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恋愛で人格が激変したようでいて、それでも「イントゥ・ザ・ワイルド」が好きだった彼女

(こちらの記事の続きとなります)

恋人との関係を自分にとっての安全な場所にしたいとか、そういう安全な場所を確保していたいという気持ちは、寂しさと不安が強い状況をずっと生きていれば当たり前のように湧いてくる気持ちなのだと思う。

俺が付き合った人にしても、二十五歳から四年付き合った人以外は、みんながそういう気持ちを持っていた。

二十五歳から四年付き合った人は、家族とか家庭に対して、ただ不幸を作り出すことしかできない、よくない仕組みというようにしか思っていなかった。

記憶にあるかぎり、両親が一緒に笑い合っている光景を一度も見たことがないというような環境で育ってきた人だった。

家庭の外でもうまく馴染めず、帰国子女だったけれど、アメリカでは差別され、帰国してからもいじめられた。

ひとりで部屋の中で遊ぶか、犬と遊ぶかして過ごすうちに子供時代が終わっていて、そのあいだも、そのあとも、ずっと家庭内の不和は続いた。

俺と付き合いだした時点でも、その彼女は、誰からも守ってもらうつもりがなく、誰のことを守りたいとも思っていなかったのだと思う。

この人はひとりで生きているつもりだし、これからもひとりで生きて、ひとりで何かを感じて、ひとりでそれを面白がっていくようなつもりでいるんだなと思っていた。

そんなふうな、誰かがそばにいることに安心できることを最初から諦めてしまっているような、世界全体に対しての根深い不信感もありえるのだ。

それは暴力に対しての防御としての不信感というよりは、世界中の誰も自分を大切に扱わないことへの適応という感じだったのだろう。

何かへの復讐として作り上げられた世界観ではなく、ただ静かに、そうでしかないものとして、自分が感じてきた世界を受け入れているような眼差しだったのだと思う。

その彼女も、何年か俺と付き合っているうちに、自分にも他人の気持ちをしっかりと感じ取ることができることや、自分次第で他人に気持ちが通じることに、だんだんと気付いていった。

もともとエネルギーの強い人ではあったけれど、俺はどんどんと変わっていくなと思いながら、どんどんきれいになっていくその人の姿を見守っていた。

けれど、付き合って何年かが経って、その人がこの映画が面白かったと教えてくれたものを観てみたとき、その人がどれだけ変わったからといって、その人の世界への不信感はちっとも変わっていないのだと知って驚いた。

まだこの人には、自分と世界という区別しかなく、自分と自分の仲間と世界という感じ方にはなっていないのだなと、悲しいような寂しいような気持ちになった。

その映画は、自分が傷付いて壊れてしまっていることに気が付いていない青年が、不幸な家庭を抜け出して、すべてを捨ててひとりで旅に出るというものだった。

彼はいろんな人との優しい関わりに助けられながら、けれどその優しさを自分の胸の奥深くには受け入れることなく、感謝を述べて、自分を見詰める相手の憐れみの目にも気が付かないままにその場を離れ、旅を続けていく。

そして、他の人のいない、自分ひとりの美しい世界にたどり着き、人間を寄せ付けないような自然の美しさと圧倒的な強さに苦しみながら、満足そうに打ちひしがれて死んでいく。

俺にとっては、かわいそうな青年のかわいそうな話だった。

生まれつきの気質もあるにせよ、不幸によって自覚のない自分本位さへと壊されてしまった人間には他人の気持ちは届くことはなく、けれど、そういう人間はひとりのままで自分の中に喜びを見つけ出して、自分が決めたようにどこまでも自滅していける。

そういう現実の中にあふれかえっている憐れな生き方を美しい景色として描いていた。

けれど、その彼女がその映画をかわいそうな話として観ていないことは明らかだった。

自分に見えている世界と同じ温度感でシーンを進めていく画面を、彼女は夢を見るようにして観ていたのだろう。

しがらみを振りほどきながら、すれ違う人たちとの交流の中で自分の力と正しさを確かめながら、自分ひとりで未開の世界に分け入っていき、自分がたどり着きたかったところにたどり着いてそこが美しかったという、静かな興奮に包まれる映画というふうに思ったのだと思う。

その彼女とは何度も一緒に映画を観た。

俺と付き合い始めたころは、話の筋や細かな仕掛けに意識がいきすぎているような、頭でっかちな観方をしていたけれど、だんだんと映画自体のテンションや、物語の登場人物の感情に気持ちを動かされるようになっていった。

面白かったと教えてくれる映画もだんだん種類が変わってきた。

そのかわいそうな青年の映画は、特に印象深かったと言われて、俺も楽しみにしながら観たのだ。

映画自体はしっかりとした映画ではあった。

けれど、気持ちを揺さぶられるというよりは、かわいそうにと思わされるようなものだった。

彼女にとっては、まさに自分のための映画だったのだろう。

俺もまさに彼女のための映画だとは思った。

そして、何年経っても彼女はまだその彼女らしさの中にいるのだなと思った。

自分がかつてそこにいた世界として、懐かしくも憐れに思ったわけではなく、素直に自分に直接届くものとして、青年の旅路に心を動かされていたのだろう。

俺が付き合いだした頃とその映画を薦めてくれた頃では、彼女は外見にしても生活や人付き合いにしてもずいぶん大きく変化していた。

友達もできて、後輩にも慕われ、自分のやりたいことで生計を立てていくことを決めて順調にスタートを切っていた。

自分が気に入るような男から好意を寄せられることも多くなった。

生活している中で自分を軽視したり敵視したりする視線を受ける量はかなり減少しただろうと思う。

けれど、多少自分の満足がいくような日々を過ごせるようになったからといって、人はそう簡単には変わらないのだ。

それは当たり前のことなのだろう。

けれど、それほどまでに自分の能力も生活も変わったとしても、それでも感じ方というのは変わらないものなのだ。

不幸に生きてきた人は、自分の不幸な状況をやり過ごせるように、不幸に適応したものの見方を、あまりにしっかりと自分の中に根付かせてしまうのだろう。

そして、そういうものを根付かせたままでも、うまく人と関われるようになっていけるし、物事を面白く受け取ることができるようになっていける。

誰かに守られたいとか、誰かと一緒に生きていきたいと思うこともなく、敵も味方もいない、ただいろいろと過酷なばかりの世界を、ひとりで楽しみを見つけながら生きていけるのだ。

三十代の中頃で付き合った彼女の場合は、かなり気持ちの交流のしっかりした家庭に育ったのだろうと思う。

根の人懐っこさと素直さは、小さい頃には安心して無邪気に過ごすことが許されていたことで身についたものなのだろう。

そして、そこからこじれてしまったからこそ、幸せな安心を知っているぶん安心に飢えてしまうのだろう。

三十代の中頃で付き合った彼女にしても、女として生きてきたというだけではなく、その人なりの不幸があったのだろうと思う。

女として扱われることのくだらなさにすれているというのとは別の屈折がその人にはあるように思う。

俺が二十五歳から四年付き合った人は、子供の頃に人間と人間が関わること全般に対して、瞬間瞬間の喜びは認めても、関係性としては結局のところ不毛なところにしかたどり着きようがないというような、あっけらかんとした種類の諦めをすませてしまったのだろう。

三十代の中頃で付き合った彼女の場合は、それとはまた違った、自分という運命に対しての憎しみのようなものを持っているのかもしれない。

そして、それはより苦しみの強いものなのかもしれない。

人間と人間が関わること全般への諦めであれば、自分は憎まずにすむ。

自分がどうであれ、世界がそんなものであるというだけなのだ。

けれど、自分のもとに偶然送り込まれた不幸に自分がうまく対応できず、それに深く傷付けられ、その不幸に引きずられて自分自身が歪められていって、けれどそれをどうすることもできないまま歪んだ自分が自分自身になってしまったのなら、その人は世界ではなく自分を憎むようになってしまうのだろう。

みんなではなく自分に起こった不幸に自分ひとりが傷付いて、誰もそれをとりなしてくれることもないのだ。

二十五歳から付き合っていた彼女は、それよりはもっと乾いた不幸を生きていた。

彼女にとって世界というのは、その映画で主人公がたどり着いた場所のようなものだったのだろう。

草花や空や雪はきれいだったりしても、自分と似ているようで、どこか違っている生き物がちらほらしているだけで、自分は自分ひとりしかいない、そんな空っぽな世界を生きていたのだろう。

みんな違う生き物だから、わかりあえないのは当たり前で、たまにわかりあえる相手に出会えると楽しいなと思う。

けれど、自分とは別の生き物だから生態も違って、どうしたところでそのうちお別れになってしまう。

そんなさっぱりしているようにも思えるような、荒涼とした思い方をしていたのだろう。

つい数ヶ月前、その彼女から電話があったときに、新しい男と付き合うことになりそうだと話していた。

今はすごく好きだと思っちゃうけど、ずっとその人を好きな自分はまったく想像できない、そのうちに飽きるし、飽きたら一緒にいられないんだろうなとは思ってる、というようなことを言っていた。

一年くらい前、俺と別れたあとに付き合っていた彼氏と別れて、それと並行して好きだった男とこれから付き合うことになりそうだという話をしていたときにも、同じことを言っていたなと思った。

俺が出会った頃のまま、結婚したいという気持ちもなく、いつか子供が欲しいと思ったこともなく、誰であれずっと一緒にいることはできないのだろうと思ったまま、そういう乾ききった空っぽな世界を今でも生きているのだろう。


(続き)



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