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見た人向け!『君たちはどう生きるか』宮崎駿の反省と我々への問いとは何か。考察の突破口に向けて①ー時代考証・モチーフの役割分析

こんばんは!本日公開の『君たちはどう生きるか』皆さんはどうでしたか?

今作は鈴木敏夫Pによる番宣ゼロ戦略などもありSNSでは感想を発信しにくい感じになっていますが、本記事では既に見た人向けとして個人的に感想や関心のあるポイントをまとめていきたいと思います。

今回は主に作品の時代背景と作中のモチーフをリンクさせ、物語のテーマを洗い出すような内容になっております。

どちらかと言うと作品の建前や客観的なテーマ分析というハード面の考察で、キャラクターや物語といったソフト面の分析は後日、こちらで書きましたので興味のある方はどうぞ!

考察等に関してはとりあえず思いついた範囲でポンポン書いていきますので、整合性は二の次となっております。

本記事がもし皆さんの頭の中のモヤモヤへの刺激になれば幸いです!
(なお、もちろんネタバレ前提記事となっています!)


『君たちはどう生きるか』の時代背景と「塔」の関係

まず本作の年表的な時代背景ですが、真人たちが塔の神隠しから帰還した2年後に終戦(1945年)を迎えたと言っていますから、物語は1943年の出来事ということになります。

1943年といえば、日本初の長編アニメーション『桃太郎の海鷲』(軍部が当時の松竹へ制作させたプロパガンダ映画)が公開された年であり、手塚治虫が漫画映画(漫画・アニメ)を志すきっかけになった作品としても知られていることからアニメーション元年と言うこともできる年となっていますね。

本作と同時代を描いた『風立ちぬ』において堀越二郎、また宮崎駿監督が目指し続けた「美しい世界」への挑戦とは戦争や厄災・不幸といった不都合な現実から目を逸らし続ける「呪われた夢」そのものでもありました。

一方で、本作では大叔父さんが制御できないインコ王国内のナショナリズムへの高まりを無視し、歪な均衡を保ち続ける「美しい世界、平和な世界」のために真人を後継者に指名しようとしますが、真人はそれを拒否し友達や母といった現実の人間関係を選択します。(シンエヴァかよ庵野の後追いか〜)

これは前作『風立ちぬ』へのひとつのアンチテーゼとなっていると同時に、宮崎駿監督が本作を通じて戦後という厳しくも新しい時代に対して軍事産業の一部であった飛行機作りとアニメに纏わる「呪い」への決別に対して改めて希望を重ねている、とも考えることができるかも知れません。

さて、その塔?がお屋敷の敷地に空から飛来したのは明治維新の頃、そして大叔父さんがその塔を囲うようにお館?(あんまり覚えてないw)を建設したのはその大体30年後ということですから、あれが完成したのは明治30年前後ということになります。

これまでの年表を整理すると、この塔の内部は明治30年(1897年)前後〜昭和18年(1943年)にかけての日本の状況を模したものではないかと推察されます。

党の中では大叔父さんが連れてきた過激なインコ達が増えすぎていたり、彼らを統べるインコ大王が生粋の国体主義者であることを鑑みると、日清戦争(1895年)で勝利してから増長し続けた結果、第二次世界大戦で敗北寸前の日本の状況ともおおよそ重なるからです。

インコ大王が激憤した国体の正体と「積み石」

さて、その大叔父さんは塔の最上部と思わしき場所で「積み石」を通して世界の秩序を保つ日々を過ごしていたようです。

この「積み石」による秩序の維持とは、天皇制を通した国体維持、国家のコントロールと考えていいでしょう。理由は以下の通り。

・大きな石(神)との契約は男系世襲
→ヒミや夏子は後継者になれないが直系男子を出産・懐妊したため保護される
・インコ大王は国体の正体が「積み石」だとは知らず激憤
→神だと思われていた天皇の人間宣言にショックを受け右派から左派へ転向した論客や政治家の存在を象徴?

などが挙げられます。

ここで描かれた「積み石」のコントロールとそれを司どる大叔父さんですが、この関係を上記の筋でパラフレーズすると天皇制とそれを操作する為政者の関係が見えてきます。ここをどう考えるかはまだ議論の余地がありそうです。

何故夏子を救う物語なのかー女性開放の物語

天皇制の筋へと目配せしながら物語を概観すると、塔における夏子の謎が見えてきます。

夏子は「もう何もかも嫌になってしまった」として自ら森、そして塔へと入っていったことが明かされますが、その森とは夏子自身が真人へと「入ってはいけません」と言い聞かせた場所=禁足地でもありました。

それでは夏子は何故、自ら禁足地に入ってしまったのか。それはAパートで描かれる後家に入った夏子の複雑な心境、つまり生き写しのような前妻(姉)の代わりに封建的な環境の中で妻を演じる辛さや真人との不和が原因だと考えられます。夏子は禁足地に足を踏み入れることで現世(うつしよ)からの逃避を図ったのではないでしょうか。

また、その禁足地=塔の内部に入っても子を宿した女は殺されないとインコが示唆するように、夏子は塔のより奥へと運ばれ、ヒミですら足を踏み入れることができない強力な禁足地で幽閉されます。

ここで夏子が殺されないのは、大叔父の後継者を産む可能性があるから(ちなみに後に夏子が産んだのは男子であることが作品終盤で判明)であり、その産土の地への侵入は神性に対する重大な冒涜であることからも、天皇の神性を国体とする塔内部、インコ王国では看過できない重罪であることは想像に難くありません。

そして、以上を考慮すると、この物語がなぜ真人が夏子を救う物語なのかがうっすら見えてきます。

真人が大叔父の後継の座を蹴って夏子を助けるということは、須く天皇制を中心とした国体主義の否定と、その背景で抑圧されてきた女性の開放を意味します。

今まで宮崎作品に登場する成人女性って基本的に抑圧された女というか、昭和っぽい女性が登場することがすごく多いと思います。前作『風立ちぬ』の菜穂子はそのもっとも顕著な例ですし、女は家の中で夫の帰りを待ちながら家事をするか、元気なブルーワーカーみたいなことが多く、むしろ未成年の少女たちに求められる少女性とはそういう大人の影=社会的な汚れがない美しさだったりするわけです。

そういった女性の陰に目を向けずに、うわべだけ掬い取って美しく描いてきた宮崎駿監督の反省がこうしたストーリー展開に影響しているのかもしれない、と考えることは可能だと思います。

こうした書き方をすると一部の批評家が身を乗り出してきそうで少し癪ですが今回はこのあたりの浅瀬に橋頭堡を保つことに甘んじるとして、もっとも重要なのはどのような形でその物語が駆動されたかだと思います。

過去作のブリコラージュとしての『君たちはどう生きるか』と位相のズレ

塔とその内部の出来事がどのような世相を反映し、夏子やヒミを救うストーリーがどのような趣旨で展開されていたかが概観し終わったところで、ようやく細部に目を向けることができます。

本作ではジブリ作品のオマージュが散見…どころか盛り沢山で、見方によってはそのブリコラージュ(寄せ集め)だということもできます。

しかし、単なる寄せ集めや総集編ではなく、それぞれの元モチーフとどう異なり補いあっているかを観察することで初めて、集大成としての新規性を評価することができると思います。そしてこのポイントが本作の白眉であり、今まで検討してきた考察を全て検証し直す契機となるでしょう。

例えば、裏山にある禁足地の森とはまさに『となりのトトロ』のあの森が連想されます。メイは低木のトンネルを抜けてトトロと会うことができましたが、メイのお父さん(大人)はそれが不可能でした。一方、今作では真人と共に鳥目のキリコさんがトンネルを抜け塔まで辿り着くことができます。この点、本作はトトロと似ていながらも全く別の結果を提出しています。

『崖の上のポニョ』におけるグランマンマーレと地獄ー『風立ちぬ』における煉獄との対比、宮崎作品3度目の神隠しー『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』との連関、などなど細部を検討したら枚挙にいとまがないでしょう。

何故ならこの連関こそが、まさに宮崎駿が自らの生を省察し、その上で我々に問いを投げている一連の運動となっているはずだらです。

この辺を細かく検討することが、本作を批評する上での突破口になるであろうことまで見通しをつけたことで、とりあえず今日はここまでとします。

まず、まだ1回しか見てないのでまた見なきゃいけませんなぁ。

もうねみぃ。

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