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男が女を理解できないのは、女たちが傷付きすぎていて、しかもそれが女であることで傷付けられているから

男の多くが感じていることだろうけれど、女の人と接していると、女の人たちのあまりにも多くがあまりに深く傷付けられていて、その多くがあまりにも傷付けられることを恐れすぎた感じ方で生きていることに、悲しくなってしまうことがある。

そして、それがわかっているうえで、個別の女の人に関わるたびに、この人もこんなに傷付いているのかと悲しくなってしまう。

女の人たちにとって、世界は自分を傷付けすぎるもので、自分を不安にさせすぎるものなのだろう。

昔は今の比較にならないくらい家の中で女の人が殴られていたのだろうし、今とは比較にならないくらい好き勝手に犯されていたのだろう。

今だってそういうことはなくなっていないし、今だってそんなことはどうしようもなくありふれた話だったりするくらいに、あまりにも当たり前のように行われすぎているのだろう。

そして、女同士の世界だって、その中にいる人たちを傷付けすぎるし、不安にさせすぎるものなのだろう。

誰もが被害者で、そして被害者同士のあいだにも、根深い軽蔑と上辺の共感しかありえないかのようで、周囲を見渡しても、遠くの女たちを見てみても、女であるかぎり、女であることから逃げられないことは明らかなのだ。

女の人には世界はどんなふうに見えるのだろうかと想像してみると、うんざりした気持ちになる。

何もかもが最初から自分ひとりではどうしようもない状態で、男という暴力と、女同士という傷付け合いに、いつまでも延々と消耗させられていくしかないのだ。

クズのような男はあふれかえるほどいて、その内の誰かに目をつけられてしまえば、少ししつこいくらいのアプローチに見せかけて近寄られ、少し油断するだけで逃げられない状況に追い込まれて、暴力で脅されながらレイプされてしまう。

抵抗すれば殴られて、あざができて会社を何日か休むのだろう。

その後もしばらく怯えながら暮らして、生理がこなくて、ふとするたびに涙をこぼしながら毎日を過ごし、ひとりで産婦人科に行って堕胎する。

ひとりで家に帰り、ぐったりとベッドに横になり、朦朧とした意識の中で、もうずっと泣き続けなのにいつまでも涙が止まらなかったりするのかもしれない。

女であるだけで、常にそういう可能性をちらつかされて生活しないといけない。

自分を見る目付きが汚い男は、道を歩いていても、電車に乗っていても、会社で仕事をしていても、毎日一日で何人いたのか数えきれないくらいにいる。

自分の身が脅かされているのは、宝くじが当たるようなほぼ存在しないような可能性ではなく、具体的な脅威なのだ。

俺の友達にいるかは微妙なところだけれど、知り合いくらいにまで範囲を広げれば、その中にはレイピストもいるだろうし、本人はそのつもりではなくても、相手の女からあれはほとんどレイプだったと思われているようなことをしたことがあるやつは何人もいるのだろう。

相手の女の反抗がもう少し弱ければそうしていたやつも含めればもっと数は増えるのだろう。

相手との関係が壊れてしまうのが嫌だったから殴ったり叫んだりはしなかったけれど、ちゃんとわかるくらいに拒否していたのに相手が止まらないからそのままになって、けれどすごく嫌だった、というようなケースも入れればかなりの割合になるのだろう。

俺だってそれにあてはまってしまうんだろうなと思うセックスは、かなり昔とはいえあったりする。

それはその人があとになって嫌だったと教えてくれたけれど、それを聞かされて、自分の中のセックスとはどういうものなのかというイメージは多少なりとも変わったように思う。

俺が女の人を前にしたとき、触りたいなと思っていても、相手のほうも自分に近付こうとしているような雰囲気がないと近付こうとできないのも、無意識にそういうグロテスクなことをできるだけしたくないと思っているからなのかもしれない。

俺は合コン的なものとか、男女混合的な飲み会の席に参加する機会がほとんどなかったから、女を欲望の対象として見て、自分の欲望を満たせそうな方向へ相手を誘導しようと態度で圧力をかけている男の顔というのは、ほんの少ししか実物を見たことはないけれど、けれど、その少数のサンプルはどれも、へらへらした演技をしている目の中が濁っていて、何を感じているのかも、何を考えているのかもわからなくて、ひどく不気味なものだった。

当たり前のことだけれど、俺が付き合った女の人たちは、全員、男にひどく嫌な目に合わされたことがあった。

それは、電車内での射精を伴う痴漢行為だったり、夜中に道を歩いていてのつきまといだったり、日常的なシーンの中で欲情した目付きで必要なく身体を触ってこられたりだとか、手をあげられたりだとか、もっとひどいものだったり、みんなが何かしら嫌な目にあってきた。

女として生きていくと、そういう嫌な目に合わずにいられる可能性はほとんどありえないということなのだろう。

自分の過失や自分の醜悪さではなく、ただ女であるだけで嫌な思いをしなくてはならないのだ。

もちろん、女の人のすべてがそんなふうに自分が女だから嫌な思いをしていると思っているわけではないのだろう。

何でも自分次第だと思えるのだろうし、そう思えないのは自分を弱者だと思っている場合だけではあるのだろう。

けれど、自分で弱者だと思わなくても、他人から弱者の立場を強制される巡り合わせを生きてきた女の人がたくさんいるのだと思う。

そして、それは弱者の苦しみというよりも、女としての苦しみなのだろうとも思う。

弱ければ強くなればいいのかもしれないけれど、女であることはどうしようもない。

だから、俺にはこんなにも想像もつかなくて、こんなにも共感できないのだと思う。

自分の母親にしても、付き合ってきた人たちにしても、俺からすると近付く気にもならないような女の人たちにしてもそうだけれど、そういうふうに苦しんできた女の人を目にしてきて、大変だなとは思ってきた。

けれど、俺のように苦痛の少ない世界を生きてきた人からすると、暴力と暴力への不安に苛まれた人たちの、不安や寂しさに歪められてしまったような気持ちの荒み方というのは、そんなふうにならずにやってこられたらよかったのになと、ただただ残念なものに思えてしまうものなのだ。

女の人の多くが自分の中に根付かせている、他人全般を前提として醜くつまらないものに思ったうえで、他人をすぐに敵とか味方とか何かしらの分類をして、それ以上にはその人のことを感じようとしないことだったり、自分の味方だと思っていない相手や集団と一緒にいる状況の中での心の落ち着きのなさや、自分の苦しみを基準にものを考えるような考え方に触れるたびに、そんなふうだとつまらないだろうと、もったいなく感じてきた。

常に傷付けられるかもしれないという不安の中で過ごさなくてはならない女の人が、安心したいと強く願うようになるのは、ただただ当たり前なことというだけなのかもしれない。

けれど、俺はその安心という感覚がよくわかっていないのだと思う。

何が安心なのかということすら、自分の中では曖昧だったりする。

まだ自我がないころは、母の胸の中に戻るたびに安心したりしていたのだろう。

嫌なことや不安なことがあっても、家に戻るとそれが消えて、その解放感を心地よく感じたりしていたのだろう。

けれど、自我が芽生えて以降、俺はあまりにも身の危険を感じるような脅威がない状況ばかりで育っていったのだと思う。

不安なことはあっただろうけれど、それは自分が何をどうすればいいのかわかっていないから不安な場合ばかりだった。

自分がよくないことをすれば嫌がられたり怒られたりしたけれど、自分が何もしていないのに嫌がられたり怒られるような理不尽な思いをすることがなかった。

自分の意志とは関係なく、他人が自分に暴力を振るってきたり、他人が自分をのけ者にしたり、自分を貶めてきたりするようなことがなかったし、そういうことを不安に思うことがなかった。

新しい人間関係の中に入れば、しばらくは緊張感があったりしたけれど、それも少し時間が経てばほとんどなくなってしまっていた。

不安な状況に置かれることがなくなったことで、自分の場所に戻ったときに特に安心を感じることもなくなっていったのだろうし、そのうちに自分の場所という感覚すらよくわからなくなっていったのだろう。

中学とか高校の頃には、自分の部屋のことも、ただ壁で隠されている場所という以上に特別な場所と思っていたか、微妙なところだったのだと思う。

そして、これは不安がなかったからそうなったわけでもなかったのだろうけれど、俺は二十歳を過ぎてから、だんだんと誰かを自分の身内のように思ったりしなくなっていった。

友達という感覚がだんだんわからなくなっていった。

多分この人は友達なのだろうと思いながら、その人に対して、友達だから何をしてあげるとか、友達なのだから自分にこれくらいしてくれてもいいはずだとか、そんなふうに思うことがなくなっていった。

家族にしても、緊張感なく当たり前のように一緒にいられるとはいえ、親が俺のことを自分の子供としか見ていなくて、一人の人間として人格を見出そうとしていないことを虚しく思いながら、喋れば喋るほどいちいち表立たないくらいに小さく誤解され続けるのを感じながら、さほど安心した気分もないままに過ごしていた。

大学を出る頃には、この人は自分の敵だとか味方だとか、そういうふうに思うこともなくなっていったように思う。

相手が俺の味方ぶっていても、その人を自分の味方として扱ったり、味方っぽく曖昧に打ち解けたりすることができなかったし、逆に、相手が俺を敵視していても、反射的な不快感や敵意を自分で抑えようとするようになっていった。

内と外という感覚が希薄になっていったということなのだろう。

仕事でも友達でも誰に対しても、人に合わせる度合いが小さくなって、上司扱いとか友達扱いとか彼女扱いしている度合いが低すぎて、そっけなく思われているのかもしれないと思うこと増えてきた。

実際、ひとりでいても、外で他の人たちの中にいても、思うことはほとんど変わらないように思う。

だからなのだろうけれど、外で人に合わせて気疲れしたから、家では気楽になりたいとか、そういうよく言われているような切り替えの感覚が俺の中にはあまりなかったりする。

そうしたときには、安心というものがどんなふうに大切なのか、よくわからないままになってしまったりもするのだ。

男にはそういうパターンがある。

女の人のように、常に脅威にさらされ、常に悪意に取り囲まれ、自分の安全な場所を確保しなければ落ち着くこともできないという状況がほぼ確実に強制されるというわけではないのだ。

不安とか安心という感覚と無縁に育っていくケースが男にはありえてしまう。

特に、三十代の中頃で付き合った彼女はまったくそうではなかったのだろう。

女であるというだけでひどく傷付けられたのだし、ずっと傷付けられる可能性に脅かされてきたのだ。

もちろん、そういうことに怯えるばかりで時間を過ごしてきたわけではないだろう。

たくさん遊んで、楽しいこともたくさんあっただろうし、仕事をがむしゃらにやっていた時期もあったのだろう。

けれど、好きな男ができても、その男とは不倫とかセックスフレンドのような付き合いだったりして、自分のそばに誰もいないことを寂しく思う時間は多かったのだろう。

楽しい用事をたくさん作って、楽しく過ごせる時間を増やしていっても、生活全体としては、どうしたところで、ひとりになるたびに不安になってしまうような生活だったのだろうし、だからこそ、恋人との関係を自分にとっての安全な場所にしたいと思っていたのだろう。


(続き)


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