見出し画像

「10人の天才」橋本絵莉子

普段は情報を追っていないから、テレビに出ていてもラジオに出ていても気が付かないのだけれど、たまたまライブとかやらないんだろうかと情報を見ていたら、テレビに出るというのを知ったから、「10人の天才」という番組を見た。

10人にはマティスが入っていて、なんだろうと思ったら、『日記を燃やして』の絵は、マティスの絵を見て絵を描こうと思ったところからできたものだということで、その話をもっと聞きたかったりしたけれど、それはあっさりしたものだった。

けれど、もしかすると、それについて語ったけれど、ただ描こうと思ったとしか言っていない話になって、わざわざそこを流すと見ている人が「???」となるから、ナレーションで説明して終わりになったのかもしれない。

橋本絵莉子の選ぶ10人は、なんというか、本当に地に足のついたというか、格好いいことを言う気もなければ、自分の人生を語る気もない感じだった。

10人を選べと言われた時点の、今の自分の中に、まだ感動が残っている気がするものから選んで、ちゃんと自分の中にどんなふうに受け取ったものがあるのか語ろうとしている感じで、本当に橋本絵莉子らしいなと思った。

素朴な感想しか言わないようにしていることの誠実さみたいなものを見せつけられた気すらした。

そして、個人的には、10人の中に平野啓一郎が入っていて、嫌な予感がしたけれど、やっぱり分人主義のことを語っていて、橋本絵莉子が分人主義を面白がるのかと思って、ちょっとおいおいと思った。

しかも、図解なんかも表示しながら、どういう概念なのかを説明しだしたりして、番組的にも特にしっかり取り上げている感じで、やっぱりメディア関係者とかには分人主義が好きな人が多いんだろうなと改めて思った。

けれど、分人主義の説明の説明の後で、東野幸治からの、創作上の悩みみたいなものがそれによって解きほぐされたとかそういうことがあったのかというような質問に対して、橋本絵莉子は、創作にはそういうのはまったくないときっぱりと言っていて、東野幸治的には話の流れ的に想定外だったのか、そこでずいぶん盛り上がっていた。

俺からすると、橋本絵莉子が創作の過程で、ばらばらな自分に振り回されて本当の自分がわからなくなるとか、そんなことを感じるわけがないから、最初からそういう話として聞いていなくて、東野幸治が創作のことを話し出しだして、不思議な気持ちになっていた。

東野幸治はチャットモンチーで好きな曲は「染まるよ」らしくて、バンドとしてイケイケだった時期までを主に聞いていたのだろうし、そこまで橋本絵莉子の橋本絵莉子らしさというのにどっぷり浸っている感じで聞いていなかったのだろう。

けれど、橋本絵莉子自身、曲を作ったり演奏したりしている中では、本当の自分がわからなくなるような感覚は自分には完全に無縁であることをわかっていて、それでも分人主義を面白く感じるというのは、どういうことなんだろうなと思った。

自分が音楽しているときは、自分の心のスピードで何かを思って、それを形にしようとしていられるけれど、それ以外の状況では、他人がわーわー言ってくるのに合わせていることが多くて、合わせているうちに、自分もそういうふうにしか感じていないような気分になるけれど、そういう時間が多くて、ふとしたときに自分を置き去りにされている感じがしているとか、そういうことなのだろうか。

けれど、そういう置き去りにされている感覚を含め、そういういろんなときのいろんな感情をすべて包括するような自分の中のもやもやからむくむくと浮かんでくる自分の自分でしかなさみたいなもので、いつだって歌詞を書いたり曲を作って演奏してきたのだし、橋本絵莉子という人は、むしろ自分の全部をしっかりと生きられている度合いの高い人なんじゃないかと思う。

音楽しているときと、それ以外とで、自分の心のスピードのまま、自分の心を確かめながら生きられている度合いが本人にとって違いすぎるというのはあるのかもしれない。

自分を手放しているような気分になるくらい、相手に合わせた自分として振る舞っている状況が多くて、けれど、そのひとつひとつで、幸せだったり、むかつくけど納得できたりとか、それぞれに充実できてもいるように感じて、音楽していないときの自分を大切に思えるようになったことで、そういう感覚が強くなったとか、そういうことなのかもしれない。

分人主義という概念の読者ターゲットとなっているのは、本当の自分がわからなくなるような感覚に居心地の悪さを感じている人たちなのだろうけれど、橋本絵莉子のことを知っているわけではなく、橋本絵莉子の音楽を聞いてきただけの人間からすれば、むしろ、橋本絵莉子ほど、本当の自分で曲を作って演奏し続けてきた人もいないんじゃないかというような印象すらある。

俺はいろんな音楽を聞こうとするタイプではないし、色んな人の音楽を聞いてきたというわけではない。
それでも、俺からすると、橋本絵莉子ほど、何かをやってみることでインスピレーションを得ようとしている感じではなく、今の自分にとってしっくりくることを大事にして、自分から生まれてきて、自分がそれがいいと思ったからそうしたということだけで曲を作ったり演奏しているように聞こえてしまう人もいなかったりするのだ。

又吉直樹が、東野幸治のあなたにとって分人主義はこういうことなんですねと物語化するようにして差し出した質問を橋本絵莉子がきっぱりと否定した光景に対して、「本当の会話を見た」と言っていたけれど、たしかに、あのとき橋本絵莉子は東野幸治が自分についてあれこれ想像してくれたことを少しでも肯定してあげようという受け答えの仕方をしていなかった。

相手に期待されている振る舞いをちゃんとやってあげることで、会話はほとんどそう言っておくほうがいいからそう言ったことで埋め尽くされて、予定調和的なものになっていく。
そうではない会話が本当の会話というのなら、あのときの東野幸治は剥き出しの本当さに横っ面を張られたような感じだったのだろう。

他人との人間関係や利害関係の中ではまた別なのだろうけれど、自分の音楽に関しては、橋本絵莉子は役割期待みたいなものに応える気がそもそもなくて、ただ自分はそうだからとしか何を聞かれても応える気がなかったりしているのだと思う。

橋本絵莉子という人は、それで音楽していられる人なのだし、どれだけ誰かの何かに似ていたとしても、橋本絵莉子から出てきたものにしか聞こえないという意味で圧倒的にオリジナルなものに聞こえる音楽しか作れないかのように、ずっと素晴らしい音楽を生み出し続けている人なのだ。

生活の中でいろんなことを思って、分人主義をなるほどと思って面白く感じながら、それでも、音楽をしようとすると、何を取ってつけることもできなくて、誰に合わせようとしても自分なりにしか合わせられなくて、自分の肉体や感性と深く結びついたイメージでしか身体も口も動かせないかのようにして、あまりにも自分でしかない音楽しか作ろうとしないのだ。

分人主義という概念に何かを見出そうとしている人たちにいろいろ思ってしまうのは、本人にとってはそんな気分になることがあるのはわからなくはないけれど、その人を見ている他の人たちからすれば、その人が自分といるときとはかなり違った態度で他の場所で人と関わっている姿を見たからといって、どうしたってその人はその人にしか見えなくて、そういう意味で複数のその人なんて存在しないのに、どうして本人が複数の分人を自分は生きていると自認するのか、どうにも理解しがたいものを感じてきたからだった。

(それについてはこれで短めに書いた)

俺からすると、本当の自分なんてないと思っている、自分の行動が自分だと思っていて、自分の肉体を自分だと思っていない、他人にとっての自分が見えていないタイプの人たちに、本当も嘘も、自分なんてその人の肉体と記憶なんだから一つしかないということがどういうことなのかわかってもらうのにちょうどいいサンプルが橋本絵莉子であったりもするくらいなのだ。

音楽自体は過去の音楽家等を参照することからしか生まれなくて、音楽の構造とか部分の成り立ちを取り出して、そこでオリジナリティーがどうこういうのは、あまり意味のないことなのだろう。

けれど、演奏を聞いていて、演奏されているもの全体から異様にその人でしかなさを強く感じる人というのがいて、それはどういうことなのかということなのだ。

橋本絵莉子の場合、それは、曲を作っているときや、演奏しているときほど、何かになろうとしているというよりも、ひたすら自分のままで素直になろうとしているような、そういう集中して生き方をしているからなんじゃないかと思う。

何をどういうつもりでやっていても、その人の記憶が刻まれたその人の肉体でやっているかぎり、その人がやっている、どうしたってその人にしか感じられないものしかやれないのだ。

誰だって、本人は役割期待に振り回されて分裂しているつもりでも、どうしたってその人はその抑圧され方や、無理させられ方や、疲れてしまい方の、そのすべてがその人らしいはずなのだ。

そして、橋本絵莉子とは、むしろ、誰よりもそうじゃないふりをしないでいる人なのだろう。

そんなままで、ずっと音楽を作り続けているというのは、本当にすごいことだなと思う。

何かじゃないふりをしないで生きても、なかなか誰からも楽しそうに思ってもらえないものなのだ。

橋本絵莉子は、もやもやするものを抱えたまま、もやもやしていないふりはしないなりに、少なくてもそうなんだろうなと自分の中で確かめられたもので顔を上げて目の前のものを見ようとするような、そういう音楽を作ってきたのだと思う。

俺は2021年のベストアルバムは『日記を燃やして』だし、ライブで「ワンオブゼム」がすごすぎて涙が溢れていたし、ずっとすごいなと思い続けている
けれど、人間が音楽をやっているのを聞くつもりではなく、聞こえてきた音楽からいい感じに思えそうなところがあったら反応しようというというつもりで聞いている人からすれば、『Awa Come』以降は全体に引っかかりにくい曲になってしまっているのだろうなと思う。
(とはいえ、『Awa Come』でも「ここだけの話」は橋本作詞作曲作品の中でも特別素晴らしい曲のひとつだと思っているけれど。)

そして、それがわかっていても、それまではバンドがそういう状態だったからそういう曲になっていたわけで、そういう状態じゃなくなったあとで、そうじゃなくなっていないかのような曲はやれないからと、そのときのバンドから出てくる曲をやり続けてきた。
(『YOU MORE』にしても、「余韻」はすごく好きな曲だし、そのときの俺が観に行ったライブの最後の曲は「余韻」で、すごい演奏だったし、終わってから、一緒に見に行った友達と、これで終わりなんだろうなと話していたから、高橋久美子の脱退はまったく驚かなかった。むしろ、ちゃんとそうやって曲を作って、それだけのライブをやっていたなと思って、どこまでも自分たちの本当で音楽をしていることに、本当にすごいなと思っていた。)

自分には自分の肉体と自分の心しかないと、素直であることで何かを生み出しているようなタイプの人がいて、俺はオールタイムベストアルバムが国府達矢の『ロック転生』と『ロックブッダ』だけれど、国府達矢にも、音楽をやるうえで、自分の肉体と自分の心(と自分の記憶)しかなくて、素直になることでしか何かを生み出せないひとのように感じていて、どちらのひとにしても、曲が好きという以上に、演奏として響いている感じが好きなところで自分にとってかけがえがないものになっているという意味でにた存在になっている。

そういう意味では、people in the boxの波多野裕文が、国府達矢の久しぶりの新作に推薦文を書き、橋本絵莉子波多野裕文をやり、両者を特別な存在として扱っているのは、俺からするとすごくしっくりきた。

波多野裕文もpeople in the boxであまりにもpeople in the boxでしかない聞こえ方をするものを作り続けている人だけれど、そういう志向性を持った人からして、自分でしかなさに充実することで音楽を生み出しているように聞こえるような、あまりにも無邪気にあっけらかんとした感動は、とても眩しく感じられるものなのだろう。

自分が自分を動かし続けてきた自分の感じ方や思い方に充実して感動することがゼロからイチになるようにして生み出される音楽というのがあるのだ。


けれど、そういう音楽家というのは比率としては減ってきているのだと思う。

音楽でもスポーツでも料理でもその他創作でも何でもそうなのだろうけれど、単純に、不器用な人は勝ち残りにくくなったし、インプットのセンスというか、抑えるべきものを的確に抑えたうえでものを作っているでないと勝ち残りにくくなっているのだろうし、それはこれからも変わらることのない傾向なのだろう。

どういうジャンルであれ、技能を向上させるための情報に無限に触れられるようになって、多くの人が適正な努力を積み重ねるようになって、全体的なレベルが上って、スポーツなんかでは、みんなが真面目に努力して技術が高いから、そのうえで生まれつきの身体の強さや大きさで勝ち残れるかが決まっていく度合いがどんどん高くなっている。

あまりにも多くの人たちがあまりにうまくやれるようになった世界で、うまくやれている人たちのうまくやってくれているものに気持ちよくなってたくさんの時間を過ごす中で、ひとは他人のその人らしさを感じることにどれくらい喜びを感じていられるのだろうと思うし、どれくらい自分らしさを他人に喜んでもらいたいという願いを抱え続けていられるのだろうと思う。

分人主義的な感じ方をしっくりくるものに感じる人は、このあとも増え続けるのだろうし、若い人は特にそうなのだろう。

だからこそ、自分であることで音楽をしているひとの象徴であるような橋本絵莉子が分人主義のことを面白がっているというのをわざわざテレビでやっていることに、なんだかなと思ったのだろう。

本当に、橋本絵莉子ほど橋本絵莉子にしか見えないひとはいないのだし、その演奏している姿を見ていれば、人間はどんなふうにして人間なのか、感じるものがあるはずだろう。

人はどこまでもその瞬間を堂々と生きることができるのだし、そうしたときには、本当の自分もくそもないのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?