香山の44「ジュテーム?Ⅱ」(62)

 車を降りて、空を見て、そして海を見た。漣が緩やかな音楽を奏で、時折大きな波の声がした。波の声は殺意を持っているように思えた。急にしゃがみ込みたくなったのでそうすると、嗚咽した。「怖いよ、俺は怖いよ……」
 入水せねばならないと考えて、戦慄していた。内にある恐怖が言葉になることを許されて発されたのだ。
 暗がりに目が慣れ、周りの草原の形が鮮明になってきた。夜の海には漁船の発する光がのろのろと動いていた。空には貼り付けられた星の光、道路に縛り付けられた街灯ども、魅力を発揮しようと喉を鳴らす虫たち……煌々と私の絶命を望んでいた。うずくまったまま身震いした私は、車の中に置いてあった酒瓶に口をつけて注ぎ込んだ。凍てつく風を温めるように酒が肉体を火照らせた。熱を得て、姿の見えぬ味方を得た気がした。恐怖の涙で頬を濡らしたまま、下を向いてこう言った。
「さあ、行こうか。これが俺の神秘だ。許しはこの海の中に」
 塩を浮かべた頬、口は笑っていた。羽根が生えたように体が軽かったが、敢えて私はゆっくりゆっくりと草原を超え、砂浜に降り立った。サンダルと足の間に砂粒が入る。床が抜けたように足がとられ、後ろへ転倒した。酒瓶は手から離れ、ポケットから喫煙具が飛び出た。
 私は仰向けのまま煙草に火を灯し、今生最期の喫煙をするべく立ち上がった。髪の毛から砂粒が降り、服の中に入ったのがどうにも気持ち悪くて体をゆすった。ふっと息を吐くと、白い煙の描いた線が潮風になびいて崩れ去った。
 再び歩き出して、直ぐに膝をついた。また足指に砂が入った。そのまま両手をつき、額を浜につけた。夜風が起こって体を冷やされたが、意に介せずそのまま動かなかった。……神様、申し訳ございません。そういえば、今人が見れば、彼は私を止めるのであろうか? 止められたら、止まるというのに。
 かくて漸く足を運びはじめた。
『どうにも死なねばならぬ。それも海で』
 ずっと考えていたことだったので、今更迷いはない。契機となったのは、見知らぬ女性歌手の飛び降り自殺のニュースだった。そんなことで死ぬきっかけを得たのだ。今振り返っても、やはりあんな女にできて私にできぬはずがない、とかすかに残った高邁が私を奮い立たせた。
『こうなることは決まっていた。誰にも止められることではなかったのさ』
 恐怖に打ち勝ち、心に暗黒を抱えながら私は波打ち際にたどり着いた。足元の浜は湿っている。
 渚では命が生まれて、絶えてゆく。そんなことを子供のころにアニメで観たのだった。ちょうどそれを体現する前だった。このまま歩き続ければ、海は私の足を奪い、呼吸を奪い、命を奪ってくれる。そう思うと、海からいただいた命をそのまま海に返上申し上げるのに等しい。これが命のあるべき姿でなければ、一体他に何が可能だろうか? すると、疑問が固持を根拠づけ、いよいよ死ぬべきだと思い、心の暗黒が融解していく心地がした。
 生暖かい夜の海風を浴びた。海の向こうでは、大きなパソコンがひそひそと何かを話していた。時折クレープを液晶に映し、それを地中に埋めていた。星は、絶え間なく粉々になって砂の雨を降らした。砂粒一つ一つには目を凝らせばよく読める文字が書いてある。文字を読めば、「ちりぬるお」と書いてあった。『「お」ではなくて、「を」なのに……』と、矛盾が心にちくりちくりと痛んだ。西へカレンダーが七枚ずつ飛んでいく。私は飛び上がってカレンダーをつかみ、破り捨てようとするが、悉く手が切れてゆく。水銀の血を流して、小銭の涙が頬を濡らしたので、ポケットの煙草をすべて食べた。
 意表を突いた高波がやってきて、足を打った。海は足を貫くような冷たさで、私は考えを一瞬にして反転させた。そこから先は脊髄反射の所業だった。涙を流しながら走って海から逃げて、悲鳴を上げていた。草原を抜け、車のそばまできて私は再び嘔吐した。手で口周りを拭い、中に入った。心臓が私を叱りつけるように拍動していた。大それたことだった。自分には自分を殺せるほどの勇気がないと気づいてしまった。
 その日はハチロクの中から、腫れあがった目で朝日を拝んだ。
 それでも、死なないことが自分の清福であるはずがない、と信じた。
 考えた挙句、中崎に電話をかけることにした。

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