長崎には女傑がいた
長崎県でボイスレッスンをさせてもらった日のことだ。
日曜日の朝
「丘の上の神社にお参りしてきます」
少し曲がった石段が、丘の上まで続いている。
「お栄さんの道」と刻まれた碑(いしぶみ)が目に止まる。
「誰や、お栄さんって?」
という事で調べてみた。
「稲佐お栄」と親しまれた道永エイは、万延元年(1860)天草四郎時貞で有名な天草大矢野島で出生、12才の頃来崎し、シベリア、上海へもロシアの軍艦で渡り、長崎に落ち着いた後はホテル業を以て国際親善に尽くした。坂本龍馬ら勤皇の志士を助けた大浦お慶、日本で初めての西洋流女医シーボルトおいねと共に長崎の三大女傑といわれる。昭和2年(1927)数え年68才で波乱の生涯を閉じた。
「この丘の上にホテルと住居があったんか」
ロシア皇太子ニコラス二世を長崎で、もてなした。多くのロシア人に愛された人だった。
日露戦争が開戦すると「非国民」などと罵られ、家に投石されるなど迫害された。
それでも、戦争に負けたロシア軍捕虜を、稲佐全域80軒で収容し世話をしていた。
「なんて情の深い女性なんや」
女傑(じょけつ) とは、
気性・言動などが思い切りがよく、大胆で、すぐれた働きをする女性。女丈夫(じよじようふ)
丘の上の烏岩神社で、ここに集まる女性たちの幸せを祈る。
会場に戻ると、
令和の女傑たちが、お面をつけて踊っていた。
「あゝ、お栄さんの魂が宿ってるなぁ」
ここは人を笑顔にする、不思議な場だった。
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