香山の12「オーバードライブⅡ」(18)

 天神の書店に着くと、私はどことなく店内を歩き始めた。興味のないミステリー作品の棚へ行き、私は本を実際に手に取ってみせ、難しそうな表情を作っては戻す、を繰り返して、こう言った。
「お前は何か見たい本があるのかい」
「別に、ないね。本だとか、論文だとか、活字というのはどうも衒学的な感じがして俺は好きになれないな。一種のアレルギーみたいなもんさ」
 すると、棚と私の間に空間を見つけた男女が、すみません、と割って入った。私は反射的に彼らと距離を置いた。人生の中で、他人との衝突を避けるために作り上げたアルゴリズムを無意識に適用したのだ。男女は、私達を無視してそこで会話が盛り上がっていた。痴話話を傍らにしてばつが悪いと考えた私は、別の棚へ向かおうとした。すると、明が私に、高らかな声で話しかけた。
「迷惑な人達だね」
 人達、というのであれば、対象は私ではないことはすぐにわかった。彼は、私ではなく男女へ向かって文句を口にしているらしかった。私は、この男女に一切の敵意を抱かなかったために、突然敵意をむき出しにした彼を前に閉口し、かろうじて質問を聞き返すことしかできなかった。余計なトラブルに巻き込まれるのを拒んで、彼が発言を取り消してくれることを期待したのだった。しかし、聞き返された彼は、取り消すどころか先ほどよりも、声量を上げ、大げさに言った。
「いや、一体なんて迷惑な人達なんだろうね! と言ったのさ。これで聞こえたか?」彼は表情を無くしていた。「この二人は一体、人の道理を知らぬのか、知恵遅れめ」
 私はひどく動揺した。当然男女は驚き、会話をやめて明を見ていた。彼らも、自分たちがここまで直接暴言を吐かれるとは思っていなかったのだ。振り向いた女が口を開いた。
「でも、すみません、と言いましたよね」
 女の言い分は分からないでもなかった。すみません、には『前を失礼します』の意が含有されていたのだ。明確にそれを口にしなかったのは彼女のミスかもしれないが、こんなことは腹の立つことではない。街に出れば何でもない、ありふれた場面であった。互いに互いが迷惑で、どちらかが譲歩すればそれで済む話なのだ。今回は幸か不幸か、私達がが譲歩する役回りだっただけだ。しかし、明は彼女のそんな一見まともな反論を受けても、全く屈することなく言い放った。

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「じゃあなるほど、君はさっきの『すみません』で、『どけ』と言いたかったと、こう言うんだね? こうなったら仕方がない、君達に本当のこと、真実を教えてやろう。こちらにいる方は、盲聾者でいらっしゃるのだ! ヘレンケラーのレベルの苦難を抱えて、今までの人生を生きてきた! 毎日、毎日、大変だったろうに、俺はこの方に気に入っていただけて、こうして本屋まで同行させていただき、お手伝いをさせていただいているんだ。こんな思いをさせてしまって、俺はまったく情けないよ。しかしなぜ君達は、真実を知らされてもなお、今こうやってつっ立っていられるのかが不思議でならない。俺が君達なら、今頃、膝をついて、地面にがらんどうの頭をこすりつけて、涙を流して、この方に許しを乞うところだね! いいや、待った。もしかしたら聞き間違いだったのかもしれない、決めつけてかかってはいけないね。では、もう一度、自分の良心に誓約して言ってもらおうか。君は先ほど、何と言ったのかね?」
 女は怪訝な顔で男に、行こう、と言い、二人はその場を去った。彼らはきっと、後で明に対する不平を言うに違いなかった。横にいる明は、とても満足そうだった。彼は、本を見るつもりなど毛頭ないのに、『悪魔のきまぐれ』とやらで男女を押しのけたのだ。しかし、彼の激烈な言動をきくとそれは『きまぐれ』で済む事態ではなかった。『衝迫』であった。
「見たか、あいつら。さしずめ礼儀を心得ない愚者が本屋に来たってところか。ひょっとすると俺は、愚の世界から抜け出そうと必死になる愚者を、淵から蹴り落としてしまったのかもしれないね。まったくそう思うと、俺は……愉快でならないよ」
 私は、一種の詭弁をしゃあしゃあと並べて人を乱暴に追い払う彼を目の前にして、茫然自失としていた。彼と会ってから時間も経たずにその片鱗を露わにした狂気を、受け入れるのにもう少しの年月が必要だと感じたためだ。そして、佇んだ私に彼はとうとう矛先を向けたのだ。
「おっと、思わずあんたを共犯にしてしまったらしい。まあ、別に気にすることでもないさ。誰だって、死ねば無になるんだからな。そこには何も残らない。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。あっはっは」
 私は、明と自分の間に横たわる決定的な違いを思い知った。そして同時に、ものごころついてから良人などというものはついぞ信じられなかったが、私は彼がそれをきれいに逆さまにした人間だと知った。彼とうまく接するには、もう少しの時間と、知識が必要だった。そしてこの職には適任なのかもしれない、とも思った。

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