていて一番気持ちいいから。

ドの音は何ヘルツ、ファの音は何ヘルツ、これが1オクターブ、と、ずっと前に作られたものです。

コードも同じで、この音たちを並べると何だか明るくまとまって聞こえるからメジャー、暗く、どこか寂しげなものはマイナー、と、人間の耳によって決められたのです。

もう一つちなみにですが、古代の世界各地の音楽史のなかで、マイナーのコードは悲しい、というのはどこも共通していたそうです。

それらの音は、自然の中で、たとえば火の音はドだったからドが生まれた、ということでもなく、水の流れる音がラだったからそこからとった、ということではないのです。つまり、音楽というのは、人間が聴いていて気持ちいい音を調べて作りあげた人工的なものだということ。

自分が音楽を作っているときも、好きな音楽を楽しんでいるときも、それに気づいて、音楽とは面白いものだな、と思いました。


その起源があってから何千年たった今でも、音楽というのはいろいろ形が変わ理ながらも、たくさんの人たちが楽しんだり願いを込めています。

音楽というものに助けられた、という人もたくさんいると思います。悪い言い方に聞こえてしまうかもしれませんが、音楽というものに勝手に解釈を私たちがつけ、個人で答えを出しているのではないかと。心に響く音楽は人によって様々ですし、育った環境や考え方によっても異なります。世界の人すべてに響く音楽は存在していませんし、存在していたら戦争や悲しい出来事もビートルズやマイケル・ジャクソンがすべて止めているはずです。



今では音楽というのはれっきとしたビジネスのひとつになっていて、昔の中世でも有名な作曲家に宮廷の人間たちが書かせ、お金を払っていました。

わたしが産まれたころにも当然CDというものがあり、コンサートもたくさんありました。


何が言いたいのかというと、音楽というものはすごく自然なものであるが、同時にすごく不自然なものでもあるんじゃないかということ。

遠い先祖たちが雨乞いなどをしているときから自然発生して、音楽は人の心を豊かにしてきましたが、それらは私たち人間が長い時間をかけて作ってきた不自然な音でもあるということ。


極端な例かもしれませんが、コンサートで、歌手が歌を唄い、それを人がお金を払って観ている。歌を上手く唄い、技術を高め、パフォーマンスとして人を楽しませるというのは素敵なことです、が、改めて考えると、なにかすごく変なことをしているな、と思います。歌というのは上手い下手を差し引いたら、誰にでもできること。それをお金を払い、観る。人が食事をしているのをお金を払って観ることと行為としては同じようなものなのかなと。



ここまで書きましたが、別に、音楽がなぜ存在しているのか分からない!だとか、そういうことではありません。わたしは音楽は大好きです。ですが、改めてその根源や成り立ちを冷静に分析してみると、こういった解釈になりました。

こんな考えもあるんだ、と思ってくれれば嬉しいです。


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