生成り

 ここ2年ぐらい、三島由紀夫がNHKから受けたインタビューだったかと思いますが、その中で、

「私は、死を恐れないか。そりゃ私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのもとても嫌で、考えただけでもとても恐ろしい」

 という発言が頭の中から離れません。これは何の暗示なのか、と情けないのですが最近になってからようやく考え始めました。一時、私も自分の死を恐れていました。

 一番最初に人の死を意識したのは、中学校を卒業したばかりの時、「友人が死んだ」という連絡を受けた時でした。ネタばらしをすれば、彼女が死んだのではなく、彼女の母親が死んだ、という報せを勘違いしていたのですが。

 とにかく、その時その友人とした喧嘩のことばかりを思い出し、もっと自分のはたらいた無礼を謝罪すればよかった、という後悔を考えましたが、続いて例えば自死などで自分が死ねば、自分が今まで積み重ねてきたり、集めてきたすべてのものが何の意味も持たない無に成り代わることと感じ、一種の生への無力感のようなものを思いました。私が死んですべてが無に帰すのであれば、一体私はどうして生きているのか、私の親は可能性として私より早く死ぬのであるのに、どうして私のためにいろいろなことをしてくれるのかを考えました。無自覚でこそあれ、少なくともその頃の私は自身のためにしか生きていませんでした。

 罪悪感から逃れるのは、無に帰す自分の死ではないのか、とも思い、自死を考えたこともありました。しかし、いざ自分の命を絶とうといくらカッターを左手首の上においても、石像のように右手が動きませんでした。動かせば楽になる、と思いながらも臆病に私は命を救われ、そんな自分のすべてを受け入れて生き続けるしかないのでした(今思えば人生経験の少なさから自分の能力を大層に過小評価して自身に絶望していたのかもしれません)。

 ある日、父親にどうして私のために色々してくれるかを問うと、彼はこう答えました。

「子供が幸せならそれでいい。親なんて、そんなものではないのかな」

 誰かを尊敬するのであれば、その人がする失敗や愚行も含めて尊敬するのが本当の尊敬なのか、はたまたそれは無責任の裏返しなのか。その尊敬が親の愛情なのか。愛情を子供に注いだ末に彼が死んだのであれば、彼はその時何か恐怖を感じるのか。

「いつ自分が死ぬか分からない、そんなことを思っていれば、人間は不思議なもので妙に幸福を感じるものです」

 なんだか怪しい宗教のような感じはありますが、あれから様々な宗教の考えに触れ、人がどれほど死の恐怖を必死に乗り越えようと深く広い海の上で船を漕いできたのかを思い知ります。三島由紀夫は晩年、政治色を強め、2・26事件をもとにした「憂国」を書いたり、「豊穣の海」を書いたり、とし、最終的に「自分はきっとそんな大義を持ちながら死にたいと思いながら畳の上で死ぬのでしょう」と言いいながらも、クーデターを起こし切腹して自らの命を絶ったのでした。

 そういえば私の好きなアーティスト、スピッツの草野正宗も、調べれば私と似た経験をしているらしいのです。彼が幼少のころ、彼の祖父が亡くなったそうですが、その時に私と同じ所感を得たそうです。そういった経験もあり、彼の書く歌詞には時にセックスへの渇望を放ったり、死の情景が濃くなるものがあるのでしょう(「青い車」、「ビー玉」、「ロビンソン」などですが、それはまた別の機会に)。

 とにかく、そんな風に自身の死を恐れていると言った三島由紀夫が、最終的に自分で自分を殺してしまったことが、私にとっては大変衝撃的に思え、自分の死が恐くないと思っている今の私は、果たして本当に自分の死の恐怖に打ち勝ったのかと思う、今日この頃です。

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