香山の40「カーネル・パニックⅩⅣ」(58)

 啖呵を切る彼を前に、まだ認めようとせずに反論した。一つだけ、まだ反駁するための余地があったからだ。それは明から提供されたものだった。私は次のように言葉を詰まらせながらしゃべったが、この一文ですら理路整然に見えるほど実際には要領を得ない具合であったことは忘れていない。
「しかし、しかし、まだ、その原稿に、この世界が現実であることをしめす証拠能力などないではないか。柴田隼人が、こういう、お前が、その原稿を、俺に、見せるという原稿を、書いたのかもしれない。そうか、彼はきっとまだ生きているんだ」
 明が何度か補足を求め、私の言葉は時間をかけてやっと何とか意味を為して、私を叱りつけた。
「馬鹿を言うんじゃない。俺は、しっかりと奴の喉笛を切り裂いたんだ。奴は煌めく赤色の血を噴き出しながら、『どうして、どうして』と繰り返していた。自分が死ぬ理由を全く理解できていない、よく見るタイプの、面白みのない死にざまだった。奴はただの人間だったんだ。神なんかでは決してなかった!
 そして、お前は今この原稿の証拠能力云々の話をしたね。では、仮にお前の主張通り、この世界が虚構で、真実としては現実世界なるものが外界に存在するとしよう。では、その現実世界とやらにいる生命どもは、一体どうやって自分の住む世界が現実だと認識するのか? 万有引力か? それとも自身の五感か? いいや、それらのどれもが『仮想現実内での設定である』と主張されれば証拠能力なんぞ一瞬にして失われるものばかりだ。では彼らは、(そして俺達は)、どうするのか? 無根拠のままに信頼をあずけて、自分の場所に安住する他ないんだ。ほらみたことか、虚構と現実の違いがあるなんて、ただの迷妄ではないのかね。虚構の代表とされる映画にだって、現実の人間はその影響を拭い去ることができない。ならば、映画も現実の一つとしてもいいではないか。人というのは、自分の住む世界は、すべてが現実か、すべてが虚構か、そのどちらかを各々が選択するしかない。そして多くが甘んじて現実であることにしているんだ」
 彼の叱責を聞きながら、自分が本気で逆らうつもりがかいくれ無かったことを悟るのであった。彼の白い光を浴びながら、安らいだ気持ちで言った。

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