香山の14「仮想化」(32)

 明がお宮を連れて出ていった。ドアを閉める音がして、私は一人ぼっちになった。何となく、私はドアの淵を撫で、ざらつく素材が指に与える感覚を楽しみ、やがて私は退屈した。
 頭の中に、キャバクラの店内が映し出された。隣に座る嶋が笑っていた。過去を想起しているのだと気づき、彼の笑いの前の発言を私は思い出した。
「俺も含めて、この世の中は実に吐き気のするほど穢れた人間どもであふれていると思っている。みんな、馬鹿から金を合法な形で盗み取っているんだ。信頼の壁に向かって知恵の糞便を投げつけて、その壁を見ては清々しい達成感を覚える。そして『さあ、明日も頑張ろう』と言うんだ。それが、俺達が呼ぶ労働というやつの黒幕さ。俺は今日、気まぐれでせめてもの罪滅ぼしと思って、馬鹿どもから奪った金を、ここで働き、人身で商いをしている馬鹿どもに返してやるんだよ」
 侮蔑は先の発言からも明らかであった。彼は、こらえきれぬように笑っていた。ここで働く女性が、男性が、裏で涙を流していることを知っていた私は、やはり彼に賛同することができずにいた。それでもそんな男を目の前に、私は愛想を振りまいていたのだ。自分はここまでに他人に媚び、見えない人への侮蔑を許してしまっていた。自分の過去は不可逆な決定性を持つため、過去に戻れたら、などと夢想することは決してなかった私が、この男を殴り、店を離れればよかった、と一人で繰り言をしていた。
 しかし、仮にこの男を殴っていたとしたら、と考えると、今の私の経済状態はどうなっていたのか。きっとこの業界のコネも得られず、生活の安定を望んで手を抜いた犯罪を働いて懲役を自ら望んでいたのだ。頭のどこかで、金銭が得られず所在を得られぬ仕事をするよりは、檻の中の生活がいいと思っていた。彼を殴り、細々と生活することを、今の潤った私が心底望むとは考え難い。では、やはり私はこの男を殴らなかったことを称賛する心理にあるのか? だとすれば現存の私は、矛盾そのものではないか! 矛盾をかき消すことができないのなら、しかもそれが罪悪の苦悩ととらえるとするなら……。
 改めて私は、博多駅の人々を見回した。彼らと私は根本で共有するものがあるのだ。誰もが人目のないところで倫理観に唾を吐きつけ、生存の欲求を実現するために生きている。すると彼らはきっと言うだろう、『私達と犯罪者と同じにするな』、と。しかし、誰もが社会契約を恐れて道から大きく外れぬようにしているだけで、その上にちょうど良くつまづくように配置された小石があったのであれば、刹那に私と同じレッテルを持つようになるのだ。『犯罪者』など、人間が超偶然に配布する安っぽいちゃちなレッテルなのだ。法律的犯罪は、あくまで自然権から経験や演繹をもって導かれた行儀のよいお約束である。いったいこの中の何人が一人暮らしの部屋で正座して飯を食っていると神に誓えるのであろうか?
 かつて私は和白という大変に辺鄙なところに住んでいた。どうにも金がなかった当時の私は、畑の野菜を盗み、腹が満ちるまでむさぼった。それが善なのか、悪なのか、ではない。その作物の裏にある年間通しの苦労を私は、完全に思考から消していたのだ。それは、他人の痛みなど想像の極限にあるもので、そんな得体の知れぬものを自己生存の論理に組み込む必要がないと確信していたからだ。この国では、法律を破り、国家システムの機構に絡まれば収監される。それが単なるシステムというものなのだ。遠目で見つけた脆弱性らしきものをつついてシステムの網を潜り抜け、私はかろうじて寿命の延長を図っている。社会形成の観点や労働への姿勢から見れば、私は『嶋』と何らの相違を持たない。
 論ずるまでもない、了解されたことであると思うが、私が進んで殺人を請け負っているなどと勘違いしてはいけない。第一に私は、殺人に生理的な嫌悪を覚える。少なくとも今はその自覚がある。
 殺意がなかったとはいえ、お宮が私の首を絞めたとき、私は今から縊り殺されると誤認したのだ。そして、一時的に死を完全にわがものとしたのだ。その瞬間、私は確実な死を目前にしたのだ。あの瞬間に私は、自分が人生を悔いていることを思い知った。風俗店で働いていたときに芽吹いたあの感情など、若さゆえの誤謬で、とうに消失したと思い込んでいたのだ。しかし、確実にあのハチロクの中で、追い払ったはずの罪悪が、私の中に培われ始めたのだ。私が人を傷つけたとき、私も傷ついていたのだ。
 あるときには私は罪悪感から悪夢を禁じえなかった。こんなはずではなかったとむせび泣く農夫、子供の死をしらされ、かつてなされた過度に行き過ぎた叱責を宛てもなく謝罪する夫婦、喪った恋人の切手コレクションを抱きかかえる背中、植え付けられた仮構の期待を裏切られた客に容姿をののしられるソープ嬢、偽物の愛に自尊心を無残に扱われた女達。そして、ソープ嬢が再来した。……

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