見出し画像

【小説】つまらない◯◯◯◯ 40

 今となっては、三十二歳にもなったうえで年上の女の人と付き合っていて、そんなふうに思っているというのはおかしなことだなと思うけれど、そのとき、俺は自分が女の人からそんなふうに思われるなんて思っていなかったのだ。
 それまで俺が付き合っていたのは、自分のことで忙しい人ばかりだった。誰も俺との未来なんて考えていなくて、お互いにとりあえず今が楽しければいいという気持ちで付き合っていたのだと思う。その人のように、仕事に全力で打ち込んでいて、やることをやったうえで、残りの時間はできるかぎり好きな人と一緒に過ごしていたいと考えている人と付き合ったのが初めてだった。その人は、仕事をする以外には基本空いている人だった。俺といることを好きでいてくれたし、だいたい土日は俺の部屋に来ていたし、どこかに出かけたり、泊まりがけの旅行にも何度も行った。楽しかったけれど、一緒にいる時間が長すぎるようにも思っていた。楽しかったけれど、そんなに楽しいことばかりでなくてもいいのになとも思っていた。
 一緒に時間を過ごすほどに、俺はその人を好きになっていった。けれど、その人からずっと一緒にいたいと言われて、それに応じなかった。今は一緒にいて楽しいけれど、ずっと一緒にいたいと思っているわけではないと伝えた。その人はそれでもいいと言っていた。俺が自分との関係をやめたいと思うときまで一緒にいられればいいと言っていた。
 けれど、俺はその人に幸せになってほしかった。その人が望んでいたような、好きな人と一緒にお互いを大切にし合いながら生活する未来を手にしてほしかった。そして、時間が経てば自分がこの人の気持ちに応えられるときが来るとも思えなかった。だから、俺がいつか無理になると思っているうえで、このままその人の未来の可能性を奪っていくのは嫌だと言った。自分の望む未来に近付いてほしいと言った。これから先の長い時間を幸せになれる可能性がある相手を探して、その人を選んでほしいと言った。それは、付き合いだして半年もしないくらの頃にした話だった。そして、数カ月おきに同じ話を何度も繰り返した。そして何度目だったのかわからないけれど、同じ話をして、二ヶ月くらい前に別れたのだ。
 その人と一緒にいることを選べなかったのは、そもそも自分が未来のことを考えられなかったことが大きかったのだと思う。そもそも自分がこの先どんなふうに生きていきたいかというイメージがなかったから、その人であっても、どんな人であっても、何も自分の未来にぴったり当てはまることがありえない状態だったのかもしれない。
 けれど、無理やりイメージをしてみようとはしたのだ。この人とずっと一緒にいるというのはどういうことなのだろうかと考えた。話は合うし、何の話でもできる。一緒に何かをしているのも楽しい。一緒にご飯を食べているのも楽しい。一緒に音楽を聴いているのも楽しかった。セックスは多少噛み合わないところもあった。その人が俺に触れてくるときの手の伸ばしてき方が、俺が他人とのあいだで無意識に計っている距離感とは合わなかった。その人が俺に触れてくるときに、一方的な触ってき方に感じてしまうことがあって、俺は反射的に警戒するような、嫌がるようなリアクションをしてしまうことがあった。「傷付けようとなんてしていないのに、傷付けようとしているようにリアクションしてくる」と言われたことがあったけれど、その人だって、その人なりに距離を計ってくれていたのだろうし、無神経に触ってきたわけではなく、むしろ触りたい気持ちをちゃんと持って触ってくれていたのだとは思う。けれど、俺とは合わなかった。俺の呼吸に合わせて手を伸ばしてほしいのに、俺からすると、向こうの呼吸で一方的に手が伸びてきたり、身体が近付いてくる感じがした。それはセックスのときの距離感にしても同じだった。気持ちよくなってくれていたから間は持っていたけれど、距離感としては噛み合わないものをちょくちょく感じていた。もちろん、ただ不満に思っていただけではなく、それについても話をした。けれど、お互いに萎縮しただけだったのだろうし、時間が経つにつれてセックスの頻度は落ちていった。
 セックスがもっと噛み合うようになって、それがずっと続いていたら、何か違っていたのかもしれないとは思う。けれど、セックスが噛み合わないのが嫌だったというわけではないのだ。相手の容姿とか嫉妬とかセックスとか、そういう何かしらの性質に引っかかっていたわけではなく、物足りなかったことが一番大きかったのだと思う。その人といるのが簡単すぎて、楽すぎて、困ることも追い詰められることもなくて、それが物足りなかったのだ。
 その人と一緒にいるのは充分すぎるほどに楽しかった。けれど、だんだんと自分の気持ちをすべて持ち込んで話すことができなくなっていった。お互いを知っていく段階でいろんなことを話している中で、自分の感じ方のどういう部分が相手を傷付けるのかを知って、それを話さなくなっていったし、相手のほうも、俺を傷付けないように思ったことを言わずにおくことが増えていったのだと思う。今まで付き合っていた相手とは比べものにならないくらい、この人を傷付けたくないという気持ちが強くなっていたけれど、傷付けない範囲を踏み出さないように関わってしまったときに、その人と一緒にいることは俺には簡単すぎてしまったのだ。それでも、一緒にいて楽しかったし、大切に思っていたし、大切にできていることがうれしかった。だから、俺がひとりになるたびに少し退屈に思ってしまうような付き合い方であっても、相手が満足してくれているのなら、そうしてあげたいとも思っていた。けれど、自分の退屈もどうにかしたかった。
 そういうことを話して、別れ話をして、けれど別れなくて、ということを何度も繰り返していた。そうしているうちに、関係性はだんだんと変わっていっていたのだとは思う。お互いの気持ちがぶつかり合うことが減っていって、相手が何を言っても、そこにその人らしさのようなものを見つけ出して、何もかも肯定的に受け止めあえるようになっていった。そうなっていくことで、その人のことをもっと好きになったし、その人と一緒にいることは、むしろどんどん楽になっていった。けれど、満たされないものは残り続けて、だから、俺はやっぱりちゃんと終わらせたいと思った。先延ばしにしているだけで、先延ばしにするほどに、もっと一緒に時間を過ごすことでより相手を好きになる。けれど、自分はこの人との未来を選ばないだろうという気持ちは、最初に別れ話をしたときから、多少気持ちが揺れるくらいで、結論が自分の中で動いたことはなかった。これ以上先延ばしにして、もっとお互いに好きになったうえで、もっと深く傷付けるのも嫌だった。だから、とにかく離れてしまいたかった。この先傷付けることになるのなら、さっさと今終わってほしかった。
 今になって思えば、素敵な人だなと思っただけでは、近付いてはいけない人だったのだと思う。その人は一緒に生きていける相手が欲しかったのだ。好きで、一緒にいて楽しくても、ずっと一緒にいるには物足りないなんて思ってしまうような、まだ誰とも一緒にいようという気がないのに等しかった俺はそもそも対象外だった。対象外でも、近付いてしまえば楽しく時間は過ぎて、お互いを好きになってしまう。けれど、対象外は対象外なままで、そこから変わらなかったりもしてしまうのだ。
 好きになったぶんだけ、よりいっそう悲しませただけだったようにも思う。俺としては、たくさんいろんなことを感じたし、好きになれてよかったと感謝している。けれど、頭ではそう思っても、気持ちとしては、好きにならなければよかったという思いは消えなかった。その人を傷付けた感触は俺の中にずっと残っていくのだ。そして、俺の中に残った痛みとは比べものにならないほどの痛みをその人の中に残してしまったのだ。
 聡美は脚をゆっくりと上げ下げしていた。腿の内側の白さを視界の中に感じながら、少し息苦しい気がして、口からゆっくり息を吐いた。
 聡美とも同じことになるのだろうなと思う。もうすでに、好きにならなければよかったと思い始めているのだ。一緒に生きていく人が欲しいのなら俺じゃないのだろう。俺は聡美の前に付き合っていた人とのそういう別れのあとでも、物足りなさに固執しようとしている。あの人と同じことになるのだと思う。同じように、とても深く好き合うようになれるだろうし、俺は聡美のことを好きになりながら、聡美と一緒にいることが物足りなくなっていってしまうのだろう。幸せや安心を求めている人に、幸せや安心で満足できるわけでもない自分が近付いてはいけなかった。聡美を好きになれただけで満足しておくべきだったのだ。
 もっと早く、幸せになりたいのだということを話してくれていればよかったのにと思う。二ヶ月くらい毎日メッセージをやりとりして、十回くらいは二人で飲んでいたのに、全然大事なことは話していなかったんだなと思う。付き合うとかそういうことが一切話題にならなかったし、俺もそれをあまり意識していなかったとはいえ、俺について知っておいてもらったほうがいいことも全然話していなかった。
 けれど、そういうものでもあるのだろう。今までの人とも、セックスしたりとか、付き合いだしたりする前に、そんなことを充分に話していたことなんかなかったのだ。自分のことをある程度わかってもらえていると思ったうえで付き合いだしたことなんて今まで一度もなかった。そして、そんなこと無理なんじゃないかとも思う。セックスしないと、本気で相手の話を聞くなんてことはできないのだ。セックスしたり一緒に寝て起きてということを繰り返しながらたくさんいろんな話をして、お互いにわかりあっていけるものがある。聡美にしても、これからなのだとは思う。俺のほうだって、セックスしながら聡美の気持ちに触れていくことで感じることがあって、その感じたもので自分の思い方は変えられていくのだろう。聡美の前の人と付き合っている中でも、俺の中で変わっていったものはたくさんあったのだと思う。たしかに、聡美の前の人と付き合う前の俺と聡美が付き合ったとしたら、前の人と同じことになるのだろう。けれど、その頃の自分と今の自分は同じではないし、これから聡美と過ごすことでまた変わっていくのだ。まだ聡美をたくさん感じてはいなくて、聡美のことをどういうふうに思えばいいのかもわからなくて、そんな状態で前の人を傷付けたことを思い出して、相手を傷付けることで自分が傷付きたくないと逃げたくなっているだけなのかもしれない。
 お互いの気持ちなんてまだほんの少ししかわかっていないのだ。今俺が怯えている、聡美から向けられている気持ちも、セックスしたから聡美が俺に向けてくれた気持ちなのだ。そして、まだセックスをしてからの時間を一日しか過ごしていなくて、これから、今まで付き合った人としたように、もっといい時間を一緒に過ごして、もっといろんな聡美に触れていって、そうしないと聡美はどうだからなんて言えないはずなのだ。
 聡美は仰向けで両手を上に突き出していた。だらんと何を見ているわけでもない顔をしているけれど、口元はずっとうっすらと笑っているように見える。
 まだストレッチが終わっていないことに気持ちが焦れているような気がした。くよくよしたことを思っていてもそうなってしまうということなのか、むしろそういうことを思っているからなのか、俺は早く聡美に触りたいんだなと思った。
 触りたいという以上に、考えるのをやめてしまいたいのだろう。考えるより、聡美に求められるままに過ぎていくような時間に埋もれていきたいのだ。その中でまた何か思ったのなら、そのときにちゃんと考えてみればいいのだ。いろいろ思ってしまうだけで、どうしたところで、今は何もわかっていないのだ。


(続き)


(全話リンク)


この作品よりあとに書いたものなので、こちらのほうが面白いです

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?