「学校が楽しくない」という生徒
「学校が楽しくない」という相談を受けることがあります。
直接本人から相談されることもあれば、保護者から間接的にそういった話を聞かされることもあります。
もちろん、楽しくないというのが暴力やいじめに類する行為であれば、しかるべき処置を速やかに行います。
しかし、これらの相談の多くはそうではないように感じます。
「学校が楽しい」という幻想
ドラマやアニメ、漫画から、あるいは充実した学校生活を送った先達からの聞きかじりからか、「学校が楽しい」という前提条件が令和の現代に至るまで流布しているようです。
しかし、それこそが幻想ではないでしょうか。
そもそも、対して仲良くもない人間を何十人も狭いスペースに押し込め、来る日も来る日も知識を詰め込み、会話表現ややり取りを強制させられる、そんな環境が楽しいわけがあるでしょうか。
あげくには、同じ服を着せられ、同じ時間に食事や休憩を強制させられています。
学校という場所は本義的には、子供を社会に適応させるための矯正施設に過ぎず、楽しい場所とはかけ離れた存在ではないでしょうか。
「一部の例外」を全体に当てはめてしまう過誤
ところが、幸か不幸かそうした特殊な矯正施設に対して極端に相性の良い「一部の例外」というべき人間が存在します。
彼らは同じ服を着て同じ行動をさせられることを「一体感」という言葉で解釈します。
強制的な知識の習得を「知性の向上」と、仲良くもない人間との会話を「コミュニケーションの実践」と読み替えることができる特性を持っています。
こうした特殊な事例を、あたかも普遍的であると認識することは大きな過誤です。
教員もまた「一部の例外」である可能性が高い
教員の多くが「一部の例外」である可能性は極めて高いようです。
彼らは学校という矯正施設の適応者であり、彼らの多くが好印象をもって出所したために、施設職員として就職を希望した人たちです。
「一部の例外」と幻想が組み合わさった結果、「学校が楽しくない」生徒の存在という解決しない問題が発生しているように感じます。
「楽しい」の概念が共有できない
そうした「一部の例外」以外の人は本来は学校を楽しいと思うことは本来あり得ません。
しかし、幻想を信じた結果
楽しいのが当然 → 楽しくないのは不当 → 楽しませるのが当然
というロジックを無意識に組み立て、誰かが楽しませてくれるというお客様感覚を抱いてしまうケースが考えられます。
しかし、その要求に教員が応えるのは非常に困難です。
物理的な時間や人員の制約ももちろんありますが、それよりも根本的なズレが存在します。
学校組織や教員が「一部の例外」であるために「学校が楽しくない」生徒と「楽しい」の概念を共有することができないのです。
そのため、学校という矯正施設において「楽しくない」という人々に根本的な解決策を提示することは不可能となります。
仮にいかに「楽しませる」ことに学校や教員が腐心しても、「楽しい」の概念が共有できていないため、ピントのずれた対応に終始してしまうのです。
「楽しくない」という前提の上で何を「楽しむ」か
学校や教員、あるいは「一部の例外」が楽しませてくれることが不可能であるとなった時、「学校が楽しくない」生徒の残された道は何でしょうか。
学校以外の場所を探すか、何か別の「楽しむ」ことを見つけるか、です。
そうした道の一つが通信制高校の増加などになっているのだと思います
習い事や塾、予備校、最近で言えばオンラインサロンなども「楽しむ」ことの一つとなりえるでしょう。
学校や教員ができることは「解放」
では、「楽しい」の概念を共有できない学校や教員は無策でよいのでしょうか。
これに関してできることは一つと私は考えています。
ただ「解放」するのみです。
善意で考えた「楽しい」はほぼ既存の学校の規律や束縛の上に成り立っているものに過ぎません。
いくら工夫をしても、その土台の部分に拒絶反応が出ている状態が「楽しくない」の正体だとしたら、できることは規制を弱め、拘束時間を短くするしかないでしょう。
果たしてどれだけ「解放」できるか、旧来の学校には難しい問いになりそうです。
「解放」せず、旧来の姿勢を貫き通すという考え方もあると思います。それはそれぞれの教員や学校によって判断するものでしょう。
また、「楽しい」と感じる人を否定するつもりはありません。それこそが最も幸福なのだと思います。
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