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「科学リテラシー」教育と新課程

高等学校で学ぶべきこと

近年は高等学校で学ぶべきことが増えてきています。

これは社会や保護者の要請であったり、文科省の方針であったり、ロビー活動の結果であったり、理由は様々です。

ここ最近の話では、金融教育がその代表的な物でしょう。


これらを学校のカリキュラムに導入することに対し賛否が分かれています。

しかし「必要である」という声を受けているのは間違いありませんし、全く効果がないという物でもないでしょう。

そして現在、議論の叩き台にはあまり上がっていませんが、重要性を増しているのが「科学リテラシー」教育です。

「科学リテラシー」教育

「科学リテラシー」の定義に関して調べてみると

アメリカの国立教育統計センターによると、科学リテラシーとは「個人としての意思決定、市民的・文化的な問題への参与、経済の生産性向上に必要な、科学的概念・手法に対する知識と理解」であるとされる。

Wikipediaより

要は、科学的な思考を通じて意思判断ができるか、ということのようです。

新指導要領や共通テストも「科学リテラシー」を重視する方向性で作成されています。

実際、教科書には現代社会と科学的知識の関わりの内容であったり、テストの中に現実での応用例を踏まえた出題がなされています。

その方針は決して悪い方向ではないと思うのですが、近年、必要とされる能力をそれで得られるか、というと接点が少ない気がします。

既存のカリキュラムでも、知識や思考は不足していない

現行の指導要領や教科書、センター試験では「科学リテラシー」の習得に対し内容が不足していたのでしょうか。

おそらくそんなことはないでしょう。

英語や古典文法、用語に関しては現行課程のものが新課程よりも多いぐらいです。自然科学関係のものに増減はほとんど無いようです。

また、国公立大学の記述試験の対策をする場合、十分に思考の深さを問うてきました。

にもかかわらず、「科学リテラシー」は依然として身についていないのです。

入試で必要なものを「勉強」することで、身につかなくなる

日本においては入試に合格することを勉強として認識しています。

自らの教養を高め、見識を広めることよりも一点を取ることに価値を見出しがちです。教養としての知識と受験勉強が乖離してしまっているのです。

特に受験期においてはその傾向は顕著になります。

その結果、折角学校で得た知識が一切日常生活にフィードバックされないことになっています。

物理で習っているのに放射線の性質を理解せず原発アレルギーを起こし、生物で学んだのにmRNAの意味が分からず反ワクチンに傾倒する。

化学で学んだ物質の性質(沸点、親水疎水、半透膜など)を考えて料理ができず、政経や現代社会で扱った選挙の仕組みや法律の重要性を解さない、そんな大人がたくさん存在します。

習っているにも関わらず、です。

今回の改定で最も危惧するところは、そうした潜在的に学習内容に組み込まれてきた教養的な知識の部分を顕在化させて、大学入試の問題に落とし込んだところです。

これにより教養的な知識や思考が、受験までしか必要でないツールへグレードダウンしてしまいました。

その結果、受験までで忘れるという大量のマス層を生み出す危険性があるように思います。

「科学では説明ができないもの」はあれども、「科学以上に説明できるもの」は存在しない

中等教育において大事なことは、「科学では説明できないもの」は今の時点では多く存在すること。

そして「科学以上に説明できるもの」は存在しないということ。

この2つをきちんと教え、共有することだと思います。

そのためにはまず「科学的に説明をし尽くす」ことが求められます。

感染症やワクチンに対しての自然科学的説明、自らの労働環境や校則といったものに対しての社会科学的説明など、様々なものをきちんと説明することから「科学リテラシー」の萌芽は起こるように思うのです。

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